第53話 韜晦
二回目の試験も未曾有の問題ではあった。
五経(『
しかし雪蓮はどうにも落ち着かない。
たとえ完璧無比な答案を仕上げられても意味はないのかもしれない。
正考官である夏琳英の意地悪で弾かれてしまえば、郷試合格の目は完全に潰えることになるからだ。
夏琳英は現状、雪蓮を処罰する気はないらしい。さすがに雪蓮が王朝の転覆まで企んでいるとは夢にも思っていないようだ。そこに活路があることは間違いないのだが――このままでは郷試落第の後、京師天陽府に連行されることになってしまうだろう。
(迅速に手を打たねば……)
とりあえず答案は仕上げたものの、雪蓮の精神は限界に達していた。
試験のタイムリミットは明日の夕方。
今はひと眠りして休息するべき時間である。
だというのに、暗闇に紛れて
――不可、不可、紅き徳は尽きようとしている。
――天を見よ、涙を降らせているではないか。
――玉座に昇るのは復讐の子だ。
――讃えよ、讃えよ、すべての宝は我らの手に在り。
「……ん?」
奇妙なことに気がついた。
薄汚れた壁に
「何だこれ……」
わずかに穴が開いているのだ。
鼠の通り道かと思ったが、人々の騒ぎ声は確かにそこから聞こえてくる。
雪蓮は想像する――魑魅魍魎どもが地下に潜んで悪魔の宴を繰り広げている。やつらは紅玲の暴政によって犠牲となった悲劇の者たちだ。夜な夜な呪詛を唱え、紅玲の皇帝を殺してやろうと蠢いている。
(馬鹿馬鹿しい)
雪蓮は穴に布をかぶせて目を瞑った。
この号舎は位置的に貢院奥部、内簾官が勤務する区画と近い。
おそらく官吏どもが騒いでいる音が穴を伝って聞こえてきただけだ。
紅玲に対して文句を言っているように聞こえるのは、まあ、愚痴大会といったところだろうか。紅玲の官吏は大なり小なりろくでもないので不平不満を声高に叫んでもおかしくはない。これでは貢院に幽霊が出ると噂されるのも納得である。
ひとまず今日のところは休む必要があった。
歌のことなど忘れ、雪蓮は間もなくまどろんでく。
しかし眠りに落ちる直前、ふと思い出して机に向かった。
(念のため書いておくか……)
雪蓮は荷袋の中から何も書かれていない紙片を取り出した。
二回目・三回目の試験では、それぞれ一回目・二回目で完成させた答案の書き出し数文字を書いて提出する義務があるのだ。これは挙子が入れ替わっていないかを確認するための措置である。問題ばかりに気を取られていた雪蓮は、一回目に自分が何を書いたのか思い出すのに苦労した。三回目ではそうならぬよう記録を残しておくのがベターである。これを貢院の外に持ち出して朝にでも確認すればよい。
(〝
雪蓮はさらさらと筆を走らせていく。
ふと見れば、近場の号舎でも煌々と明かりが揺れていた。
郷試は一時も気を抜くことができないのだ。
□
「小雪! 試験の手応えはどうだった?」
二回目の試験が終了した後、待ち合わせの宿屋に到着すると梨玉が待ってましたと言わんばかりの様子で近づいてきた。
まだ李青龍と欧陽冉は到着していないようである。
雪蓮は平静を装って答えた。
「ほどほどかな。そっちはどうだった」
「えへへ。一回目とは比べ物にならないくらいの答案が書けちゃった。これなら
「どうでもいいが、郷試の第一等は状元ではなく
「分かってるよ! このまま進めば連中三元を決めちゃえるくらいの気分だね」
郷試、会試、殿試の首席はそれぞれ解元、
これらを三連続で獲得して科挙登第を果たすことを連中三元と称するのである。紅玲の歴史上、この栄誉に与ることができた受験生は二、三人しかいないらしい。
「まあ、吹っ切れたようでよかったよ」
「うん! 長公主様に励ましてもらったおかげだね」
梨玉の髪には例の簪が挿さっていた
龍の紋章は皇族を表す逸品。通常は公主や皇后の身分の証だが、各々の判断で臣下などに下賜できるのだ。長公主の寵愛を受けた証拠でもある。
梨玉が夏琳英に靡いているのがどうにも気に食わなかった。
自分の玩具を横取りされたような気分。
「小雪はこれからご飯だよね?」
「号舎で食べてないしな。どこか店にでも行くつもりだ」
「ごめん! 私、ちょっと用事ができちゃったの!」
梨玉は拝むようなポーズでそう言った。
「なんだ? 青龍と一緒に風呂でも行くのか?」
「行かないったら! 本当にちょっとした野暮用なんだけどね、一緒に食べるのは時間的にちょっと難しそうなの。青龍さんや冉くんと食べてくれないかな? たぶんもうすぐ合流すると思うし」
「別にあんたと一緒じゃなくても一向に困らないんだが……」
