第2話 頭場

 科挙は一朝一夕いっちょういっせきで終わるような試験ではない。


 県試けんしが終われば府試ふしがあり、府試が終われば院試いんしがある。院試に合格すれば国立学校に入ることを許され、晴れて生員せいいんと呼ばれる身分を獲得する。生員として優秀な成績を修めなければ、本試験に進むことはできないのだ(ゆえに院試までは科挙そのものというより入学試験にすぎない)。


 その全てをひっくるめた倍率は、時代によって変動があるが、当代ではおよそ三千倍。

 三千人いて一人しか合格することができない激烈な試験だった。


 県試から最後の殿試でんしまで幾多の試験を乗り越え、晴れて科挙登第を果たすには、余人には想像もできないほどの精神力・学力が要求されるのだ。


 雪蓮が今日受ける県試は、長い長い道のりの第一歩でしかない。しかもこの県試にしたって五回も連続で試験が行われる。一回ごとに合格発表が行われ、落第者はすぐさま県庁から叩きだされるシビアなシステムだ。


 案内された会場には、雪蓮せつれんを含めて何十人もの童生どうせいが着席していた。

 誰も彼も緊張の色が濃い。


「――では健闘を祈る。決して不正のなきように」


 童生たちを見渡して後、試験官たる知県ちけん権柄けんぺいずくにそう言った。

 姓名はよう士同しどうというらしい。かつては中央でぶいぶい言わせていたが、何かの拍子で失脚し、雪蓮たちが住んでいる県に左遷させられたという話だ。


 そのえに肥えた姿は、豚を連想させた。

 科挙に合格すれば、美味しいものがたくさん食べられるのだ。

 ふと、隣の男装少女がこっそり耳打ちをしてきた。


「豚さんみたいなおじさんだよねえ?」

「……静かにしてろ。聞こえたら投獄じゃすまないぞ」

「あ、ごめん」


 何の因果か、雪蓮と梨玉りぎょくは隣同士の席になったのである。

 ちなみに性別に関してだが、先ほど答案用紙をもらいに行った際、保証人の生員が「こう梨玉は男です」と明言した。戸籍に男と書いてあっては疑いの余地もないようだ。


 もちろん雪蓮の正体もバレることはなかった。梨玉で問題ないのだから、雪蓮などは大丈夫に決まっていた。過度に緊張していたのが馬鹿のように思えてくる。


 ほどなくして知県により試験開始が告知され、係員が問題の描かれた榜を持って巡回を始める。

 最初の問題は――



 さざるはゆうきなり

 その意味を述べよ



 儒学をまったく知らぬ者からすれば何が何だか分からないだろうが、雪蓮は幼い頃から経書けいしょを読み込んできた読書人どくしょじんのタマゴだ。問題を一目見た瞬間、さらさらと川が流れるように筆を走らせていく。


 ちなみにこれは『論語ろんご為政いせい篇の一節である。意味的には、正しいことと知りながら実行しないのは勇気がないからだ――といったところか。


(義ね……)


 雪蓮は筆を止めて周囲を見渡した。

 はたして今の時代、この金言きんげんの通りに行動できる人間がいかほどいるだろうか。

 見れば、試験官たる知県は、前の机で舟をいでいた。童生はもちろん、官吏ですら孔子こうしの理念を忘れてしまっているのではなかろうか。


(ん?)


 ふと、隣の梨玉がうんうん唸って頭を悩ませていることに気づく。

 誰が見ても平易な問題だと思うが、この程度で躓いているようでは、彼女とは今日でお別れかもしれない。


 雪蓮はそれから危なげなく問題に解答していった。

 ところが、日が傾き、頭場とうじょう(試験の一日目をそう呼称する)も終わりが近づいてきたところでハプニングが発生した。


「笑止! これは儂が求めていた試験ではない!」


 会場を揺るがすほどの大音声。筆をへし折って立ち上がったのは、憤怒の表情を浮かべた童生だった。


「やり直しを要求する! こんなことでは才器さいきを獲得できんぞ!」

「おい、騒ぐな!」


 係員が慌てて殺到した。

 老境に差しかかったその男は、しきりに試験問題についての文句を連ねていた。ああいう手合いも珍しくはない。科挙に年齢制限はないため、不合格を重ねるうちにすっかり髪が白くなり、体制そのものに対して憎悪を募らせるようになるのだ。


