第47話 合流

 鬼哭啾々きこくしゅうしゅうという言葉の似合う夜だった。


 挙子たちは夜を徹して答案を練る。

 貢院は繁華街から離れているため、辺りに響くのは風の音や虫の声、そして挙子が発する溜息や叫喚だけである。


 すでにうしの刻を回ろうかという時分、各号舎には未だに蝋燭の明かりが灯っていた。ほとんどの挙子が寝る間も惜しんで筆を動かしているようだ。


「だいたい完成したか……」


 蝋燭に照らされた答案用紙を睨み、雪蓮せつれんはほっと一息を吐いた。

 この一日、命を燃やす勢いで机にかじりついた。生み出された文章はまさに天衣無縫、正考官を殺し申し上げるだけの威力が備わったと自負している。あとは些細な間違いがないか見直しをすればいいだけだ。


(他の連中は今頃何をしているのだろうか)


 荷物から夜食用の饅頭を取り出しかぶりついた。

 疲労を和らげる甘さを噛みしめつつ、貢院のどこかで奮闘している同郷の三人に思いを馳せる。


 青龍せいりゅうは問題ない。あの男の特異な視点ならばこの難問も解けるはずである。


 欧陽おうようぜんには悪いことをした。困ったら頼れと偉そうに嘯いたが、お互いの号舎の位置が分からないのでは意味がない。同郷の者はむしろ遠ざけて配置するという噂もあるため、試験中に探すのは不可能に近かった。そもそも挙子たちの周囲では兵卒たちが常に見張っており、その網目は雪蓮が予想していたよりも遥かに細かかった。出歩いて他の挙子と言葉を交わせば、ほぼ確実にしょっぴかれるだろう。


 そして梨玉りぎょくは――どうだろうか。

 あの少女は開明的な思想を持っているが、従来通りの郷試対策しかしていないのだ。どうにかしてサポートしなければ、容易にふるい落とされる危険性もある。


(……いや。僕は何を考えているんだ)


 雪蓮はかぶりを振って思考を改めた。

 最近、梨玉のせいで温くなっている気がした。

 必要なものは復讐の炎だけなのだ。

 梨玉、李青龍、欧陽冉――彼らはいずれも雪蓮が上り詰めるための道具にすぎない。


(ひとまず眠ろう)


 思考を閉ざして壁に凭れ、狭い独房の中で身体を折り曲げる。

 空が白み、夜が明けようとしていた。ちなみに答案は今日の日暮れまで粘ることができるため、時間的には腐るほど余裕があるのだった。

 やがてまどろみ始めた時のことだった。


(……何だ?)


 不意に奇妙な音を聞いた気がした。

 主に人の声である。大勢の人間が騒いでいるような気配。


 雪蓮は壁に耳を当てて息を殺した。両隣の号舎から聞こえてくるのは鼾だけである。では貢院こういんの奥深く――内簾官ないれんかんたちが起居する施設で宴会でも行われているのかと思ったが、方向的に何かが違う気がした。

 雪蓮はさらに神経を研ぎ澄ませて様子をうかがう。



 ――不可、不可、紅き徳は尽きようとしている。

 ――天を見よ、涙を降らせているではないか。

 ――玉座に昇るのは復讐の子だ。

 ――讃えよ、讃えよ、すべての宝は我らの手に在り。



(歌……?)


 しかも紅玲国の滅亡を予感させる内容である。

 雪蓮は溜息を吐いて目を閉じた。

 日中から心身を削っていたため、疲労により幻聴が聞こえてしまったのだ。貢院には幽霊が出るという噂が囁かれるが、極限状態に置かれた挙子たちが見た幻影に違いない。


 気にせずそのまま眠ることにした。

 不思議な声は、すぐに消えてしまった。



          □



 陽が昇って暮れた頃、一回目の試験は終わりを告げた。

 係員に急かされ答案を提出した雪蓮は、追い立てられるように貢院を後にする。二日ぶりの外はそれなりの開放感だったが、明日にはまた独房で二回目の試験を受けなければならない。気を抜くことはできなかった。


 雪蓮は挙子の群れに交じって貢院の塀沿いの道を歩く。

 ひとまず梨玉たちと合流したいのだが――


「お、雪蓮殿ではないか!」

「青龍か」


 おあつらえ向きに李青龍が現れた。

 道端で雪蓮のことを待っていてくれたらしい。


「随分と余裕そうだな。さすがは雪蓮殿といったところか」

「余裕かどうかは分からないな。今回の試験、明らかに問題がおかしい。一応埋めることはできたが、何が引っかかって落とされるか分かったもんじゃないよ」


 李青龍は難しそうに腕を組み、


「そうだな。梨玉殿や冉殿も大変だったようだ」

「そういえば二人は?」

「私の後ろにいるぞ」

「わっ」


 李青龍の背後からどんよりとした二人組が現れ、雪蓮は思わず声をあげてしまった。

 梨玉と欧陽冉。いずれも幽霊のごとく覇気のない佇まいだった。


「小雪……私、駄目かも」


 梨玉が掠れた声でつぶやいた。

 試験中に泣いたのか、目元が腫れている。

 雪蓮は恐る恐る聞いてみた。


「手応えはどうだったんだ? 特に四書題は……?」

「詩題は何とか間に合わせたんだけど、それ以外の三問は全然できなかったの」

「そうか……」

「私、甘くみてたよ……勉強を頑張っていれば受かると思ってた」

「まだ落ちたと決まったわけじゃないだろ。試験はあと二回もあるんだぞ」

「そうだけどっ! あんな問題がまた出たら解けないよ。問題を解いているうちに思ったんだけどね、私は机上の空論しか学んでこなかったんだ。紅玲を本当に変えたいと思うなら、もっと社会のことに目を向けるべきだったのに……」


 相当堪えているらしかった。

 梨玉はこれまで大した壁にぶつかることがなかったのだ。

 自分の能力にはそれなりに自信があったのかもしれぬ。勉学を始めたのは洪水で家族を失ってからと遅めだが、天性の頭脳も相俟って破竹の勢いで生員の身分を獲得した。客観的に判断すればめざましい飛躍である。


 県試では知県による弾圧、院試ではおうがいおう視遠しえんによる妨害などに直面したが、それらは科挙試験そのものとは関係のないことだ。ゆえに此度の挫折は想像以上のダメージを梨玉にもたらしている。


「欧陽冉も似たような感じか?」

「は、はい。可能な限り答案は書きましたが、自信はありません」


 欧陽冉は伏し目がちに続けた。


「……あの、今までの郷試でこういう問題が出されたことはあるのでしょうか? たとえば紅玲よりも前の王朝とかで」

「さあな。それは考えても仕方がない」

「そうですね……正考官は何をお考えなのでしょうか。これじゃあ今までの勉強が全部無駄だって言われたような気分です」


 梨玉も欧陽冉も沈んだ顔のまま黙り込んでしまった。

 だが――郷試は完全なる個人戦だ。

 試験中のアドバイスが実質不可能だと判明した現在、二人のためにできることは限られている。


「青龍。どうする」

「せめて明日のために英気を養うのがよろしかろう」

「何の役にも立たない発言だな」

「雪蓮殿? ちょっと辛辣すぎやしないかね……?」


 李青龍を無視して梨玉たちのほうに向き直った。

 他者を鼓舞するのは不得手だが、この場合は仕方あるまい。


「梨玉、欧陽冉。まだ合格の目はあるぞ」

「え?」


 二人はきょとんと目を見張った。

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