第6話 惨劇

 その晩のことだった。

 珍しいことに梨玉りぎょくが来なかったため、雪蓮せつれんは蝋燭の火を頼りにぼうっと注釈書を読み込んでいた。すると、にわかに宿舎の外が騒がしくなったのである。ただならぬ気配を覚えた雪蓮は、書物を放って中庭へ飛び出した。


 童生どうせいたちが血相を変えて行き交っているのが見える。


「おや、雪蓮殿じゃないか。来るのが遅かったね」


 人だかりの中から青龍せいりゅうが現れた。

 雪蓮は胸を悪くしながら問うた。


「何があったんだ?」

「殺人だよ。二場にじょうで首席だったしゅ子高しこうっていう男だ」

「はあ? そんな馬鹿な……」

「嘘ではない。私もこの目で見てきたからね。気になるなら行くといい」


 雪蓮は李青龍に促され、人込みのほうへと駆け寄った。

 中庭の端っこの厠の近く、井戸のすぐ隣である。


 童生たちに囲まれていたのは、ぽっかりと口を開けて仰臥ぎょうがしている男だった。眠っているのではない。首筋からは赤い血がどくどくとあふれているし、その瞳からは生き物らしい生気が少しも感じられなかった。


「ほんの少しの間だったんだ! こいつ、ちょっと厠へ行ってくるって……気づいた時には殺されていた!」


 朱子高と同室らしい青年が顔を青くして喚いていた。

 雪蓮は唖然として死体を見つめる。

 周江しゅうこうの時と似たような刺し傷だ。本人のまったく意識せざるところで命を刈り取られた形跡である。

 童生たちは恐れおののき、周江を殺した者がやったのだ、と騒ぎ立てていた。


「また一等の人だね……」


 ぼそりと誰かが呟いた。

 振り返ると、梨玉が柳眉をひそめて死体を見つめている。


「どこ行ってたんだ」

「散歩だよ。気分転換しようと思って……」


 梨玉は雪蓮の服の袖をつまんだ。その指先が震えているのが分かった。雪蓮は咳払いをしてから死体に視線を戻す。


「……しかし、一等の者がまた殺されるとは。周江に対する怨恨かと思っていたが、科挙そのものに対する不満があるのかもな」

「周江さんを殺した人と同じなのかな……?」

「おそらくは。殺人鬼が何人もいるとは思いたくない」


 科挙のせいで人生を棒に振った人間は大勢いる。

 巷間こうかんに流布する白話はくわ小説などには、何十年も科挙登第を果たせなかった老人が、はらの内で太らせていた不平不満を爆発させ、勉学に打ち込む将来有望な若者を手当たり次第に殺害していくという激烈なものもあるのだ。しかもこれは完全なるフィクションに非ず、興化こうか年間に起きた現実の事件を題材としている。


 それと同じようなことが起こっているのかもしれない。

 かくも由々しき事態が起これば、さすがに知県も重い腰を上げるだろう。


「どうしよう? 私たちは何をすればいい?」

「戻ろう。僕たちにできることはない」

「うん、そうだね……」


 雪蓮は梨玉の手を引いて部屋に戻る。



          □



 しかし、己の地位に対する知県の執念はすごかった。

 よう士同しどうのもとに事件の報告が入ったのは、彼が夕餉の豚肉を平らげ、寝室へ向かってのろのろ歩き出したその瞬間だった。二人目の死人が出たと聞くや、またたく間に赤面して赫怒した。


「うすのろが! さっさと犯人を捕らえないからそうなるのだ!」

「ひいっ」


 報告に上がった部下が尻餅をついた。知県の太い腕で突き飛ばされたのである。


「捜査はどうなっている?」

「下手人の行方はようとして知れず」

「ぷあああ!」


 知県は獣のように吼えた。

 昔からこの男は思い通りにならぬことがあると咆哮を放つのである。


 経書の文句が歯抜けになった脳味噌の内側で自問自答されているのは、いかにして事態を隠蔽するかという一点に尽きる。すでに中央で失態を演じ、こんな僻地に左遷させられる憂き目に遭った。そのうえ厳粛なる県試の場で連続殺人事件を起こしたとなれば、罷免どころか流刑に処される恐れもある。知府ちふ(知県よりもえらい人)に知られるわけにはいかないのだ。


