第16話 講義

 翌日、学政がくせいによる特別講義が行われることになった。

 院試が行われる会場、試院しいんと呼ばれる巨大な講堂に集められた童生たちは、壇上に立つ文人然とした男の顔を見上げる。鶴の補子が施された官服を身にまとい、頭上にいただくのは貴人を表す紗帽しゃぼう、そして何と言っても舶来品の眼鏡をかけているのが印象的だ。


 学政・おう視遠しえんは、紗帽を脱ぐと、『孟子もうし』の解釈について滔々と語り始めた。


 いやしくも学政のありがたい講義なのに、童生たちはあまり集中して聞いているようには見られない。しばらく毒にも薬もならない講義は続き、半刻ほど経ったところで、王視遠は一息を吐いてこんなことを言った。


「これにて講義は終わりです。次に明日から始まる院試の説明に移りたいと思います」


 その言葉を聞いた途端、童生たちがざわめいた。

 やはり院試は従来通りに行われるわけではないのだ。

 王視遠は騒ぎを手で制すると、鷹揚な態度で言葉を紡いだ。


「突然ですが、今回の院試は特殊な形式をとることと決定しました。従来通りであれば、合計四回の試験を行い、そのたびごとに合格発表を行って人数を絞ってゆきます。しかし今回、合計五回の試験を最後まで全員受験していただくことになりました」


 では五回の平均点で合否を決定するのだろうか。

 否、そう単純な話とは思えない。


「そうですね、これだけではありません。今回の院試には主題を設定させていただきました。皆さんには、しんを大事にして取り組んでいただこうかと思います」


 信。何ともつかみどころのない言葉だ。


「秀才を目指す者たちならばご存知でしょうが、信とは仁、義、礼、智と並んで大事な概念です。これを体現できなければ、士大夫として活躍することは難しいでしょう。経書を読み込むのも立派ですが、やはり実践も同じくらい大事なのです」

「……あの王視遠とかいう男、割合よいことを言うね」


 隣の李青龍が耳打ちをしてきた。

 本心で言っているのか知らないが、紅玲国の官吏である以上、大なり小なり腐っていることは確実なのだ。


「〝たみしんくんばたず〟と言いますね。信とは信頼、信用、絆、誠実さを表します。そこで皆さんには、四人組を作って試験に挑んでいただきます。この四人組のことは、便宜的にと名付けましょうか。五人ではありませんけれど」


 童生たちはいよいよ私語を抑えられなくなった。

 何故、個人戦であるはずの科挙で四人組が必要なのか。

 だがその答えは、すでに王視遠が述べていた。

 主題が信だからだ。そのためにあの男は常識を破壊したのだ。


「一回ごとの試験においては、伍の合計によって成績を決定します。この成績は一回ごとに発表しますが、伍のうちの誰がどんな成績をつけられたのかは公表されません。あくまで伍としての成績のみです。……ああ、悪い成績だったからといって途中で試院を追い出されることはありませんよ。県試や府試とは方式が異なるのです」


 王視遠は、眼鏡を撫でながら言葉を続ける。


「そして五回の試験が終わった後、一回ごとの成績を合計して合否を決定いたします。つまり今回の院試は個人戦ではなく団体戦、同じ伍の童生と切磋琢磨して挑まなければなりません。ちなみに四人組が作れなかった場合ですが、その際は一人、二人、三人でも伍として認めます。ただし成績の判定は平均ではなく合計なので、不利になることをご承知ください。とはいえ、受験者はちょうど百六十名なので問題ありませんね」


 童生たちは心許なそうに視線を巡らせていた。

 伍を作れるかどうか。作れたとして足の引っ張り合いにならないか。あらゆる不安が綯い交ぜになって襲いかかる。


「この試験方式は私の発案ですが、科挙制度改革の一環として中央に許可を得ていることです。そして今年の院試から、答案審査の方式を変更するようにとの勅令がありました。これまでは学政とその秘書が行っておりましたが、これでは学政の好みに合否が左右される弊害があるゆえ、更朱こうしゅという官吏が二度目の審査を行ってくれます。皆さんは安心して院試に臨んでください」


