第58話 尋問

 梨玉に与えられた仕事は歩くことだった。

 雲景うんけい府の繁華街で囮となるのである。


 栄明えいめい長公主・琳英りんえいであると誤認させるため、服は長公主が着ているものを拝借し、頭には皇族であることを示す簪も刺していた。長公主の顔は公開されていないので、影武者を演じるのは難しいことではなかった。


 もちろん、闇雲に往来を歩くだけでは黄皇党こうこうとうを誘き寄せることはできない。

 ゆえに長公主は数日前から噂を流しておいたのだ。


 曰く――「夏琳英は試験が終わった晩に雲景府の北区画をお忍びで出歩いている」。

 無論、長公主本人を危険な目に遭わせるわけにはいかない。

 だから梨玉が身代わりとなって黄皇党を誘い出すのだ。

 見方によっては捨て駒にも思えるかもしれないが、梨玉は長公主のために身を削ることを誉れに感じていた。


(長公主様に頼まれちゃったんだもん。絶対に成功させなくちゃ……)


 長公主は紅玲朝の中枢にいる人間とは思えないほど高潔な人だ。

 科挙登第も果たしていない挙子の身で役に立てるならば、多少危険が伴おうとも構わなかった。


 梨玉は往来を歩きながら周囲を眄ずる。

 長公主に指示された兵卒がさりげなく歩いているのが見えた。

 あからさま軍装の他に、平服をまとった伏兵もいると聞いている。

 もし黄皇党が現れても即座に対応してくれるはずだった。


(大丈夫。黄皇党の狙いは人質にとることだから……)



 ――心配しなくていいわ、万が一にでも殺されることはないもの。仮にひどい暴力を受けそうになっても護衛が助けてくれるから。



 長公主はそう言っていた。

 つまり梨玉の身の安全は保障されているのだ。


 大船に乗ったつもりで堂々と歩けばいい――鼓動の音が煩いくらいに主張するのを感じながら梨玉はひらすら進んでいた。


 だが結局、己の浅はかさが浮き彫りになってしまった。

 突如として現れた暴漢たちは、目くらましに何らかの爆発を起こした。

 周囲の人々が気を取られているうちに、梨玉はあっという間に拘束され、容赦のない暴力を振るわれることになった。


 目で助けを求めても意味はない。

 護衛たちは爆発に気を取られて右往左往するばかりだ。

 中には冷静さを保っている者もいたが、何故か一向に動こうとはしなかった。状況を分析するかのごとく物陰で不動に徹している。


(そうだ……そうだった……)


 冷静に考えればすぐに分かる。

 今回の目的は黄皇党の本拠地を探し当てることだ。

 誘き出された暴漢を捕らえて尋問する手もあったが、効果的なのは、囮をあえて攫わせた後、油断してそのまま帰還するところを密かに尾行することなのである。


 殴られた衝撃で意識が薄らいでいった。

 長公主に説得されて引き受けてしまったが――


(た、大変な仕事だ……)



          □



 それからしばらく時間が経った。

 梨玉は薄墨のような闇の中でぼんやりと覚醒する。


 意識を覆っていた靄が晴れ、目を凝らしておぼろげな世界を観察した。辺りに漂うのは酒や食べ物、黴のにおい。すぐ近くでは大勢の人たちが車座になっている。壁に灯された松明の火が揺れ、粗雑な土壁に無数の影を作っていた。


