第55話 来臨
「おかしい。答案が三十ほど足りません」
不意に
呉春元は驚いて冬元の顔を見た。
「足りない? そんなことがあるか?」
「確認しておりますが、未だ見つかりませんね。一回目と二回目の試験、合わせてぴったり三十――つまり十五名ぶんの答案用紙が消えております」
「なんてこった……!」
答案用紙の紛失は重大な過失である。
一万八千もの挙子から回収しているため、一、二は行方が分からなくなることもあるのだが、三十は甚だ多かった。見つけられなければ朝廷から処罰されるに違いない。
ましてや今回、正考官として
(いやいや。楽観的な考えはよくねえ……)
呉春元は冷や汗を感じて立ち上がった。
答案の紛失は挙子の思いを踏みにじる行為でもある。呉春元は大して科挙に身を入れなかった性質だが、だからこそ努力している人間には敬意を持っていた。軽んじていいわけがないのだ。
「冬元、徹底的に探すぞ」
「はいお兄様――いや」
不意に冬元が動きを止めた。
その右目が部屋の入口のほうを凝視する。
何事かと思って呉春元も目を向けた瞬間、にわかに大勢の人間が遠慮会釈なしに入室してきた。
その中央に立っていたのは、今もっとも会いたくなかった人物である。
「呉春元! 調子はどうかしら?」
栄明長公主・
呉春元は慌てて威儀を正した。
「これは長公主殿下。いかがされましたか――」
そこでふと不思議に思って言葉が詰まる。
長公主の服装が、豪華絢爛とは言いがたい質素な麻服になっていたのだ。
皇族を示す髪飾りもついてない。さすがに気品あふれる空気感は隠せていないが、罷り間違えば平民と見られてもおかしくはなかった。
「あら、この恰好が気になるの?」
「いえ。しかし雰囲気が変わったなと」
「上に立つ者として民草の気持ちを分かっておくことは大切でしょ? 贅沢を極めた生活を送るわけにはいかないわ。天から見放されちゃうもの」
王朝は天から委任されて人民を支配している。
ゆえにトップが怠ければ、徳はたちまち失われ滅亡の憂き目にあうのだ。
これが儒教でよく言われる天人相関思想である。
それはさておき――呉春元は作り物の笑みを浮かべて言った。
「さすがでございますね。今日はどのようなご用向きで」
「私は正考官でしょう? あなたに一任しているとはいえ、郷試の進捗を確認しておく義務があると思いまして」
長公主はにこやかに笑いながら室内を闊歩した。
答案用紙のことを言うべきか言わぬべきか。
そうでなくとも濫りな来臨はやめてほしかった。
呉春元は苦々しい思いで窓の外に浮かんでいる月を睨んだ。
(この人、暇なのか……?)
時刻はおそらく日付変更直前。
長公主は北区画の高級宿に逗留しているらしいが、わざわざこのタイミングで貢院を訪れる理由が分からない。宿でやることがなくなって散歩がてら様子見に来たのだろうか。
「それで呉春元。郷試の進行はどのような具合かしら」
改めて尋ねられ、呉春元はぎょっとする。
冬元がこっそり耳打ちをしてきた。
「ここは隠し通すべきであると具申します」
それがもっとも丸い。
だが――罪を隠匿してもろくなことがない。
呉春元の直感がそう囁いていた。
「……万事順調と申し上げたいところですが、実はたった今答案用紙の紛失が発覚しました。一回目と二回目合わせて十五名ぶん。血眼になって探しているところです」
「お兄様……」
冬元が驚いて見上げてくる。
一方、長公主は意外な反応を見せた。
「へえ……呉春元、あなた、頭がいいだけじゃなくて正直者なのね」
「仔細にご報告するのが務めでありますゆえ。答案用紙は必ず見つけますのでご安心ください」
「その必要はないわ。だって私が持ち出したんだもの」
呉春元は一瞬、何を言われたのか理解できない。
「長公主殿下が? どうして」
「目星をつけておいた挙子の解答を見てみたいと思ってね、同考官に無理を言って借りちゃった。私がここに来た理由はその答案用紙を返却するためでもあるのよ」
長公主が傍らに目配せをする。
すると控えていた護衛が答案用紙の束を取り出した。
(なんという女だ……)
思わず眉をひそめずにはいられない。
長公主は呉春元の誠実さを試したのである。
そもそも答案用紙の持ち出しなど禁じられているはずなのだが――この長公主には何を言っても無駄に決まっていた。臣下は臣下らしく従順に振舞うほかない。
「ねえ呉春元、今回の挙子たちはどうかしら?」
「まだ答案を見ていませんので何とも」
「そうですか。私はとても優秀な答案を見つけてしまったわ」
「はあ」
「まあ、今回私が確認したのは各学政から推挙されている優秀な挙子のものだから当然なのだけれどね――その中でも特に李青龍、
余計なことをしてくれる。
一人一人、虚心坦懐に答案審査をするのが考官の務めであろうに。
しかし呉春元は笑みを深めて追従しておいた。
我が身が可愛いからである。
「それは私も審査するのが楽しみですね」
斜め後ろでは冬元が虎のように顔をしかめている。頼むから大人しくしていてほしかった。
「この六人は三回目の如何に拘わらず通過させてしまっていいわね」
「は? 通過ですか……?」
「ええ。何も問題ないでしょう?」
挙子の特別扱いはもちろん禁じられている。勘弁してほしい。露見すれば死罪も免れないのだ。
「検討しておきます」
「それとね――」
長公主は不意に表情の色を変える。
口元には笑みが湛えられているはずなのに、何故だか冷気の感じられる視線を一つの答案用紙へと向けた。
「どうしようもない挙子も発見してしまったわ。これはすぐに不合格にしてしまってもいいくらい」
「そうですか。しかし三回目で挽回する目もありましょう」
「ないわ。だって私を侮辱しているんだもの」
場に緊張が走った。
科挙の答案には言論の自由が約束されているわけではない。皇帝や王朝に対して叛意ありと見做される文章を綴れば、無論処罰の対象になるのだ。中には意図せざるうちに不敬な解答を連ね、死刑に処された哀れな挙子の記録も伝わっている。
同考官の一人が慌てて立ち上がった。
「中身を検めましょうか。京師に送ることも考慮せねば」
「その必要はない。そういうことじゃないもの」
「は? どういう意味で?」
「あなたたちは知らなくていい」
長公主は護衛が持っていた答案用紙を漁る。やがて一枚の紙束を取り出した。遠目だったので呉春元には分からなかったが、識別のための文字には成十七と書かれていたような――
「な、何をなさるのです」
「紅玲に必要のない人物は落としておかなくちゃね」
雷鳴のような音が響きわたった。
長公主が答案用紙を素手で破り捨てたのである。
ぱらぱらと舞う紙片を見つめ、呉春元は呆然とせざるを得ない。
(何を考えているんだ、こいつは――)
驚愕する内簾官に囲まれ、栄明長公主はしかし不気味に口角を吊り上げていた。優美な仮面の裏に隠されたその素顔――それはクーデターで帝位を簒奪した
長公主はいつも通りに笑って手を打ち鳴らした。
「さあ、郷試を頑張りましょうか。紅玲に資する人材を獲得するために!」
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