 はたして王視遠は何を考えているのか。

 こんな試験方式では、正しく童生の力を測ることができないではないか。

 しかし王視遠は、にこりと柔和に笑って締めくくるのだった。


「困惑する方も多いでしょうが、これは信を測るために必要な措置なのです。それでは皆さん、力を合わせて頑張ってくださいね。ああそうそう、明日の早朝までに伍を確定して届け出をすること。そうでなければ受験は認めませんからね」


 王視遠は荷物をまとめて去っていった。

 講堂に残された童生たちは、嵐のように言葉を交わし始めた。早くもそこここで誰かを勧誘する声が聞こえてくる。他の童生たちがどれほどの実力なのか見当もつかないため、雪蓮は迂闊に動くこともできなかった。


「これは参ったね。私と雪蓮殿、梨玉殿は確定として、もうあと一人を仲間に引き入れる必要が出てきたというわけだ」

「あんた、勝手に僕たちと組むつもりなんだな」

「え? まさか駄目だったか……? つれないね、一緒に昼を食べた仲じゃないか」

「まあ、別に構わないが……」

「どうしよう小雪!? 私たちも誰かを誘ったほうがいいかな……!?」


 梨玉が焦って立ち上がる。

 雪蓮は頬杖をついて梨玉から視線を逸らした。


「童生の数は百六十人。余ったやつと組めばいいよ」

「しかし雪蓮殿、優秀な者を早めに勧誘したほうがいいと思うが?」

「誰が優秀か分かるのか?」

「目が輝いている者を探そう」


 何だそれ。

 雪蓮は溜息を吐いて立ち上がるのだった。



          □



 幾度か童生たちが雪蓮、梨玉、李青龍のもとを訪れた。伍のメンバーにならないかと勧誘をかけてきた者たちである。梨玉としては願ったり叶ったりだったが、何故か雪蓮が許可しなかった。


「様子を見る必要がある」


 とのこと。理由を聞いても教えてくれなかった。童生の実力を見極めているのかもしれないが、悠長に構えていたら気を逸するだけではないかと梨玉は思っている。いずれにせよ雪蓮の意志は固いため、メンバー集めは慎重を期することになった。


 梨玉と雪蓮は、試院に併設された会館を宿としている。

 院試の受験生は、だいたいここに宿泊することになっているのだ。

 メンバー集めをしないなら雪蓮と一緒に勉強でもしようかと思ったのだが、彼女は「用がある」とのことで取り合ってくれなかった。


 仕方がないので、梨玉はひとり府城を散策することにする。

 直前で詰め込んでも仕方がない――李青龍の言う通りだからだ。

 繁華街の喧噪は英桑村えいそうそんの比ではない。春にしては強い日差しを浴びながら、梨玉は府城の往来をてくてくと歩いてゆく。


ひととしてしんくんば、なるをらざるなり。大車だいしゃげい無く、小車しょうしゃげつ無くんば、其れなにもつこれらんや――」


『論語』のうちで信について述べられている箇所を諳んじる。

 そんなことをしても意味はない。童生にできるのは、試験官の思惑を推測することではない。与えられた問題に粉骨砕身取り組むことだけなのだ。


 だが、それでも考えずにはおけない。

 此度の試験、普通ではない。

 自分のような人間に乗り越えられるのか否か。


「うううう! 分からない! 小雪は何を考えてるの~!」


 梨玉は袖を揺らして地団太を踏んだ。

 雪蓮が余裕綽々としていられる理由が分からない。

 普通の受験生ならば焦って然るべきだろうに。


「――おい小娘! ぼけっとしてるな!」

「きゃっ」


 身に衝撃が伝わる。梨玉は踏ん張ることもできずに地に倒れ込んでしまった。見上げれば、酔っ払った男が歩き去っていくところだった。往来のど真ん中で突っ立っていれば、こうやって轢かれるのも無理ないことだ。


(あれ? あの人って……)


 酔漢の後ろ姿には見覚えがあった。

 梨玉とて府試を突破した才子である。その並外れた記憶力によれば、あの男は、先ほどの王視遠の講義に出席していたはずだった。

 ということは、梨玉と同じく童生なのだろうか。


 不審に思って酔漢の後ろ姿を観察していると、視界を遮るように青色の布がひらりと舞った。梨玉の前に誰かが躍り出たのである。


「大丈夫!? 怪我とかない……!?」

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