経学少女伝 ~試験地獄の男装令嬢~

小林湖底

一回 義を見て爲さざるは勇無きなり

第1話 科挙


 試験会場に女の子がいる。

 びっくりするほど女の子である。



          □



 もちろん科挙は男しか受けることができない。

 儒学の経典(教科書)にも「女子は家で仕事をしろ」みたいなことが書いてある。


 時は光乾こうけん四年、西洋の暦に直せば一五八四年のことだ。女の子が科挙合格を目指して勉強に励む、などと言ったら、へそで茶を沸かすほどおかしな話。


 だが、それでは女子が官吏になる道は閉ざされたようなものだ。

 気に食わない者がいるのも自然の道理である。



 今ここに、らい雪蓮せつれんという者がいる。



 烏の濡れ羽のような髪を後頭部で一つにまとめ、地味な色合いの袍に身を包んでいる。背丈は高くもなく低くもない。顔立ちはどことなく幼さを残すが、氷のように鋭い視線が大人びた印象を感じさせてやまなかった。


 中性的な美少年、ではない。

 少年のフリをした少女だった。


(正体を見破られないこと。何があっても男のフリをすること。どんな理不尽があっても泣かないこと)


 雪蓮は胸中でそう唱えながら路地をゆく。

 本日、科挙試験の前段階――県試けんしが行われるこの県城は、多様な人々でごった返していた。これまで雪蓮が起居してきた僻村とは天と地ほどの差だ。誰かとすれ違うたびに心臓が跳ねるが、こちらが男装令嬢であることに気づかれた様子はない。


(大丈夫。練習はしてきたのだから)


 雪蓮は女の子として生まれた。

 その事実は何があっても変えられないものだ。


 だが、科挙試験を通過するためには男でなくてはならなかった。それは千年の歴史に裏打ちされた絶対不変のルールである。普通はこの時点で諦めてしまうものだが、雪蓮は普通ではなかった。


 男装して科挙を受けようと決意したのである。


 努力は得意だった。

 男としての所作、言葉遣い、趣味嗜好――学べるものは何でも学んだ。ある意味科挙の受験勉強よりも大変だったが、だからこそ雪蓮の内には自信の炎が宿っている。

 これだけやったのだから上手くいかないわけがない。


 それに、いざという時のための手段も用意してある。


(何食わぬ顔で合格してやろう)


 県庁に到着した。最初の試験はこの施設で行われることになっている。さほど裕福な県ではないためか、おんぼろを極めた庁舎だ。敷地を取り囲む壁もひびだらけで、ちょっと小突けば崩れてしまいそうである。


