第11話 真相

 それから府と都察院とさついん(官吏を監察するための組織)による調査が進み、知県の不行状は公然のものとなった。殺人事件を放置し、あまつさえ己の都合で隠蔽するなど言語道断。さらに種々の汚職に手を染めていた事実も芋づる式に浮上したため、よう士同しどうの名誉には回復できぬほどの傷がついた。


 だが、これは多くの童生たちが証言したからこその結果である。


 もし目撃者がいなければ、あるいは少なければ、府や都察院も揉み消していたのではなかろうか。紅玲国こうれいこくの腐敗の度合いから察するに、それも決してあり得ぬことではない。知県を征伐するにはこの展開が最善だった。


 県試は有耶無耶になったが、府の判断で正式に無効となった。もはや試験の体裁を成していなかったのだから仕方がない。合格も不合格もなく、特例として一カ月後に再試験が行われることになる。


 童生たちは県庁から追い出され、再試験に向けた勉強に励むことになった。

 とはいえ、いつまでもこの街に逗留するわけにもいかぬ。

 各々はひとまず郷里に帰ることになった。


小雪こゆきぃーっ! もう、何でそんなに薄情なのー!?」


 街の門を出ようとする時、後ろから大声で追いかけてくる者がいた。

 男装の少女、否、どう見てもただの少女、こう梨玉りぎょくである。試験期間に飽きるほど見たその美しいかんばせは、何故か不満一色に染まっている。


「……別に薄情でも何でもないだろ。僕たちは赤の他人なんだから」

「赤の他人じゃないよ! 小雪は私の命の恩人だかんね! それに青龍せいりゅうさんも会いたがってたよ、最後に世間話がしたいって……」

「あいつのことはどうでもいい」

「でも私とはお話ししてよねっ!」


 梨玉は例によって雪蓮せつれんの腕に絡みついてくる。

 何度注意しても近すぎる距離感が是正される気配はなかった。

 雪蓮は溜息を吐いて苦笑する。


「……色々と世話になった。あんたの身を挺した作戦のおかげで殺人鬼を捕まえることができたわけだしな」

「ううん、小雪が大活躍してくれたおかげだよ。怪我はもう大丈夫なの?」


 雪蓮は袖をめくって腕を差し出した。

 もともと浅かったため、痕が残るような傷でもない。

 梨玉は「よかったあ」と心底安堵したように呟いた。

 そうして雪蓮の心臓が止まるようなことを言ってのけた。


「でも小雪って強いよねえ、

「へ」

「武術を習ってたの? 剣とかも使えたりするのかな? すごいなあ、羨ましいなあ、やっぱり今時の女の子は戦えなくちゃ駄目だよねえ」

「ちょっと待て!」


 雪蓮は泡を噴くような気分で梨玉に詰め寄った。

 鼓動が速まり、全身からぶわあっと嫌な汗が溢れてくる。


「な、なんだ僕が女って。そんなことがあるわけないだろう」

「隠してもばればれだよ! 一目見た時から『あ、この子は私とおんなじだ』って思ってたの。すっごくお顔がきれいだし、ちょっといい匂いがしたから」


 やはり分かる人間には分かるのか。


「いい匂いのする男もいるかもしれないだろ」

「でも見たよ」

「何を」

「寝ている間に服を脱がせて……」


 ちょっと頬を赤らめて目を逸らす梨玉。この少女が過剰に接触してくるのは、性別を確かめる目的もあったのだと今更気づく。


 雪蓮はついに観念した。見られたとあっては反論のしようもないのだ。

 火照った顔を手で仰ぎながら、なるべく怖そうな顔で梨玉を睨んだ。


「誰にも言うなよ」

「言わないよ。小雪も私の秘密を言わないでね」

「何笑ってるんだよ」

「ふふ。仲間がいて嬉しいなって。小雪は可愛いし」

「か……」


 これ以上動揺を見せれば、己の沽券にかかわる。

 雪蓮は大きく咳払いをすると、髪をいじりながら関係のない方向を向いた。


「……まあ頑張れよ。僕も頑張る」

「私も頑張るよっ」


 梨玉は笑って雪蓮から距離を取った。

 春風が吹き、その艶々とした髪が揺れる。


「世の中には知県さまみたいな人たちがいっぱいいるんだ。だから私は絶対に合格する。合格して天下を変えてみせる。次の試験も一緒だといいね、小雪」

