第60話 隧道
梨玉を攫った黄皇党の連中は、人の流れを掻き分けながら西方へと進んでいった。
雪蓮と李青龍は逃がすまいと必死になって追いかける。
往来を直走ること一刻、
「あのあばら家が本拠地なのか……?」
「すでに十二人入っていくのを数えたが、家屋の大きさを考慮すると些か妙だ。何か仕掛けがあるに違いない――雪蓮殿、いま少し近づいてみようではないか」
周囲を警戒しながら茅屋に向かって歩を進めた。
居住用ではなく倉庫か何かだろうか。
壁のあちこちが腐っているため、立っているのが奇跡と思えるほどの有様だった。
「……人の気配がない。あれほど入っていったはずなのに」
「やはり何か秘密があるに違いない。突入するとしようかね」
雪蓮は窺うように李青龍の顔を見上げた。科挙受験者にありがちな文弱の気風は少しも感じられない。むしろ戦慣れした軍師とか
「あんた、怖くないのか」
「梨玉殿を失うほうが怖いね。天下のためになる人材がこんなところで失われるのは惜しい。そして友人としても彼のことは何としても救い出したいと思っている」
「何か武術の心得は?」
「大したことはできないが、蛮勇なら自信があるね。科挙試験を受けている者はみな勇者だ。この程度の困難に立ち竦むほど軟弱ではないぞ」
「つまり何の期待もできないということだな」
雪蓮は溜息を吐いて扉を開けた。
中は暗くて黴臭い。月明りに照らされているのは、乱雑に積まれた木材、割れた酒器、よく分からない書物の山。人の気配は一切感じられなかった。
「もぬけの殻か。どこへ行ったのだろうかね」
「いや――ここだ」
雪蓮は床に広げられていた毛氈をめくった。
李青龍が声をあげた。
下から現れたのは、地下へと続く小さな階段である。
蝋燭に火を灯して覗いてみれば、濃密な闇の向こうに空間が広がっているのが見えた。どうやら地下通路が伸びているらしいのである。
「これは驚いた。巨悪は地下に巣食っていたのか」
「感心している場合じゃない。行くぞ」
「おうとも!」
雪蓮は躊躇いなく地下へ続く穴へと身を滑り込ませた。
本来は省庁に報告して処理を任せるべきなのだろうが、呑気なことをしている場合ではない。梨玉の命が危ないのだ。
通路はこの手の抜け道にしては意外なほどに広かった。さすがに二人並ぶことはできないが、雪蓮程度の背丈であれば窮屈せず歩を進めることができる。
「雪蓮殿、壁に奇妙な文字が書かれているぞ」
李青龍が蝋燭の炎をかざした。
墨か何かで綴られていたのは――「五科登第」「連中三元」「
「何だこれ? 科挙と何か関係があるのか?」
「さてね。かなり古い筆跡のように見えるが……」
「ここの署名には
奇妙だが気にしても仕方がない。
雪蓮は不気味なものを感じながら進む。
そうしてすぐに気がついた。
(やはりこの道は黄皇党の根城につながっている)
ただの古い隧道ではない――異様に歩きやすいのである。近いうちに何度も人が出入りした形跡が見て取れた。よく見れば足跡らしきものがいくつも残っている。
「そういえば雪蓮殿」
薄闇を掻き分けるように歩いていた際、背後の李青龍が声をあげた。
「梨玉殿のことだが、気になることがあってね」
雪蓮は眉をひそめた。
「声がでかい。やつらに聞かれたらどうするんだ」
「では声量を抑えてお伝えするが、梨玉殿の行動はあまりに変だったとは思わないかね」
「それはそうだ。背後に何らかの事情があるんだろう」
「私は長公主殿下の仕業だと思っている」
雪蓮はぎょっとして振り返った。
李青龍の顔は暗くてよく見えなかった。
「……何を根拠に?」
「梨玉殿は明らかに長公主に扮していた。そして攫われた際の発言から察するに、誰かから指示されて囮役をやらされていたのだろう」
「それで長公主を疑う理由は何だ」
「龍の簪だ。あれを下賜できるのは皇族しかいない。ではいつ渡したのか――その答えは簡単だ。正考官の権力を使って呼び出せばいい。実際、長公主は此度の郷試で有望な者を招いて声をかけているらしい。私も呼び出されて色々とありがたい訓示をもらったよ。雪蓮殿もそういうことはなかったかね」
意外な事実だった。しかし
「……僕たちも入場の日に呼び出されたよ。あの簪は長公主にもらったものだと梨玉は言っていたな」
「やはりそうか。ということは……」
得体の知れない黒い感情が湧き上がってくる。
雪蓮も梨玉を追っているうちに薄々気づいていた。
この件も夏琳英が裏で糸を引いているのではないかという予感。
李青龍はさらに声を潜めて囁いた。
「この際だから明かすが、長公主殿下には気をつけたほうがいい」
「どういうことだ?」
「栄明長公主はその手腕を買われて光乾帝から様々な仕事を任されている女傑だ。しかし近頃はその勢力に陰りが見え始めているらしい――何故なら光乾帝の息子である皇太子が自らの叔母のことを毛嫌いしているからだ。現在宮廷では長公主派と皇太子派に別れて犬も食わぬ政争が生じているのだとか。長公主が人材確保に余念がないのはこういった背景があるのかもな――」