 周囲を見渡せば、多くの童生どうせいたち(受験生のこと)が見送りの親類や老師からエールを送られ、続々と門を潜っていた。


 まさか自分のように男装してまで科挙を受けようとする女子はいるまい。

 常識外の一手。だからこそ気づかれるはずがない。

 雪蓮は深呼吸をすると、試験会場に向かって一歩を踏み出して――


「は?」


 女の子を目撃してしまった。

 雪蓮の常識は破壊された。



          □



「だーかーらぁっ! 私は男だって言ってるでしょー!?」

「嘘に決まってらあ! どう見たって女だろうが」

「男だよ! 試験を受けに来たの!」


 女の子はぴょんぴょん跳ねて自己主張をしていた。

 試験を受けに来たとは思えない恰好だ。

 派手派手しい花柄の上衣じょういと、裾のゆったりしたプリーツスカート。いずれも夷狄いてきからもたらされた流行だが、男が着るようなものではない。

 意地の悪い童生に絡まれるのも必然だった。

 身分を偽って侵入するのなら、雪蓮みたいに万全を期して然るべきである。


「どうして女が科挙を受けるんだ? おかしな話じゃねえか」

「はあ? 受けちゃいけないっていう規則があるの?」

「常識だろうに! ここはてめえみたいなのが来る場所じゃないんだ!」

「何それ!? 性別は関係ないよ! や、私は男だけどね! その証拠に――」


 女の子が懐から何かを取り出そうとする。

 が、男はその腕をつかんで止めた。


「証拠なんて触れば分かるさ! 俺が確かめてやるからジッとしてな」

「ちょっと……」


 男は卑しく笑って女の子に身を寄せた。

 仮にも堂々たる進士しんし(科挙の合格者のこと)を目指す者の言動ではないが、ああいう輩に倫理道徳を期待するのは無駄である。


「やめろ。ここは県試の会場だぞ」


 雪蓮は、ついに耐えきれなくなって声をあげた。

 正義感ではない。男の物言いが雪蓮の存在を否定するものだったから。そして女の子の言葉――「進士になるのに性別は関係ない」という言葉に共感したからだ。


 女の子が夢から覚めたように振り返る。

 玉のようにきらめく瞳が見開かれていった。市井しせいの娘にしてはいやに器量がいいなと思いつつ、雪蓮は男のほうへと冷ややかな視線を向ける。


「問題を起こすな。あんたも勉強を頑張ってきたんだろ」

「はあ? 誰だお前は」

「受験資格を剥奪されるぞ」


 男は、うっ、と声をつまらせた。盗人のように辺りを見渡し、注目されていることに気づいたのか、謝罪もせずにコソコソと立ち去っていく。


 ああいう手合いは社会問題になっている。科挙の受験勉強は過酷を極めるから、四書五経ししょごきょう会得えとくするかわりに大切なモノを失うケースも多々あるのだ。

 雪蓮は立ち去ろうとしたが、ぐいっと腕を引っ張られて立ち止まる。


「あなた、お名前は何ていうの?」


 女の子がこちらを見上げて言った。


「私はこう梨玉りぎょく! ああいう人はあんな感じに撃退すればいいんだね! 勉強になったよ、ありがとう!」

「そうか。それはよかった」

「ねえ、お名前は?」


 きらきらした目だった。

 何故か振り払うことができない。


「……僕は雷雪蓮」

小雪こゆき! よろしくね」


 その馴れ馴れしい振る舞いを見て、雪蓮は己の行動を早くも悔いた。

 むりやり歩き出すと、梨玉も子犬のようについてくる。


「ね、小雪はどうして科挙を受けるの? やっぱりお金持ちになりたいから?」

「違う」

「じゃあ、権力を振りかざしたいんだ」

「そんな不純な動機じゃない。僕は雷家のために官吏を目指しているんだ」


 この時代、一族の名誉のために頑張るのは不思議なことではない。個人の夢や希望が尊重されるようになるのは、数百年も先のことだ。

 梨玉は、へえ、と感心したように呟いた。


「同じだね。私は郷里のために頑張っているの」

「男装してまでか」

「これは女装なの! や、女装っていうか、死んだお姉ちゃんの形見の一張羅で……これを着て進士になるのが私の目標だから! たとえ女の子に間違われたとしても関係ないよ、ちゃんと受験資格は持ってるんだかんね!」

「でも面倒じゃないか? さっきみたいに絡まれたら……」

「その時は最終兵器があるもん。さっきは出しそびれちゃったけど」


 懐から何かの紙を取り出した。

 それは戸籍台帳の写しである。耿梨玉が男であることが証明されていた。役所の印もあるので誰も文句はつけられないが、やっぱり本人は女の子にしか見えない。賄賂でも渡して偽装したのではあるまいか。


 いずれにせよ、雪蓮はこの少女に深入りをするつもりはなかった。

 ロクでもない背景事情に巻き込まれたくなかったし、同じ年度の試験を受けるとあっては、限られた椅子を奪い合うライバルでもあるからだ。

 だというのに、この男装少女は小鳥が囀るように話しかけてくる。


「私の村はとっても貧しいの。昔、とんでもない洪水が起きたことがあってね? 家や畑が全部流されちゃって、それからずっと生活に困ってるんだ」

「ふーん……」


 この近辺で大洪水が起きたことは聞いていた。

 朝廷の水利政策が失敗して水があふれたのだという。発表された犠牲者数は四十二名だが、それは明らかに虚報で、実際には数百から数千の人間が亡くなったと言われる。


「だから私は科挙を受けるの。合格すれば、家族に楽をさせてあげられるからね」

「だったらその服はやめたほうがいいんじゃないか」

「言ったでしょ? これは流されちゃったお姉ちゃんの形見なの。あ、お父さんの形見の大工道具も持ってるよ? 家族には、私が立派に出世するところを見ていてほしいんだ。だからこれは、私にとっての勝負服なんだよ」

「金持ちになりたいんだったら後宮にでも行けばいいじゃないか。その見てくれなら採用されるだろ」


 梨玉は途端に頬を膨らませた。


「宮女じゃ駄目なの! 私は堂々たる官吏になって世界を変えたいんだ。二度とあんな事故を起こさないようにね」


 殊勝な志だが、その台詞は「私は女である」と白状したようなものだ。

 雪蓮は敢えて指摘せずにおくことにした。


「立派だな」

「立派でしょ?」


 ふふん、と胸を張る。

 やはり女の子にしか見えない。


「……でも合格できるのか? 問題は難しいぞ?」


 実際は、難しいの一言で片付けられるレベルではない。

 てい武帝ぶていによって創設されてから約千年、科挙制度という無類の化け物は、龍のうねりのようにその形を変えながら、幾多の受験者を悲喜交々のドラマに突き落としてきた。

 しかし、梨玉は何でもないことのように笑う。


「甘く見ないでよ? 私は学問のことを知り尽くしているんだから」

「経書は暗記できているか? 学而がくじ第一の最初は?」

まなびてときこれならふ、よろこばしからずや――って馬鹿にしないでよ、それくらい子供でも分かるったら」


 梨玉は頬を染めて怒った。

 それこそ子供みたいに表情がくるくる変わる女の子だ。

 今度は不敵な笑みを浮かべてこんなことを言う。


「小雪には悪いけど、状元じょうげんの座は私がいただくからね」

「そうか。頑張れ」

「うん、一緒に頑張ろうね!」


 ちなみに状元とは、殿試でんし(科挙の最終試験)を第一等の成績で合格した者のことだ。誰もがその座に憧れ、挫折していく天上の高み。梨玉がどれだけ優秀なのかは知らないが、こちらの邪魔にならない程度に頑張ってほしいものだ。

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