「そうだな。梨玉」

「うん! またね!」


 梨玉は微笑みを浮かべて去っていった。

 花のように可憐でいながら、鋼のような正義感を持っている少女。雪蓮は手を振って見送りながら、梨玉と出会うことができてよかったな、と内心でしみじみ思った。



 ――誰かを犠牲にして何かを得ても虚しいだけだから。死んだお父さんがよく言ってたの、誰にでも胸を張れるような生き方をしなさいって。



 梨玉の言葉が蘇った。それは本当に清らかな思いから発された言葉だ。幼い頃の体験に裏打ちされた彼女の意志は固く、世の官吏どもに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいほどである。だが――


「――だが、それで足りるなら苦労はしない」


 雪蓮は踵を返して歩き始める。

 心の内に蜷局を巻くのは、間違っても梨玉には悟られてはいけない黒い情念である。


 結局、梨玉の正義感では楊士同を打ち破ることはできなかった。経書に則って王道を説くのは立派だが、現実はそう簡単にはいかない。何かを成し遂げたいと思うならば、手段を選ばない覚悟が必要となるのだ。


 もちろん、今回の殺人事件は雪蓮が起こしたものだった。

 理由は一つ――知県に性別を見破られかけたから。


 とはいえ、これは想定の範囲内の出来事である。

 女の身で科挙に臨むにあたっては、多種多様のトラブルが発生することを見越しておかなければならない。ゆえにそれなりに強硬な手札を用意しておく必要があった。今回の作戦は県試自体を無効化してしまう最終手段だったが、性別を見抜かれる危険性と天秤にかければ、一度の試験が徒労に終わる程度はどうということもないのだ。


 手段は簡単だ。何らかのアクシデントを起こし、県試どころではなくすればよい。


 いくつかの案はあったが、今回は権力を嵩に着て悪事に手を染めていた童生、周江に犠牲になってもらうことにした。やつは改心する様子の見られない、李青龍の言うように聖人になるべくもない人間だったからだ。


 ただ、自分で手を下すのは得策ではない。そういうリスクを取るのは抜き差しならなくなった場合のみだ。ゆえに雪蓮は、頭場で大暴れして追い出された老人――こう福祥ふくしょうに白羽の矢を立てた。科挙に恨みを持っているのは明白だから、誘いに乗ってくれるだろうと確信したのである。


 雪蓮は知県と接触したすぐ後、部屋に戻って男装を解いた。万が一誰かに目撃されても雷雪蓮に容疑がかからぬようにするためである。梨玉の荷物から大工道具を盗み、ひびの入った壁を砕いて県庁の外に出る。目的地は少し離れたところに建っている県庁所轄の留置所だ。


 見張りは雇われの軍夫が一人。居眠りをしていたので侵入は造作もなかった。捕らわれの黄福祥は、いちばん奥の格子の向こう側で胡坐をかき、ぶつぶつと経書の文句を唱えていた。雪蓮は梨玉の大工道具で腐った木枠を破壊すると、老人に向かってこんな提案を投げかける。



 ――私の言うことを聞いてください。

 ――あなたは県試に恨みがあるのでしょう?

 ――科挙を台無しにできるやもしれませんよ。



 かくして老人は容易く殺人鬼となった。翌朝、きちんと周江しゅうこうを殺してくれたのである。さらに死体を門から吊るすことで多くの童生たちを目撃者に仕立て上げた。


 ここまでお膳立てされれば、知県が破滅するのは時間の問題である。


 実は事件を起こすよりも前、府庁に書簡を送り、県試の場で惨憺たる事件が起きることを報告していたのだ。終場の日に都察院とさついんが踏み込んできたのはそういう背景による。あれほど素早く動いてくれるとは思わなかったが、結果的に命拾いできたのでよしとしよう。知県は雪蓮の事件を隠蔽していたから、その罪は甚だ重いものになるはずだった。


 が、ちょっとした予想外も発生した。

 本来は周江だけでよかったはずなのに、黄福祥は成績一等の者たちを殺して回ったのである。雪蓮はその真意を問い質すために女装をして接触を試みた。



 ――あなたの仕業ですよね? どうして殺したんです?

