第10話 糾弾
確かに派手な服の女が徘徊しているという噂はあったが、それが梨玉であるはずがないのだから。
「ま、待ってください。私はそんな」
「とぼけるな。県試を台無しにせんと企んだのは貴様であろう」
知県はのそのそと近づいてきた。
「否、私を陥れるつもりだったに違いない! だが残念だったな、その邪悪なる企みは未然に防がれた。まったく、嗚呼、まったく近頃の若者は性根が歪んでおるわ!」
「こいつが犯人? それは違いますよ、知県さま」
雪蓮は梨玉の前に立つ。
「もしそうなら、
「
梨玉が救われたように声を震わせた。
だが、知県にはその理屈は一切通用しなかった。
「あの男はすでに正気ではなかった。依頼主かどうかの区別もつかぬよ」
「正気でない者の言葉を信じたのですか」
「どうでもいい! 貴様も
「そんな……小雪まで……」
知県・楊士同は、こうやって数々の冤罪を生み出してきたに違いない。
愚か者が権力を持つと弱者が損をするのは世の常だが、近頃は道徳を忘れた官吏の話があちこちから聞こえてきた。李青龍が言ったように、やはり紅玲国は上から下まで腐りきっている。
「捕らえろ」
「ちょっと、放してくださいっ」
県庁の軍夫たちが強引に腕を引っ張ってくる。
梨玉は下手に暴れたため、あっという間にその場に組み伏せられてしまった。地に這いつくばりながら、それでも一生懸命な視線で知県を見上げていた。
「知県さまはそれでいいんですか!? こんなことっておかしいと思います! 小雪も私も何もしてないのに! もっと調査とかをしっかりしたほうが」
「やかましい」
知県が杖で梨玉の頬をぶっ叩いた。
呆然とした表情で硬直する梨玉。
「天下は健やかだ。何も問題は起きていない」
雪蓮は、己の内側で、黒い何かが膨れ上がっていくのを実感した。
こういう悪人が跋扈しているから人が死ぬ。
そして天は、この悪人らを放置している。
「わ、私は、私は……」
梨玉が嗚咽まじりの声を発した。
「もういい。さっさと連れて行け」
「私は……
豚が驚いたように目を向けた。軍夫たちに「待て」と命じる。
「どういうことだ」
「あなたは私の故郷を壊した張本人だから。いったいどんな人なのか気になっていたの。十年前にこの辺りを襲った洪水は、あなたの手抜き工事が原因なんでしょ……」
知県の顔がみるみる紅潮していく。
火薬が弾けるように怒りを爆発させた。
「痴れ者が! いやしくも天子から勅令を受けて赴任した知県を糾弾するのか! やはり事件を起こして私を失脚させようとしていたのだな、何たる邪悪な小娘だ!」
「違う、そんなことしてない! 私はただ、あなたの気持ちが知りたかったんだ!」
「どうでもいい! 今すぐ貴様を牢にぶち込んでやる!」
「ど、どうでもいい……? あなたのせいでお姉ちゃんやお父さんは死んだのに……」
「黙れっ! 金にもならぬ民草の生死など私が考える領分ではないわ!」
知県は散々に梨玉を叩いていた。
もはや梨玉には、抵抗するだけの力も心もなかった。
この少女は本当に知県への復讐を企てていた。
だが、それは決して暴力的な手段にはよらない。科挙という正当な手順で官吏となり、内側から人々を変えていこうと考えていたのだ。なんて輝かしい心意気であろうか。そんな将来の大器は今、取るに足らない小悪党によって沈められようとしている。
雪蓮は耳を澄ませた。
すでに時間切れのようだった。
「私を侮辱して! ただで済むと思っているなら! それは大間違いだ!」
「知県さま。これ以上はやめてください」
雪蓮は知県の太い腕をつかんで止めた。
それは神怪じみた流麗な動きだった。
いつの間にか、雪蓮を縛めていた軍夫たちは地に寝転がされ、壺中の天を彷徨うがごとく目を回している。
異変に気づいた知県が悲鳴にも似た吐息を漏らした。
「貴様! 何を」
「耿梨玉はお前よりもよっぽど官吏に相応しい。お前のような人間こそ害悪だ」
「小雪……!」
「大丈夫。あんたの思いは結実するよ」
梨玉の瞳が満月のように見開かれていく。
どこまでも真っすぐな光がそこに宿っていた。
その想いが踏みにじられるのは、我慢ならなかった。
梨玉は立派だ。民を思い、その苦楽を自分のものとし、慈悲をもって行動できる義の女の子。まさに経書が理想とする聖人に至ることができる人材といえる。
「放せ! 貴様も縊り殺すぞっ」
「そうはならない。お前にはもう先がないんだ」
「この……」
左手で雪蓮を殴ろうとした直後、知県の身体がぐるんと回転した。
力を込めて足を払ったのである。日頃の運動不足が祟ったのか、それだけで知県は面白いように転倒した。梨玉を取り押さえていた軍夫たちが大慌てで雪蓮に殺到する。しかし雪蓮の身ごなしは飛仙のごときで、誰一人としてその肌に触れることはできない。
「知県さま! こやつ武術の心得があるようで」
「捕らえろ! 殺してもいい!」
知県が声を荒らげた時、扉を蹴破る勢いで役人どもが駆け込んできた。試験会場で終場の準備をしていた男たちである。彼らは悪い夢でも見たような表情を浮かべていた。
「知県さま、府の役人が来訪しております!」
「今はそれどころじゃない! 追い払え!」
「しかし、県庁の行状査察と仰っていて……」
「何だと……!?」
知県の赤ら顔が、みるみる青くなっていった。
梨玉もびっくりして雪蓮の顔を見つめてくる。
そうだ。すでに遅い。
一人目の犠牲者が出た時から運命は決まっていたのだ。
「残念。お前の悪事は白日の下となるだろう」
「まさか……」
「僕は何もやっていないよ。……大丈夫か」
雪蓮は梨玉に手を差し伸べた。梨玉はしばし呆気に取られていたが、やがて大きく頷いて雪蓮の手を握り返す。
役人たちは大騒ぎだった。知県の隠蔽工作に加担したことが露見すれば、自分たちの進退も危ういからだ。そのただ中にあって、諸悪の元凶、知県・楊士同は、怒りに身を震わせることしかできずにいた。
「ふざけおって! このような行いが許されるはずがない……!」
「あなたに言われたくないっ」
梨玉が立ち上がりながら叫んだ。
その瞳は珍しくも怒気を孕んでいる。
「私は堂々たる進士になって世界を変える。あなたみたいな悪い人がいなくなるように。そんな悪い人でも心が清らかになるように。あなたは役人さんに取り調べてもらうのがいいよ。そうしてちゃんと反省してね」
「ま、待て」
「さようなら」
梨玉は雪蓮の手を引いて部屋を後にした。
背後からは動物じみた悲鳴が響いてくる。
天道に背いた者は報いを受けて然るべきなのだ。
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