七回 貧にして怨む無きは難し
第51話 鼓舞
翌朝、一回目の試験と同じように挙子の入場が行われた。
省庁が焼かれて官吏たちは
聞いた話によれば、梨玉の号舎は成十七号らしい。雪蓮の床十四号舎からはかなり遠い位置にいるらしい。李青龍や欧陽冉もそれぞればらばらに配置されているため、試験中に落ち合うのはやはり容易ではないようだ。
午前中に入場を果たした雪蓮は、硯などを準備しながら精神を統一する。
一回目の問題は極めて難しかった。
二回目もおそらく同様の問題に違いない。
(初日の動揺を切り抜けた挙子はそれなりの問題を仕上げてくる。一時も油断することはできない――)
つまり二回目以降はより気を張らねばならなかった。
「雷雪蓮だな。お前に呼び出しがかかっている」
不意に号舎のカーテンが開かれた。
顔を覗かせたのは、見回りの兵卒である。
雪蓮は不快感を隠しながら視線を上に向けた。
「……何の用ですか? 僕は試験の準備で忙しいのですが」
「それどころじゃない。正考官・栄明長公主様がお呼びなんだよ」
思わず息を呑む。
「何故?」
「こっちが聞きたいね。俺は四回くらい郷試の係員をやっているが、こんなことは初めてだ。まさかお前、とんでもない悪事を働いたんじゃなかろうな?」
「…………」
思考は一瞬にして試験から離れてしまった。
どのみち呼び出しに応じないわけにはいかない。
雪蓮は心を殺して立ち上がった。
□
「あ、小雪! 小雪もお呼ばれしたの?」
貢院奥の屋敷に到着した途端、椅子に座っていた梨玉が振り返って笑った。
雪蓮は呆気に取られて梨玉のほうに近づいていった。
「何であんたがここにいるんだ」
「長公主様に呼ばれたの……い、いったい何なんだろうね? 悪いことした覚えはないはずなんだけど。もしかしてアレがバレちゃったかな……?」
「おい、変なこと言うな。僕たちには疚しいことなど何もないんだぞ」
「そうだよねそうだよね! ごめん小雪!」
係員が「ここに座っていろ」と梨玉の隣の椅子を示した。
雪蓮は腰を下ろしつつ周囲を警戒する。
小ぢんまりとした一室には、見張りの兵卒のほか、脂汗をかいて部下に指示を飛ばしている官吏の姿も見えた。長公主の破天荒に振り回されているに違いない。
(何がどうなっているんだ)
呼び出された理由に皆目見当がつかない。
あまつさえ梨玉と一緒となればきな臭さは数段増した。
梨玉が推測したように性別を看破された可能性もあるが――否、それはなさそうだと雪蓮はかぶりを振った。夏琳英と呉春元は梨玉の受験を認めたのだ。今更ちゃぶ台をひっくり返すのは信義にもとる。
雪蓮は梨玉のほうに視線を戻した。
緊張でがちがちだ。長公主に面会するのだから無理はないか。
「梨玉、調子はどうだ?」
「へ? あ、だ、大丈夫だよ! 好調好調!」
「大丈夫じゃなさそうだな」
夏琳英の前でろくでもない粗相をしそうな有様である。
雪蓮は小さな溜息を吐いた。
「その様子だと眠れなかったんじゃないか? 目元に隈もできてるし」
「うん。色々なことを考えちゃって……」
「考えるな。今あんたが悩んだってしょうがないことだ」
「理屈では分かってるけどぉっ! 小雪、頭を空っぽにするいい方法教えてよ!」
「空を眺めるのはどうだ? ちょうど窓から見えるぞ」
「ほんとだ。今日もいい天気だね……」
「僕も昔はよく空を見つめていたな。流れる雲を追っていると、俗世の細かいことが多少どうでもよくなるんだ。やはり悠久なる天は偉大だよ」
「そうかも……あ、あの雲、兎に見えない? かわいいね……なんだか頭を空っぽにできそうな気がしてきたよ……」
「空っぽにしすぎると四書五経も抜けるから気をつけろ」
「いや駄目じゃん!」
その瞬間、背後の兵卒が「静かにしろ!」と怒鳴った。
梨玉は反射的に背筋を伸ばして「ごめんなさい!」と叫ぶ。
「お、怒られちゃった……」
「私語は慎むべきだったな。すまない」
「ううん、小雪のせいじゃないけどさ……」
雪蓮と言葉を交わすことで少しは緊張が解れたようだが、根本的には何も解決していないらしい。梨玉は悩ましげな吐息を漏らして俯いてしまった。
(困ったものだ……)
やはり科挙が秘める魔力は尋常ではない。
あれほど自信満々だった梨玉がこうも追い詰められてしまうとは。
何か突破口はないかと考えあぐねていた時、にわかに官吏たちが騒がしくなる。やがて扉が開かれ、大勢の護衛とともに綾羅錦繍の正考官が姿を現した。
「待たせてしまったわね! 耿梨玉に雷雪蓮、変わりはないかしら?」
「は、はい! お変わりございません!」
梨玉が変な言葉を発しながら立ち上がる。
正考官・栄明長公主夏琳英は、にこりと慈愛に染まった微笑みを浮かべ、
「それはよかったわ。急に呼び出してしまってごめんなさい――お二人にどうしても話しておきたいことがあったのです」
「はい! ありがたく拝聴しますので何でも仰ってください!」
「耿梨玉、ひとまず座ってね」
「はい!」
梨玉は勢いよく座った。色々と駄目そうである。
一方、夏琳英は優雅な所作で対面の椅子に腰かけた。
紅玲朝の官僚たちを一目で虜にしたとされる美しさは健在で、今の雪蓮などでは及びもつかない品格が見て取れる。
(中身は邪悪そのものだけどな)
この女は光乾帝の犬だ。それだけで復讐するに値する。
梨玉がおずおずと口を開いた。