 ――決まっておる! 儂の邪魔をする輩に天罰を下すのだ! 小賢しい若者たちに社会の厳しさを思い知らせてやる。



 科挙の魔力は恐ろしい。人をここまでの暴挙に駆り立てるとは。

 だが雪蓮は、このまま放置しても問題ないと判断した。


 これ以上は雪蓮の責任ではない。犠牲者が増えるならば、それを隠蔽する知県の罪も重いものとなるから好都合。後は目立った行動は避ければよい。とはいえ、このタイミングで下手に女装姿を目撃されたせいで(劉謙りゅうけんが殺されていないかを確かめるために覗いたりした)、梨玉に疑いの目が集まってしまったのは誤算だったが。


「……梨玉。あんたは本当に立派だよ」


 梨玉は己の利益のためにしか動かない俗人とは違い、誠の思いで国のために義を果たそうとしている。その志は正しく美しい。雪蓮も義を果たすつもりであるが、性質は根本のところから異なっていた。


 梨玉が歩むのは、徳による王道のみちだ。

 一方、雪蓮が目指すのは力による覇道の路。


 義を果たすという目的は同じでありながら、手段は根っこの部分から異なっていた。梨玉は最後の最後、知県に反省を促し赦すような発言をしていた。雪蓮にはそんなことはできない。あんなことではすぐに壁にぶち当たる。


 敵が容赦なく権力や暴力を振りかざしてきたらどうするのか。

 学力が足りずに科挙に合格できなかったらどうするのか。

 そして何より、性別が女だと露見したら、いったいどうするつもりなのか。

 緊急時に役立つのは、徳や優しさといった曖昧なものではない。

 手段を選ばぬ虎狼の心――純粋な〝力〟である。


(義か……)


 雪蓮は梨玉と似たような経験をしている。愚かな権力者によって平穏を破壊され、生きるか死ぬかの日々を送ることになった。こういう話は珍しくもない。自然と思い起こされるのは、雪蓮を地獄に突き落とした男の顔だった。



 ――地に這いつくばれ。それがお前に似合っている。



 忌々しいことこの上なかった。

 当節、俗悪な人間が猖獗しょうけつを極め、百姓ひゃくせいは理不尽な困苦に喘いでいる。

 これを打破することができるのは、雪蓮のように冷血な人間だけだ。現に雪蓮は邪悪な知県を排除することに成功した。当初の目的は口封じだったが、結果として天下の毒を取り除くことができたのだから僥倖である。


(……まずは科挙登第だ。紅玲国こうれいこくを壊すためには)


 最終試験たる殿試に進めば、天子に謁見することができる。

 その瞬間こそ雪蓮の努力が報われる時に他ならない。


 とはいえ、その前に梨玉をどうするか整理すべきだった。

 性別を見抜かれてしまった。しかし、こちらも相手の弱みを握っているので破滅させる必要性は薄い。むしろ駒として利用すべきだ。ああいう眩しい人間は昨今珍しいから、隠れ蓑としては有用である。身を挺して守ることで恩を売ることにも成功したため、今後はせいぜい役に立ってもらうとしようか。


 否、それにしても――


(あの時は、僕も心を動かされたのだろうか)


 梨玉を黄福祥から庇った時、打算があったわけではないのだ。

 誰かのために傷つくことなど問題外なのに。

 すべては利用すべき道具でしかないと思っていたのに。

 身体が勝手に動いてしまった。


(まあいいか)


 女物の服が入った荷袋を担ぎ、雪蓮は春の道を歩く。

 梨玉とはまた会うことになるはずだ。

 衝突することもあるだろうが、雪蓮の復讐は止まることがない。


 あの少女の王道が、雪蓮の覇道を捻じ曲げない限りは。

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