第54話 尾行

「お、いたぞ」


 人の流れに沿って進むこと一刻、梨玉の姿はすぐに見つかった。

 ただし服装がいつもの襦裙ではない。

 何故かまったく別の服に着替えているのである。


「あれ? 梨玉さん、今日は別の服装で受験したんでしょうか?」

「いや、先ほどは姉の形見を着ていたが……」


 例の服を着ていない梨玉はそれほど珍しくない。

 常日頃から愛用していれば痛むのは免れないため、重要なタイミング以外では粗末な服装でいることも多いのだ。しかし雪蓮と別れた直後に着替えるというのも変な話だ。


(それにあの服……)


 目をすがめて観察してみる。

 薄桃色の紗地に龍の刺繍が施された上衣、豪華絢爛な蝶紋が眩しいスカート――いずれも梨玉が普段着ているものよりはるかに華やかだ。あまり似合っていないようにも感じられる。どこであんなものを手に入れたのだろうか。


 疑問を抱きながら尾行を続けるうちに、梨玉は雲景うんけい府の北区画――比較的ランクの高い酒亭や旅籠が軒を連ねる一等地へと突き進んでいった。すれ違う人々の中には官服に身を包んだ官吏たちの姿も見え始める。


(ん? この先って……)


 雪蓮は雲景府の地図を思い描いた。

 確か、北区画には本当に遊郭やら何やらが並んでいるのではなかっただろうか。

 いよいよわけが分からなくなってしまった。


「梨玉さん、どうしちゃったんでしょうか……?」

「分からない。何かがおかしいのは分かるが……」

「はっ……! 雪蓮殿、私は恐ろしい推測を得てしまったぞ」


 李青龍が顔を青くして拳を握った。


「梨玉殿のあれは女装だ! この先は娼館などもある地区――つまり女装して働いているのではないか? その手のいかがわしい店で!」

「馬鹿かあんたは」

「青龍さん、休んだほうがいいですよ。試験でお疲れみたいですから……」

「可哀想なものを見るような目で見るな! 可能性の一つとして考えられないこともないだろうに」


 李青龍の妄言は無視。雪蓮は梨玉の後ろ姿をじっと見つめる。

 しきりに周囲を気にしている気配があった。


 雪蓮たちが簡単に追いつけた理由は、着替えの時間も影響しているのだろうが、何より梨玉の足取りが想定以上に鈍いからに他ならない。官憲の目を恐れる盗人のように、恐る恐るといった歩調で人込みを進んでいるのだ。

 そこで欧陽冉が何かに気がついた。


「雪蓮さん、何か感じませんか」

「何をだ?」

「視線が多いというか……」


 李青龍もにわかに真剣な顔になった。


「言われてみればそうだ。顔を動かさずに気配を探ってみたまえ――梨玉殿に目を向けている者が多すぎるぞ」


 雪蓮はハッとして視線を走らせた。

 大勢の通行人。その中に武装をした無数の兵卒の姿が見えた。平常の巡回をしているように見せかけているが、彼らの目は明らかに梨玉の背中に向けられている。


 それだけではない。

 武官とは別の集団の存在にも気づいてしまった。


 常に梨玉の斜め後ろを陣取る男。屋根の上から梨玉を見張っている男。すれ違いざま梨玉を穴が開くほど凝視する男――そういう奇妙な通行人たちの中に、二、三、黄色い布を身につけている者を見つけた。


(まさか)


 恐るべき想像に背筋が凍りかけた時。

 不意に耳をつんざくような破裂音が轟いた。


「きゃあっ!?」


 欧陽冉が耳を塞ぐ。

 人々の悲鳴が波紋のように広がっていった。

 見れば、近くの建物の屋根が吹き飛んでいた。

 屋根の瓦が弾けてぱらぱらと土埃のようなものが降ってくる。


 また黄皇党こうこうとうの仕業だ――誰かがそう叫んだ瞬間、享楽に満ちあふれていた繁華街は一気に狂騒の渦へと突き落とされてしまった。誰もが数日前を思い出したのである。

 人々が四方八方に散らばっていく。


 欧陽冉がその勢いに押されて尻餅をついた。

 何だこれは。

 いったい何が起きているというのか――


「しっかりしろ雪蓮殿! 今の爆発は囮だ!」

「囮……? じゃあやつらの狙いは」

「一つしかない! 理由はまったく分からないがな!」


 李青龍が叫びながら走り出した。

 普段の飄々とした雰囲気とはかけ離れた必死さである。

 そうして雪蓮は見た。


 人垣の奥――恐怖の表情を浮かべて梨玉が立ち竦んでいる。

 その身体を抱きすくめるように拘束したのは、黄色い布を頭に巻いた大男。

 梨玉が慌てて叫んだ。


「わ、わ、本当に来た! 兵隊さん、黄皇党の人たちが!」

「黙りやがれ! てめえは俺たちの人質だ!」


 雪蓮も泡を食って走り出した。

 まずい。梨玉が誘拐されてしまう。

 何故だか知らないが――梨玉は彼らの標的になっている。


「おい、さっさと運ぶぞ! 省庁のやつらが来たら面倒だ!」

「分かってるって――俺は脚を押さえるからお前は口を塞いでおけ!」

「ちょっと、変なところ触らないでよ!」

「うるせえなあ!」


 がんっ。

 梨玉の後頭部に杖が叩きつけられた。

 黄皇党の別の男が容赦なく振るったのである。


 意識を奪われた梨玉は、だらりと両手両足を投げ出したまま運ばれていった。李青龍が「待て!」と叫ぶ。喧騒にかき消され、連中の耳には届かなかったようだ。届いたところで待ってくれるはずもないのだが。


(武官どもは何をやってるんだ――)


 雪蓮は走りながら周囲の気配を探ったが、場の混迷が極まっているため、官吏たちがどこで何をしているのか微塵も把握できない。


 梨玉を担いだ黄皇党は脱兎のごとく駆けていく。

 雪蓮は見逃すまいと必死で追いすがった。

 背後で欧陽冉が何事か叫んでいるが、構っている余裕はない。


「雪蓮殿、見失うなよ!」

「分かっている」


 梨玉の異変を甘く見ていた自分の愚かさを呪いたかった。

 そしてこの事件の背後には、十中八九どす黒い陰謀が立ちはだかっている。煮え湯を飲まされたままではいられない――必ず真相を突き止めなければならなかった。


(……あれ)


 ふとそこで雪蓮は不思議な感覚に陥った。

 鼓動が高鳴っている。

 途方もない不安の波が押し寄せている。


 梨玉は使い潰すべき道具のはずなのに、失くなったら代用品を用意すればいいだけなのに――何故自分はこんなにも焦燥しているのだろうか。


(今はどうでもいい)


 雪蓮はかぶりを振って心を閉ざし、李青龍とともに夜の雲景を駆けた。

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