「あれ? ここどこ……?」

「おお! 太子様、気づいたようだぜ!」


 野太い歓声が折り重なって聞こえた。

 梨玉はぎょっとした気分で半身を起こした。すぐそこでたむろしていたのは、いずれも黄色い布を巻きつけた男――黄皇党のメンバーだったのである。


「どうする? 何か拷問でもするかい?」

「あんまり騒ぐんじゃねえよ。長公主様が驚いちまうじゃねえか」


 不意に人垣の中から見覚えのある人物が現れた。

 梨玉は驚きのあまり声をあげる。

 赤茶けた髪、禽獣のごとく不気味に輝く瞳。

 男たちから太子様と呼ばれたのは、先日省庁を焼き討ちしたテロリストの首魁――釣文ちょうぶんに間違いなかった。


 梨玉は慌てて立とうとしたが、脚が縺れて転がってしまった。

 絶望に駆られて視線を向ければ、足首が縄できつく縛られているのが分かった。


「やめておきな。お前は囚われの身なのさ」

「こ、ここはどこ……?」

「おっと余計な口を利くんじゃねえぞ? 主導権はこっちにあるんだ。お前は質問されたことにだけ答えていればいい」


 夏釣文は獣のような笑みを浮かべている。

 その場にしゃがみ、梨玉と目線を近づけて言った。


「お前、名前は何だっけ?」

「私は……」


 栄明長公主・夏琳英だと言いそうになって口を噤む。

 梨玉はこっそりと周囲を見渡した。

 壁にかけられた武具。散らばった酒器。広い空間には無数の仕切りで部屋が作られ、古ぼけた寝台が乱雑に置かれていた。明らかに黄皇党の連中はここで寝泊まりしている。


(ここが根城なんだ……)


 であれば、長公主の目的は達せられたということだ。

 これ以上正体を偽る意味はない。

 そもそも夏釣文は梨玉と出会っているのだ。

 嘘を吐いても相手の機嫌を損ねるだけである。


「……私は耿梨玉。雲景府には郷試を受けに来たの」

「郷試だって? それはそれで妙な話だが――とにかく、お前は栄明長公主じゃないんだよな?」

「うん。前に会ったことあるでしょ?」


 すると夏釣文は、ちっと露骨な舌打ちをして男たちを振り返った。


「聞いたかてめえら! やっぱりこいつは夏琳英じゃなかった! 誘拐する時によく確認しやがれよ、馬鹿丸出しじゃねえか!」

「んなこと言ったって太子様、見た目が長公主っぽかったんですもん。上等な着物に簪、加えて情報にあった通り、北の道をこっそり歩いてるんですよ? 間違うなってほうが酷な話じゃないですか」


 背後の男たちがそれに追従して頷いている。

 夏釣文は呆れ果てた溜息を吐いて梨玉に向き直った。


「すまねえな。こいつらはちと頭が弱いんだ」

「は、はあ……」


 一瞬毒気を抜かれたが、梨玉はすぐに気を引き締めた。


「……長公主様を攫ってどうするつもりだったの?」

「質問するなって言ってるだろ。お前には二、三聞きたいことがある」


 低く恫喝され、梨玉は萎縮してしまった。

 夏釣文の腰には剣が佩かれている。

 護衛たちが助けに来るまでは大人しくするしかないらしい。


「何の目的でうろついていた? 女子供が出歩くような場所じゃねえはずだ」

「私は男だもん。うろついていてもおかしくないよ」

「そういや挙子とか言ってたな」

「そうだよ? 将来は状元じょうげんで合格する予定だかんね」

「そうかい。じゃあ確認してやるよ」


 夏釣文は遠慮会釈なしに梨玉の襦裙じゅくんに手をかけてきた。

 背筋が凍った。そうして己の言動を後悔した。

 この人物にはハッタリの類いが通用しない――本気で性別を明かそうとしている。むりやり理解させられた梨玉は、咄嗟に身を引いて撤回した。


「ま、間違えた! 私は女だよ! 挙子っていうのは本当だけど……」

「はあ? 俺に嘘を吐いたってのか?」

「ごめんなさい……」


 冷徹な瞳で見下ろされ、梨玉は思わず身震いをする。

 これまで相対してきた障害とはわけが違った。

 少しでも下手を打てば殺される――途方もない緊張感が頭を満たしていった。


「質問を振り出しに戻すぞ。お前は夜道を歩いて何を企んでいた?」

「ちょっとした散歩だよ。当て所なく歩きたくなることってあるでしょ」

「なるほどねえ、納得できんこともないが……」


 夏釣文の視線が一点に止まった。


「じゃあもう一つ聞かせてもらおうか。その頭に挿している簪は何だ? 紅玲の皇族を示す龍の紋章がついているよな?」


 言い訳のしようがない。

 長公主から下賜されたと正直に白状すれば、芋づる式に作戦の全容が露見するのだ。そうなれば黄皇党は即座に撤退し、官憲の手から間一髪逃れることになる。長公主の期待に応えるためにも隠し通さなければならなかった。


「これは……皇族の方からもらったの」

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