第59話 黄皇

「どういうことだ?」

「私もよく覚えていないんだけどね、大昔、私が生まれるよりも前、郷里に皇帝陛下か巡幸したの。当時、村は洪水で大変なことになっていたから、陛下はそれを気の毒に思ってたくさんの贈り物をしてくれたんだって。その中の一つがこれ。お母さんからもらったんだけど……」


 虚実を入り混ぜた妥当な誤魔化だと内心自画自賛する。

 だが釣文ちょうぶんは訝るように眉をひそめた。


「俺を欺こうとしているな」

「え……」

「嘘を吐くやつは分かるんだ。言葉の数が増える。目が右へ行ったり左へ行ったりする。お前はもともと正直な性質らしい。嘘を吐くことに慣れていねえ――さっきから何度瞬きをすれば気が済むんだ?」


 駄目だ。見透かされている。

 梨玉の話術は通用しない――

 夏釣文はふっと自嘲的に笑った。


「俺は代宗だいそう宣寧せんねい帝の玄孫でね、罷り間違えば親王として地方を統治していたかもしれない人間なのさ。だが現実はそうはなっていない――むしろ不逞の皇帝の子孫として蔑まれてきた。そのへんの民草よりも遥かにひどい境遇だったよ、何せ紅玲朝が直接迫害してくるんだからな」


 紅玲朝には当代・光乾こうけん帝を含めて八人の皇帝が立ったが、特に数奇な運命を辿ったのは四代宣寧帝である。兄である三代同武どうぶ帝が急死した際、同武帝の子にして皇太子である楹勉えいべん(後の五代景暦けいれき帝)を脅迫して無理に帝位を得たものの、恨みを募らせた夏楹勉がクーデターを起こして失脚、凌遅りょうちの刑に処された。以後、その子孫は逆賊として紅玲朝から迫害される憂き目に遭って久しい。ちなみに宣寧帝の即位は長らくなかったことにされていたが、型破りで有名な炎鳳えんほう帝の時代、宣寧の元号が復活され、代宗の廟号も贈られた。とはいえ子孫の名誉回復までは行われなかったはずである。


 閑話休題。

 夏釣文は刃物のように鋭い視線を突き刺してくる。


「――だから俺は人を鑑定する目には自信があるんだ。誰が俺の命を狙っているか。誰が俺を心の底から慕っているか――それが見分けられるようでなくちゃ話にならねえ。俺に言わせれば、お前は腹によからぬ企みを抱えているのが見え見えなのさ。こいつを放っておくわけにはいかねえよな」

「う、嘘じゃないって! 本当のことなんだから――」


 ざぱん。

 にわかに大量の水が降ってきた。

 梨玉は押し流されるようにへたり込む。髪も服も一瞬にしてずぶ濡れ。ぽたぽたと落ちる雫を見つめ、梨玉は信じられない思いで視線を上に向けた。

 黄皇党の男が、桶の水をぶちまけたのである。


「な、何するの……?」

「太子様に逆らうんじゃないっ!」


 突然無遠慮に蹴られ、梨玉は背後に転倒した。

 男は口角泡を飛ばして叫び続ける。


「このお方はいずれ紅玲を倒して新しい天子になるのだ! 無礼な口を利くと痛い目を見るぞ! お前のような卑賎の者とは端から身分が違うのだからな!」

「紅玲を倒す? そんなの許されるわけが……」

「五月蠅い! 貴様は黙って黄皇党に従っていればいいのだ!」


 男は躍起になって梨玉を足蹴にした。

 黄皇党の連中は面白がって手を叩いている。

 紅玲を倒して天子になる――それは不敬も甚だしい大言壮語だった。儒教の観念では徳の移り変わりによって王朝が交代するが、黄皇党のごとき粗野な人間たちに天命が下るとは到底思えない。


「まあまあ、落ち着けよはん

「太子様……」

「あまり手荒なことをしても仕方ねえだろ? 俺たちは義を重んずる黄皇党だ。女子供は天下の宝、大切に扱ってやらなきゃだろうに」


 夏釣文が窘めるように言った。

 范祺と呼ばれた男は申し訳なさそうに動きを止め、夏釣文に目礼してから梨玉のもとを離れる。

 入れ替わりで梨玉の前に進んだ夏釣文は、人好きのしそうな笑みを浮かべて言った。


「気分はどうだ? 少しは話したくなっただろ」

「あなたは……本気で紅玲を滅ぼすつもりなの?」

「それは天が決めることだ。俺は天の囁きに従って動いているにすぎねえ――」


 夏釣文は濡れそぼった梨玉の髪の束をつかんだ。

 夢を語る子供のように輝く瞳がそこにあった。


「――だが、紅玲の馬鹿どものせいで天下が乱れているのは確かだ。人々は圧政、飢饉、災害に苦しんでいる。なればこそ俺は皇帝になって天下を治めてやりたいと思っているのさ。陳勝呉広ってやつだよ」


 梨玉はこれまで言葉によって人々と対峙してきた。

 知恵と情熱さえあれば、いかなる困難でも乗り越えられると思っていた。


(だけど。この人には通じない……)


 夏釣文の自信を裏付けるのは、圧倒的なまでの暴力だ。

 この人は正攻法を採らない。力によって世界を滅茶苦茶にすることを是としている。梨玉がいくら言葉を重ねたところで通用しないのだ――説得する前に拳で殴られてしまえば、すべての言論は封殺されてしまうからだ。


「さあ、俺の質問に答えてもらおうか。もし黙り込んだり嘘を吐いたりするようなら仕方ない、本意ではないがこれを使わせてもらうしかねえな」


 夏釣文はゆっくりと剣を引き抜いていった。

 蝋燭の明かりが反射し、刃がてらてらと光を発する。


(駄目だ)


 梨玉には手の打ちようがない。

 縛られたまま祈ることしかできなかった。


(誰か助けて……)

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