「ええい離せ、ろくでもない問題ばかり出しおってからに!」

「何を言うか! 知県さまに無礼であるぞ!」

「儂は治国ちこく平天下へいてんかを目指して戦っておるのだ! 紅玲こうれいこくのために身を粉にして働きたいと熱望しているのに、児戯のような試験でふるいにかけられておる! もう四十年だ、四十年! 許せぬ、許せぬぞ、かくなるうえは京師に告訴をして」

「こやつ……! 知県さま、いかがいたしましょう」

「県試が終わるまで牢にぶちこんでおけ!」

「承知いたしました」


 老人は係員たちによって摘まみ出されていった。

 他の童生たちはぽかんと呆けるしかない。

 梨玉もびっくりして瞬いていた。


「どうしちゃったのかな……?」

「問題が分からなかったんだろうさ。……それより、あんたは大丈夫なのか? さっきから筆が止まっているように思えるが」

「だ、だいじょぶ……」


 梨玉の額には薄っすらと汗が浮かんでいる。

 騒ぎに構っている余裕などないようだ。

 ほどなくして、知県が大きく咳払いをした。


「そこまでだ! 今すぐ解答をやめろ! おらそこの顎髭あごひげ、筆を置け!」


 試験が終わった。

 手応えは十分だったため、よほどのことがない限りは合格しているはずだ。

 雪蓮は荷物をまとめると、他の童生たちと列をなして会場を後にした。


 一つ心配なのは、隣で憔悴していた男装少女のことである。

 ライバルのことなど気にする必要はないのだが、自分と境遇が似ているのでついつい考えてしまうのだ。



          □



 通常、答案審査には数日を要する。

 しかし、今回は童生の数が少ないこともあってか、中一日を置いた後に発表されることとなった。先の洪水の被害は甚大で、将来科挙に臨むはずだった大勢の若者も摘み取ってしまったらしい。


「――悪政か。いずれ天に見放されるかもな」


 雪蓮は薄汚れた天井を見上げながら呟いた。

 童生たちは県庁の宿舎で寝泊まりすることになっている。落ちるまでは出られない、それが紅玲国の学校試におけるルールだった。そして雪蓮に与えられたのは、手狭だが他に同居人のいない小部屋である。普通は八人部屋で雑魚寝をすることになるが、金さえ払えば個室で休むことも可能なのだった。もし男たちと一緒に寝て正体を喝破されたら、すべての計画がご破算だ。ふところ事情は潤沢とは言えないが、やむをえぬ措置なのである。


 その時、こんこん、と叩扉する音が聞こえた。


小雪こゆき! こんなところにいたんだね」


 こちらが出迎える前に顔を覗かせたのは、件の男装少女だった。

 派手な服の裾をふわりと靡かせ、小動物のような動きで雪蓮の個室を観察している。


「待て待て! 僕の部屋に勝手に入るな」

「お願い、私を泊めて! あっちの広間は男の人でいっぱいなの」

「あんた、自分は男だって言ってただろ」

「そうだけどぉっ」

「もう性別を隠す気はないんだな……」

「ち、違うよ! そうだ、私のことが女の子に見えちゃったら困ったことになりそうじゃない?」


 屁理屈はともかく、男たちに囲まれて寝るのは確かに不安だろう。

 しかし、それで雪蓮を頼るのはどういう了見か。


「僕も男だぞ」

「そうだけど……小雪は大人しそうだから」


 雪蓮の正体がバレたわけではないようだ。

 帰れ、と言いかけてから考える。

 童生たちは末成うらなりの瓢箪みたいな連中だが、これだけ美しい娘を放り込んだらどんな事件が起こるかも分からない。とはいえ、部屋に入れるのも憚られた。安心を得るために大枚たいまいはたいて個室を準備したのだから……。


「お願いっ! このままじゃ安心して眠れないのっ!」

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