「はあー!? 困ってよ!?」
「何でだよ」
梨玉は怒って頬を膨らませる。
しかしすぐに笑みを取り戻した。
「ま、そろそろ時間だから私はもう行くね」
「よく分からないけど頑張れ」
「うん! じゃあね小雪、食べ過ぎないように!」
「余計なお世話だ」
梨玉は手を振りながら去っていった。
人込みに紛れるその背を見つめ、雪蓮は奇妙な引っかかりを覚える。
明らかに何かを隠している素振りがあった。梨玉は元来おしゃべりな性質のため、理由がなければ理由を明かさないわけがない。
「お、雪蓮殿。調子はどうだったね」
入れ替わりでぬるりと李青龍が現れた。欧陽冉もその隣に立っている。
「まずまずだ。そっちは」
「私もまずまずだね。とはいえ一回目の経験から十分に想定しうる範囲の出題だから、それなりに対応できた挙子も多いのではないか?」
「僕も辛うじて筋の通る答えは書けました。たぶん、問われているのは実現可能な政策とかじゃなくて挙子の思考力ですよね? それに気づいたら意外と筆が進んだんです」
「さすがは冉殿! そこまで見抜けたなら合格は固いな!」
「いえ、自信は全然ないのですが……」
李青龍に頭を撫でられた欧陽冉は、赤くなって俯いてしまった。
二人とも優れた観察眼を持っているようだ。これなら丙三組の面々は合格の栄誉に与れるかもしれない――ただ一人、正考官と敵対している雪蓮を除いては。
ふと欧陽冉がきょろきょろと辺りを見渡した。
「あれ? 梨玉さんはまだですか?」
「梨玉は……」
雪蓮はちょっと迷ってから続けた。
「さっきまでここにいたが、用事があると言って姿を消した」
「どこへ向かったんですか?」
「さあ? 夕餉は一緒に食べられないそうだ」
「残念です。梨玉さんとも郷試のことで語り合いたかったのですが……」
李青龍が不意におとがいに手を添え、
「何の用事だったのだね?」
「分からない。用事の内容を聞いても教えてはくれなかった――そういえば、何か隠している様子はあったな」
「なんとも妙な話だな。明日は三回目の試験もあるのだから一刻も早く宿に戻って最後の仕上げをするべきなのに――しかも梨玉殿は
「買い物じゃないですか? 必需品が足りなくなったのかも」
「だったら雪蓮殿に隠す必要もあるまい。梨玉殿の行動は極めて不自然だ」
「言われてみればそんな気はしますけど……」
雪蓮は二人の会話を聞きつつ、密かに往来に目をやった。
兵卒たちが忙しなく行き交っている。
先ほどから気になっていたが、貢院の外側でも武官たちの姿が多く見られた。
「冉殿、ひょっとしたら軟派かもしれないぞ」
「軟派って何ですか?」
「道行く女人を口説くのだよ。梨玉殿とて男だ、何らおかしなことではあるまい? あるいはその手の店に行った可能性もあるが……」
「ええっ!?」
欧陽冉が顔を覆って飛び跳ねた。
雪蓮は呆れてものも言えない。
「……おい青龍。梨玉に限ってそれはないだろ」
「分からんぞ? 郷試で溜まった鬱憤をぱあっと解放してやりたくなったのかもしれん。そういう挙子は多いと聞くからね。冉殿も興味あるかね?」
「あ、ありませんっ!」
「わっはっは! 奇遇だな、私も興味はない」
「本当かよ」
「本当だ。今私が気になって仕方ないのは梨玉殿の動向だね。はたして今頃どこで何をしているのやら……」
「そんなに気になるなら尾行でもするか? 今ならまだ追いつけるぞ」
投げやりに提案してみる。
すると李青龍は名案だと言わんばかりに笑みを深めた。
「面白いな雪蓮殿、朋友として当然の行動だ。黄皇党がのさばっている現在、梨玉殿を一人で闊歩させるのは憚られる。彼には危険を危険と承知せぬまま突っ込んでいく雰囲気があるからね」
「び、尾行って……何だか悪いことしている気が……」
「大丈夫だ冉殿! 梨玉殿ならバレても許してくれるだろう!」
「そういう問題なんですか?」
「さあ雪蓮殿、梨玉殿が去っていった方角を教えてくれたまえ」
「あっちだ。まだそう遠くには行ってないだろう」
雪蓮は李青龍とともに走り出した。
欧陽冉も一拍遅れてついてくる。
普段この手の暗躍には雪蓮一人で繰り出すものだが、今回は全責任を李青龍に押し付ける形にしてしまおうか。
(どうせ面白いものは見られないだろうし)
血眼になって解き明かすほどの秘密ではない気がしていた。
おそらく欧陽冉の予想通りである。
周りには言いにくい買い物でもするに違いない。
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