第57話 捐納
「へ?」
思考が止まる。
「
梨玉は驚きのあまりしばし言葉を失った。
捐納――それは朝廷が公式に認めている売官制度である。
多額の金銭と引き換えに朝廷に奉仕する権利を得られるのだ。梨玉も昔は考えたことがあったが、科挙試験を受けるよりもはるかに費用がかかるため断念したのである。
「あ、あの、私、そんなにお金もないですし」
「お金なら私が立て替えてあげるわ。官吏になって働いて返してくれればいい」
「そう言われましても」
「殿試を通過するまで待てないわ。あなたほど能力がある子なら科挙官僚の地位に拘る必要はないのよ――どうかしら? 今すぐ私のもとで働いてみない?」
長公主はそうするのがもっともよいと言わんばかりに目を輝かせている。
梨玉は高速で思考を巡らせた。
はたしてそれは正しい選択なのだろうか。
科挙出身の官吏は
しかし長公主のお墨付きとなれば話は別かもしれない。官吏一年目から重要な仕事を任されることも考えられる――
(だけど……)
将来の出世の如何など二の次だった。
目を瞑って反芻されるのは、状元を目指して四書五経を読み込んだ毎日。そして仲間たちと切磋琢磨した毎日。そして家族に科挙登第を約束して旅立った日のことだ。
梨玉の答えは最初から決まっている。
ここまで来たのに引き返すわけにはいかなかった。
「ごめんなさい。お断りさせていただきます」
長公主は平手打ちをされたような表情で固まった。
「……どうして?」
「私は科挙登第するって決めているんです。それができるって信じています。お誘いはとても嬉しいのですが、今回はなかったことにしてください」
なけなしの勇気を振り絞って強い言葉を選んだ。
皇族の提案を断るなど前代未聞、周囲の護衛たちも梨玉の強情さに驚いた様子を見せていたが、誰かに口を挟まれる筋合いはない。梨玉には科挙にかける情熱があるのだ。どれだけ旨い話だとしても飛びつくわけにはいかなかった。
長公主はしばらく試すように梨玉を見つめる。
梨玉は負けじと毅然な態度でそれに応じた。
やがて長公主はにわかに破顔し、
「――ふふ。あなたは面白いわね」
くるりと扇子を振った。
「であれば是非郷試に合格してほしいわ。進士になったら私のもとで働いてね」
「は、はい! そうなれるように頑張りますっ!」
梨玉は心の底から安堵した。
場合によっては不興を買うことも覚悟していたが、長公主はどこまでも寛大な人物らしい。これで心置きなく郷試に向かうことができる。
「――だけど一つだけ心配していることがあるの」
ところが、長公主が困ったように頬に手を当てた。
ゆっくりと歩を進め、梨玉の眼前で立ち止まる。
そこでふと気づいた。てっきり長公主は自分より何尺も背丈があると思っていたが、意外にも目線の高さはちょっと見上げれば済む程度だった。器の大きさによって実際以上の存在感を放っていたのかもしれない。
「
梨玉はハッとして我を取り戻した。
黄皇党。
その存在は
「は、はい。確か省庁を焼いたのも黄皇党の人たちですよね……?」
「そうね。彼らは私の身柄を確保して紅玲に何らかの要求をしたいようなの。本当に困ったものだわ、おかげで雲景府の人々は安心して夜も眠れなくなっている」
「長公主様。安全なところに避難したほうがいいんじゃ」
「逃げるわけにはいかないわ。私は黄皇党を更生させなくちゃだもの」
長公主の瞳は真剣だ。
匪賊が跋扈する要因は紅玲朝の暴政にあると言われている。
その責任を感じているに違いなかった。
「このまま彼らを放置しておけば、おそらく郷試も台無しになるでしょうね。そんなことになったら一万八千人の挙子たちに申し訳が立たない。あなたが官吏になる日も遠ざかってしまうわ――許しておけるはずがないでしょう?」
梨玉の心が喜びに満たされていく。
黄皇党の件は心配だが、期待されて嬉しくないわけがないのだ。
ところが長公主は一転、険しい表情を浮かべてこう囁いた。
「だからね、耿梨玉。あなたにお願いがあるの」
「な、何でしょうか……?」
「黄皇党の本拠地は雲景府にあると言われている――首魁である夏釣文という男もよく目撃されているから間違いないわ。でもその場所が一向に分からないのよ。軍が幾度も調べているけれど影も形もつかめていないの」
雲景府は唐州省の首府だけあって広大なのである。
虱潰しに探すといっても限度があった。
しかし妙な話だ。
梨玉に対するお願いと何の関係があるのだろうか。
「えっと……それがどうしたんでしょうか?」
「あなたに見つけてもらいたいのよ。黄皇党の根城を」
「はい……?」
「黄皇党は私を狙っている。だから私の身代わりになって誘き寄せてほしいの。あなたならできるわ、だって私と雰囲気が似ているしね」
突拍子のない話だった。
梨玉は口をぱくぱくさせるばかりでろくな言葉が紡げない。
「で、でも」
「私の夢を叶えるには必要なことなの。黄皇党を何とかしなければ、科挙制度の改革に着手できない。郷試で大変なのは承知しておりますが、私を助けると思って引き受けてくださらないかしら?」
長公主は曇りのない笑みを浮かべている。
冷静になるべきだと理性の部分は叫んでいた。
相手は悪逆非道なテロリストである。万が一下手をして捕まれば、筆舌に尽くしがたい責め苦を味わわされるに決まっていた。殺されてしまう可能性も否定できない。しかも梨玉は挙子として応試している最中である。長公主の求めに応じることはすなわち、科挙登第の夢を棒に振るようなものだった。
しかし――栄明長公主の温かな眼差しは、暗闇の道を彷徨っていた梨玉の心をいとも簡単につかんでしまった。
そもそも皇族からの命令を一介の挙子ごときが拒否できるはずもない。
決意はすぐに固まってしまった。
「わ、分かりました! 私にできることなら何でもします!」
長公主は梨玉の手を握って目を細める。
「ありがとう耿梨玉。あなたのおかげで私はさらに一歩進めるわ。じゃあさっそく具体的に何をするかだけど――」
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