「とにかく現場を検めろ。童生どもの取り調べも行え」

「はい」

「それと、この件は絶対に外部に漏らすんじゃない」

「しかし……」

「口答えするな! その口を削ぐぞ!」


 部下は平謝りしながら辞去した。

 知県は勢いよく拳を卓子テーブルに叩きつける。


 童生にも調査を命じたものの、はたしてどれだけ使い物になるのやら。互いを監視させることで次なる犯罪を未然に防ぐという効果も期待できるはずだったが、結局第二の犠牲者が出てしまったので意味がない。


「私の経歴を曇らせおって……」


 誰が誰を殺そうと露ほどの興味もないが、やるなら自分の知らないところでやってほしいと知県は思っている。


 県試を不自然に中止することはできない。上から与えられたスケジュールは絶対だからだ。では結果発表の際に順位を布告しなければよいのではないか。


(ひとまずそれがよさそうだが……)


 楊士同は踏み切れない。そういう前例がないからだ。

 紅玲こうれいこくの官吏は伝統や決まりごとを重視するあまり柔軟性に欠くが、旧套を墨守することにつき、楊士同の右に出る者はいなかった。そもそも一等の者が狙われていると決まったわけではないのだ。あと一回くらい様子を見ても問題ない。


 その時、にわかに叩扉する音が聞こえた。苛立ちまじりに「入れ」と叫ぶと、恐る恐るといった忍び足でさっきとは別の部下が入室する。


「ご報告が」

「どうした」

「目撃情報です。襖裙の怪しい女が夜間に出歩いていたと……」

「何だと?」


 知県はぎょろりと目玉を動かす。長年の放蕩生活で錆びついていた記憶力が躍動した。そういえば、童生の中に奇妙な風体をした者がいたような。



          □



 県試は続行されることになった。

 知県はどこまでも事件を隠し通す算段らしい。これから官吏にならんとする童生にとっては恰好の反面教師と言えるが、半ば恐慌状態に陥った彼らには知県を糾弾するという観念が端から存在しない。


 試験で一等になれば、正体不明の殺人鬼に殺される。

 その厳然とした事実が童生たちの精神を蝕んでいたのである。


 雪蓮には知る由もないことだが、三場さんじょうでは、答案審査にあたった官吏が思わず首を捻ってしまう珍妙な解答が続出した。童生たちは下手に優秀な答案を提出してしまうことを恐れていたのだ。もはや試験は試験の体裁を成していなかった。


 そして、三場の結果が発表された日の夕刻。

 一等になったりゅうけんという男が殺されているのが発見された。


 劉謙も馬鹿ではないから、自分が一等だと分かるとその日は宿舎に閉じこもり、同室の童生たちに周囲を警戒してもらっていたという。さらには県庁側も劉謙に対して特別の見張りを立てることになったそうだ。


 しかし、厠の個室で一人になったところを狙われて息絶えた。

 驚くべきことに、厠のある掘っ立て小屋の背面には、外部へと通じる不正な勝手口が急造されていたのである。殺人鬼は最初からこのタイミングを虎視眈々と狙っていたのだ。正面の入口で見張っていた童生たちは案山子ほどの役にも立たなかった。


 県庁の混乱は極致に達した。童生たちのアリバイ確認も行われたが、犯行に及ぶことができる者は一人もいなかった。


 誰もが姿の見えぬ殺人鬼に恐れをなし、「幽霊の仕業だ」「いや鬼神きしんの仕業だ」などと、孔子こうしが聞けば呆れるようなことをほざき始める。

 ところが、以下のような主張をする者が現れた。


「女がいたんだよ! 俺は見たんだ!」

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