第3話 徘徊
「どうして僕があんたを助けなければならないんだ」
「
他人への思いやりは儒学で説かれる普遍的な真理だった。
でも。しかし。それにしたって。
「お願いお願いお願いっ! 小雪だけが頼りなの~っ!」
「ああもう分かったよ! そんなところで駄々を捏ねるな!」
騒がれて目立つのは困るのだ。
「ありがとうっ! 小雪、大好き!」
「……寝台は一つしかないぞ。お前は床で寝てくれ」
「やったあ! じゃあ一緒に寝ようね」
「帰れ」
「ごめんて。お礼に
急に腕をつかまれ、
「僕に触るな! いらないから! さっさと入れ!」
「はーい」
我が物顔で入ってきた梨玉は、これまた我が物顔で雪蓮の寝台に腰を下ろした。蝋燭の火がゆらりと揺れる。あまりにも傍若無人な振る舞いだったので、雪蓮はほとほと呆れ果ててしまった。
「あんた、嫁の貰い手もいないんじゃないか」
他人のことは言えないが。
「失礼! 私は村で一番の美人さんって有名なんだよ?」
「それについては同意するが……」
「え、ほんと?」
「何でもない」
梨玉はにんまりと笑った。ここまで懐かれる謂れが分からなかったが、思い返してみれば、県試が始まる前のトラブルで梨玉を助けたのだ。あれで信頼を勝ち取った、あるいは惚れられた可能性すらあった。
雪蓮はモテる。主に同性から。
おかげで男装の自信を深めることはできたが、熱っぽい視線を向けられたところで対応に困るのだ。梨玉がそうならないことを祈りたかった。
「ねえ小雪、私、受かってるかなあ」
「そんなの知らないよ」
「私ね、やっぱり合格して
梨玉は、ぽすん、と寝台に倒れ込んだ。そこは雪蓮の寝床である。
「あんな洪水は二度と起こしちゃ駄目。あれって単なる事故じゃなくて人災だかんね。役人が工事を適当にやったんだって。そのせいで私のお姉ちゃんやお父さんは……」
「それはご愁傷さまだ」
「地震とかイナゴとは全然違う。こう言っちゃなんだけど、今の役人たちはぐーたらしているの。だから私は
科挙登第は
今時、これほど真摯な思いで試験に挑んでいる者も珍しかった。
「変えられると思っているのか。そのぐーたらしている王朝を」
「うん。進士になれば天子さまにも会えるからね」
それは理想に溺れすぎの感もある。
勉強だけで世界を変えられたら苦労はしないのだ。
弱者が平穏を勝ち取るためには、もっと別の手段が必要だと雪蓮は思っている。
だが、梨玉の純粋な思いは、雪蓮の鬱屈とした気質にわずかな
「……だったら次の試験も頑張らないとな」
「うう。今日の問題も難しかったなあ」
「
「そうだ小雪、勉強教えて!」
「今から詰め込んでも仕方ないよ。寝ろ」
「じゃあ小雪と一緒に寝るー」
「寝るな!」
「小雪、荷物多くない? 何入ってるの?」
「やっぱり寝ろ! 触るんじゃない!」
夜は更けていく。
(簡単には寝付けそうにないな……)
雪蓮はこっそりと梨玉の荷物を見やった。人のことを言えないほどに膨れ上がった荷袋である。あの中には科挙の参考書はもちろん、父親の形見である大工道具も入っているのだろう。試験には使わないのにご苦労なことである。
□
(やっぱり寝付けない……)
それから
床で寝ている梨玉のことが気になって仕方がない。冷静に考えれば、やむを得なかったとはいえ、どこの馬の骨ともつかない人間と一緒の部屋で夜を明かすのは不注意すぎやしないか。
ちらりと梨玉の寝顔を見やる。
その唇がもごもごと動いた。
「うへ……学びて時に……之を習へば……お腹いっぱい……」
なんという寝言。
雪蓮は密かに嘆息し、むくりと身を起こした。
梨玉に気づかれないよう抜き足差し足で部屋を出る。
気分転換も兼ねて散歩をしようと思ったのだ。
夜の県庁は墓場のように音がない。
月が
(僕の目的は科挙登第すること。そして官吏になること……そのためならば、どんな手段を講じることも
己の目的を反復しながら歩を進める。
頭場の結果は明日発表されることになっていた。
合格は難くないと思われるが、科挙に挑むのはこれが初めてだ。先の予測が立たない以上、心の準備をしておく必要がある。
しばらく歩くと気分が落ち着いてきた。
厠に寄ってから帰路を辿る。
だがその時、予期せぬハプニングに見舞われた。
「どあっ」
「!」
曲がり角のところで誰かとぶつかった。
相手が意外に巨体だったため、雪蓮のほうが弾かれて転びそうになる。
宵闇の中からヌッと姿を現したのは、意外すぎる人物だった。
「こらあ! 何をやっているか! 私の行く手を遮るなんて!」
でっぷりと肥えた腹が揺れる。
此度の県試で試験官を務める大男――知県・
雪蓮は正体を見破られる前に逃げようとした。
が、その太い指でがっしりと腕をつかまれてしまった。
「お前は童生だなっ! 何故うろついている!」
「いえ。僕はただ厠に……」
「許さん、許さんぞ、私が
雪蓮は内心で首を傾げた。従五品工部郎中とはおかしな話である。そもそも工部とは土木建築を司る役所だが、楊士同は単なる地方官吏にすぎない。官職としては
(酔っているのか)
顔は真っ赤で千鳥足。しかも酒くさい。
宴席からふらりと抜け出してきたような有様だった。
頭場の答案審査が終わって酒でも飲んでいたに違いない。
工部郎中というのは左遷される前の仕事なのだろう。
雪蓮は溜息を吐いて知県を見上げた。
「……知県さま。こんなところにいたら風邪をひいてしまいますから、お部屋へお戻りください」
「ん? んん? そうかあ。そうするかあ」
しかし知県はぎょろりと雪蓮を見下ろしてきた。
視線が交錯する。しばらくして驚くべきことを呟いた。
「女だ。女の匂いがするぞ」
「へ……?」
「気のせいか? そういう匂いがするんだがなあ」
鳥肌が立つのを感じる。雪蓮はほとんど反射的に知県を腕を振り払い、飛び上がるような勢いで二、三歩後退した。
嫌悪感もそうだが、嗅覚で性別を判別できる人間がいたことに驚きを隠せなかった。酔っ払いの戯言だと切って捨てるわけにはいかない。何故なら雪蓮の正体をぴたりと言い当てていたからである。
(どうする。走って逃げるか……)
身を翻しかけた時だった。
遠くから人が寄ってくる気配。
「知県さま! いったい何をなさっているのですか」
「ああ? 何だお前は? 私は厠に行こうと思ったのだ。厠に……」
「厠はあちらにあります! ほら、つかまってください」
知県のもとで働いている胥吏のようだ。彼は一瞬だけ雪蓮に視線を寄越したが、何も言わずに知県をどこかへ連れていってしまった。雪蓮はその姿が見えなくなるのを確認すると、踵を返して今度こそ部屋に戻る。
今まで男装がバレたことはなかった。
だが、鋭い者には看破される危険性があることが判明した。
(気は抜けないな)
頬を叩いて気を引き締める。
最後まで男装を貫くためには、尋常ならざる努力を要するらしい。
これは一計を案ずる必要がありそうだ。
雪蓮は部屋に戻ると、慎重な手つきで荷物を漁る。
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