「ちょっと待て。何故あんたがそんなことを知っている」
「紅玲の宮廷に伝手があるのだ」
雪蓮はぴたりと足を止めた。
「おわっ!? 急に止まるな雪蓮殿っ!」
李青龍がつんのめるようにして雪蓮の両肩に手を置いた。
だがそれどころではない。
確認しておかなければならぬことがあった。
「伝手とは何だ? どこまで紅玲と関わり合っている?」
「親戚が中央で働いているのだ。時折書簡で
「いや……何でもない」
梨玉はかぶりを振って心を落ち着けた。
思わず気色ばんでしまったが、親戚が朝廷で働いている程度で目くじらを立てるのは些か神経質すぎた。紅玲憎しで視野が狭くなっているらしい。
李青龍は気を取り直して言葉を続けた。
「とにかく前述の理由で長公主は困っているらしい。何か絶大な手柄を立てなければ皇太子派に呑まれてしまうような状況なのだそうだ。しかも光乾帝も皇太子に影響され、徐々に長公主のことを疎ましく思い始めているらしい。普通に考えれば次期皇帝である皇太子に逆らうなど愚の骨頂なのだが、長公主はその点の道理が理解できぬようでね、朝廷内部の諍いの火種となっている。これまでの功績があるとはいえ、放置しておくことはできんのだろうよ」
「だから皇帝をも黙らせる大手柄を立てようってか?」
「ああ。その大手柄として考えられるのは――科挙制度の改善。そして正考官として赴任した地で匪賊を退治すること」
「そんな馬鹿な話があるとは思えないな」
「私の親戚によれば、長公主は従来の物差しでは測れない奇特な御仁らしいぞ? その程度の発想をしてもおかしくはない」
確かに夏琳英は昔からエキセントリックだった。
雪蓮では及びもつかないほどに。
(それはさておき)
夏琳英が薄氷の上に立っているとは意外だった。
てっきり光乾帝に信任され盤石な地位を築いていると思っていたのに。
仮に李青龍の話を全面的に信ずるならば、見方を少し変える必要がありそうだった。
「つまりだね、梨玉殿は長公主が手柄を立てるための駒として利用された可能性があるのだ。非常に由々しき事態だと思わないかね」
「その通りだが――」
雪蓮はじろりと背後の李青龍を睨んだ。
「いつまで肩を触ってるんだ」
「おっとすまない!」
李青龍がおどけた様子で離れていった。
そこでふと首を傾げ、
「しかし雪蓮殿、意外に華奢だな? 並外れた武芸者でもあるから筋肉質かと思っていたが、予想に反して滑らかというか何というか……」
「あまりしゃべると殺すぞ」
「ははは。雪蓮殿に言われると何故か冗談の気がしないぞ」
冗談ではないからである。
気を許しすぎると無駄なスキンシップが増えるため、今後は注意して接する必要がありそうだ。
(とにかく先を急ごう)
雪蓮は李青龍を無視して再び歩き始める。
だがその瞬間、隧道に甲高い声が響き渡った。
続いて男たちが騒ぐような物音も聞こえてくる。
「まずいぞ。もたもたしている場合ではなさそうだ」
「分かっているが……」
募る焦燥感を無理に無視して耳を澄ませた。
すでに事態は動き出しているようだ。前方も後方も同様に。
「何をやっている雪蓮殿、はやく進みたまえ!」
「ああ」
雪蓮は李青龍に急かされて走り出した。
一歩進むごとに嫌な予感は肥大化していった。梨玉は科挙登第を果たすべき人物だ。こんなところで夏琳英ごときに潰されていいわけがない。
やがて奥のほうに炎の明かりが浮かび上がる。
雪蓮は逸る気持ちを殺して光の中に飛び込んだ。
そうして視界に映ったものは――
「梨玉殿!」
「馬鹿、大声を出すな!」
雪蓮は走りながら即座に状況を分析した。
だだっ広い空間には無数の燭台が置かれ、走り回るのに問題ない程度の明るさが確保されている。その中央にたむろしているのは黄色い布をまとった男たち――黄皇党のメンバーである。やはりここが本拠地で間違いなかったのだ。
(梨玉……!)
そして広間の端。
両足を縛られ、水浸しになった梨玉が地に這いつくばっている。
彼女の眼前でむき出しの剣を携えているのは、黄皇党の首魁・夏釣文。
何が起きているのかは明白だった。
あの男が梨玉に対して暴行を働こうとしているのだ。
「あ? 何だてめえら――」
夏釣文が振り返った。他の子分たちも大声で喚き立てる。
雪蓮は咄嗟に懐を漁って短剣を取り出した。
可能な限り隠しておきたかったが、事態が事態なのでやむを得ない。
無言のまま短剣を投擲する。
夏釣文がそれに気を取られた隙を狙い、一歩踏み込んで相手の懐まで距離を詰めた。
「小雪!」
梨玉が目を見開いてこちらを見つめた。
瞳は涙で濡れ、首筋には血のにじむ線が刻まれていた。
それを見た途端、辛うじて理性を繋ぎとめていた冷静さが弾け飛んだ。湯が煮えるように熱い怒りが爆発する。
「何しやがる!」
夏釣文が短刀を回避して体勢を立て直した瞬間――
その鼻っ柱をへし折る勢いで拳を叩き込んだ。
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