第56話 対面

 栄明えいめい長公主はどこまでも優しい人だった。

 梨玉はその施しを受けた瞬間、科挙登第を果たして長公主の隣で働く自分の姿を思い描いてしまった。


 かつて梨玉の故郷を押し流した知県・よう士同しどうをはじめ、紅玲朝の官吏には人の心を失った者が多いが、栄明長公主だけはどこまでも清らかな心を持っている――相対してみてそのことが身に染みて分かったのだ。


「さて――これで二人きりになれたわね」


 郷試の二回目、入場の日に長公主から呼び出された際の出来事である。

 雪蓮は一度退室したため、残っているのは梨玉と長公主のみ。

 梨玉は緊張で喉が渇いていくのを感じながら石のように固まっていた。


「耿梨玉、あなたに一つだけ確認しておきたいことがあるんだけど」


 梨玉は慌てて背筋を伸ばし、


「な、何なりとお申し付けください! 出身地や家族構成はもちろん、背丈とか体重とかその他諸々の個人情報まで包み隠さずお伝えしますっ!」

「あなたって女の子よね?」


 天地がひっくり返るかと思った。

 それは――さすがに包み隠さずお伝えできない。

 しかし長公主は確信をもって追究してくるのだった。


「証拠が揃っているから騙されている人も多いですが、私の目は誤魔化せませんよ? 女子には女子特有の空気というものがある――紅玲の宮廷で男と女の違いを意識させられてきた私には分かってしまうのよ」

「私は本当に男なんですが……」

「違うわ。この場で確認してあげましょうか?」


 欧陽冉から小壺を拝借しておけばよかったか――否、そんなことをしても無駄である。その場しのぎの小細工で長公主を欺くことはできない。つぶさに調査されてしまえば真実が明るみに出、偽証罪で処罰されることも考えられた。


 身体の震えが止まらなかった。

 梨玉に残された道は、必死で懇願することだけである。


「――ご、ごめんなさい! あの、私、どうしても科挙に合格しなくちゃで! 悪いことをしているとは分かってるんですけど」

「何を言っているの? 悪いことじゃないわ」


 しかし長公主は、包容力のある笑みを浮かべて言った。


「前に春元しゅんげんも言っていたけれど、あなたが女子であったとしても罪に問うつもりはありません。私の個人的な意見を言わせてもらうけれどね――科挙試験は女子にも門戸を開くべきなのよ。身分に囚われずに官吏を登用するのが科挙の本旨であるならば、性別の縛りもなくして然るべきだもの」

「え……?」

「あなたはこれまで想像を絶する苦労をしてきたのよね。女子が性別を隠して郷試まで辿りつくなんて前代未聞。本当によく頑張ったわね――その努力は必ず報われるべきだわ。こんなところで摘まれていいわけがない」


 労りの気持ちが籠もった言葉。

 梨玉は自然と心が動かされていくのを感じた。


 思い起こされるのは今日までの試験地獄――県試、府試、院試といった試験、そして県学で学んだ日々である。いずれも仲間たちに支えられて乗り越えることができたが、決して平坦な道のりではなかった。


「長公主様は、どうして私を庇ってくれるんですか……?」

「私は女子も男子も関係なく活躍できる世界を作りたいと思っているの。そのために科挙制度を変えようと思っているんだけど――まさか最初の視察であなたみたいな人に出会えるとは思わなかったわ」


 梨玉が一回目の身体検査で摘まみ出されなかったのは、長公主が便宜を図ってくれたからだ。この人には感謝してもしきれなかった。

 長公主はふと物憂げに目を細め、


「あなた、どうして科挙登第したいと思っているの?」

「それは……」


 虚飾は必要ない。

 梨玉はありのままの思いをぶつけることにした。


「私の家族は郷里を襲った洪水で亡くなりました。お役人様が河の工事を怠けちゃったんです。だから今後はそんな悲劇が起こらないように、紅玲の官吏になって色々と変えたいと思いました。あ、その、一回目の試験でひどい答案を書いた私がこんな高言をするのはおこがましいんですけれど……」

「いいえ。その志はとても立派よ」


 長公主は扇子で口元を隠して言葉を続けた。


「あなたの境遇にはとても共感できるわ。私も小さい頃からそうだった――紅玲朝が樹立されてから百三十年、天下の色々なところに歪みが浮かび上がっている。私はそれらを糺してあげたかったのに、父である炎鳳帝からは女だからという理由で蔑ろにされてきた。私が男だったなら――いえ、たとえば科挙官僚をも凌駕する知恵を持っていたなら話は違ったのかもしれないけれど」

「あれ? でも長公主様は今、皇帝陛下のもとで働いているんじゃ……」

「それはお兄様が英明な方だからよ。炎鳳えんほう年間は他の長公主たちと同じように顧みられない毎日だったわ。かといって状況を打破するだけの能力も持っていない――結局、お兄様が即位して取り立ててくださるまで何を成すこともできなかった」


 長公主は扇子を揺らしながら語る。


「だからね耿梨玉、私はあなたのことが羨ましい。後宮にこもっているだけの私とは違って自分の力で動き出す力があった。女子でありながら四書五経を学び、学校試を切り抜けて郷試に挑戦するなんて驚天動地よ。私もあなたのような才能があったなら――」

「い、いえ! 私は長公主様のことを尊敬してます」


 梨玉はつっかえつっかえに言葉を発した。


「こ、こんなこと言ったら調子に乗っていると思われるかもしれませんが……誰でも科挙を受けられるようになれば紅玲はもっとよくなる、と、私は確信していますっ! 長公主様がいなかったら紅玲はもっと大変なことになっていまました!」

「そうかしら?」

「はい! 長公主様のおかげで救われる人はたくさんいますっ! 私も優しいお言葉をかけてもらっちゃいましたから……」


 出過ぎた発言だったろうか――一瞬不安になったが、梨玉は本当に長公主の理想は素晴らしいと思ったのだ。世の中に梨玉よりも優秀な女子などいくらでもいる。そういう人材が紅玲の朝廷で活躍すれば、暗雲立ち込める今の社会もどうにかなるはずだった。

 長公主は扇子をぱたりと閉じて笑った。


「本心からそう言ってくれているのね」

「は、はい。長公主様はとてもご立派です」

「嬉しいわ――あなた、今日から官吏になっちゃわない?」

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