「あの、えっと、昨夜は大丈夫でしたか?」
「昨夜? ああ、黄皇党の件かしら?」
「はい。ずっと心配で……」
夏琳英は「ありがとう」と目を細める。
「心配してくれていたなんて思ってもいなかったわ。でも大丈夫、私はこの通り無事だったもの」
「よ、よかったです!」
「それにしてもひどいわよねえ。省庁の建物は三割くらい壊されちゃったって聞いたわ。そんなに不満があるなら天陽府に直訴すればいいのに……」
直訴したところで民草の願いは聞き届けられない。
全国的に暴動が起き始めている原因は、紅玲の官吏や皇族どもが奢侈に走って民衆から搾取しているからなのだ。すなわち自業自得。夏琳英はそれを分かっているのかいないのか――
「あの、長公主様。黄皇党の人たちはあなたを狙っているって聞きました。どうかお気をつけてくださいね……?」
「ふふ、ありがとう耿梨玉。私の居場所は誰にも知られていないから心配はいらないわ。たとえ知られたとしても護衛たちが何とかしてくれるから大丈夫。私の周りの人たちはすごいのよ、禁軍の中でも特別に優秀な者たちが集められていて――」
「長公主殿下。ご用向きはいったい何でしょうか」
雪蓮は敢えて急かした。
これ以上どうでもいい話に付き合いたくはない。
夏琳英は雪蓮を見、申し訳なさそうに苦笑した。
「あらごめんなさい。挙子の貴重な時間をいただいているんですもの、手短にお伝えしなければならなかったわね」
「こら小雪、不敬だよ! 不敬罪だよ!」
梨玉が慌てて囁いたが、雪蓮は正面を向いたまま無視しておく。
そのやり取りを微笑ましそうに見つめ、夏琳英は扇子で口元を隠しながら言った。
「二人にはそれぞれ別の要件があるの。まずは耿梨玉――あなたにちょっとした言い添えをしておく必要があるなと思って」
「どういうことでしょうか……?」
「一回目の答案を拝見したわ。王視遠が推薦していたとは思えない内容だったわねえ」
ぴくりと反応してしまった。
「え? お、王視遠さんが私について何か言ってたんですか……!?」
「あなたと李青龍という生員の考えは素晴らしいと賞賛していたわ。だから今回の郷試の李青龍の答案も見てみましたが、圧巻の一言ね。呉春元の型破りな問題にもよく対応している」
明らかに挙子に漏らしていい情報ではない。
そもそも正考官は答案用紙の氏名を確認することが許されていないのだ(挙子と考官が結託することを防ぐための措置である)。
が、夏琳英の場合は超法規的に何もかもが許されるらしい。
紅玲朝の科挙は、そういう細々とした部分でも弛緩が見える。
梨玉は表情を曇らせて呟いた。
「ごめんなさい。青龍さんみたいにご期待に沿えなくて……」
「だからね耿梨玉、私はあなたに一つ気づかせてあげたかったのよ」
梨玉が困惑気味に顔を上げた。
夏琳英の煌めく視線が梨玉を射抜く。
「今回の問題は誰も解けないようにできている。正考官の呉春元がそう作ったの。李青龍みたいな例外はいるかもしれませんが、そんな人は一握りよ。だから答案審査する側が見ているのは、破綻なく答案を書ききる力」
そうだ。その通りだ。
だが何故梨玉にそれを教えるのか。
「あなたの答案はちょっと肩肘張りすぎかもね。思っていることを忌憚なく書いちゃえばいいんじゃない?」
「あの、どうして私にそんなことを……?」
「前にも言ったでしょ? あなたみたいな子はなかなかいない。だから耿梨玉には是非合格して私の補佐をしてほしいの――今の紅玲は人材不足だからね、綱紀粛正をするには清い志を宿した官吏がたくさん必要なのです」
「でも私は」
「あなたは官吏に相応しいわ。私と同じところがたくさんあるもの――紅玲を変えてやろうっていう鋼の意志を持っているところとかね。それに顔立ちや声も似ているわ。そういうところも親近感が湧くのよね」
「……!」
梨玉が目を見開いて固まった。
暗中を模索する時間が長かったためか、論理と感情で訴える夏琳英の言葉は、梨玉の心に深く突き刺さったらしかった。感極まったように涙を浮かべ、夏琳英に対して果てしない尊敬の眼差しを向ける。
「が、頑張りますっ! ご期待に応えられるように!」
「無理しすぎないでね。身体を壊したら元も子もないから」
「大丈夫ですよ! 私、色々なことがあってずっと悩んでいたんです。問題が上手く解けなかったこともそうだし、黄皇党のこととか、これからのこととか……でも長公主様のお言葉のおかげで勇気が湧いてきました。だから絶対に科挙登第して長公主様のもとで働きたいです」
純真無垢な笑顔。
雪蓮の胸中にモヤモヤが堆積していく。
夏琳英が危険人物であることを指摘してやりたかった。梨玉のモチベーションが戻ったならば歓迎すべきことなのだろうが――何か嫌な予感がしてならない。
はたして夏琳英は、雪蓮のほうに視線を向けて笑った。
「ごめんなさい雷雪蓮。私から呼び出しておいて身勝手なのは承知していますが、いったん席を外してくれないかしら?」
「は……?」
「耿梨玉と二人で話したいことがあるの」
妖艶な眼差しを受け、雪蓮は胸を悪くした。
何か企んでいるのは明白だったが、挙子の身分で長公主に歯向かうことなどできなかった。雪蓮は一礼してから部屋を後にするのだった。
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