第5話 青龍
「吊り下げること自体は難しくない。門の上には誰でも登ることができるそうだ。
「じゃあ何でそんなことしたの?」
「そうだな。それが問題だ」
瞳がきれいだったので、自然と目を逸らしてしまった。
「……普通は犯行が露見しないように死体を隠すはずだ。わざわざ人の集まる門に吊るしたということは、周江が死んだことを大勢に知らせたかったのかもしれない」
「あんなの普通じゃないもんね……」
「普通じゃないやつの思考を推測しても仕方がないよ。犯人捜しは他のやつらに任せておけばいい。僕たちは正攻法で県試を突破するべきだ。そのための勉強はあんたも頑張ってきたんだろ?」
「うん。事件のことは考えないようにするよ」
梨玉は打って変わった笑みを浮かべた。
「
「触るなって言ってるだろうが」
「あれ? お顔が赤いよ?」
「赤くない」
赤かった。
過度に接触されれば正体を看破される危険性があるから胸が落ち着かないのだ――という理屈ももちろんあるが、梨玉のような美しい娘と触れ合うのが初めてだったため、どうにも居心地が悪かった。平たく言えば耐性が欠如している。
「ははあん、女の子に慣れてないんだ」
ここは
「……だから何だって言うんだよ。悪いか」
「可愛いなー、と思って」
「追い出すぞ」
梨玉は、ごめんごめん、と子供のように笑った。
雪蓮は再び溜息を吐いて蝋燭の火を消した。
夜は深まり、県庁は漆黒の闇に包まれる。
梨玉の振る舞いには呆れるばかりだが、その比類なき明るさ・純粋さは、昨今の官吏たちが忘れてしまったものに違いない。もし梨玉が科挙登第を果たしたならば、天下はよい方向に導かれていくのだろうか……。
ぼんやりと考えつつ、雪蓮はゆっくりと瞼を閉じた。
□
その二日後、
雪蓮も梨玉も労なくして突破し、さらに翌日の
本来ならば不合格者は追い出されることになるが、前述の通り、知県のお達しによってすべての
互いが互いを探り合う、疑心暗鬼の県試がスタートした。
だが、この時点では誰もが思いもしなかった。
事件はまだ始まったばかりだということを。
□
「きみ、
県試の期間中は手持ち無沙汰の時間が多い。
二場の結果発表があった後、柳の下で経書を読み込んでいると、にわかに見知らぬ男が話しかけてきた。警戒しながら視線を上げれば、ふわりとした微笑を浮かべる
「……何だ? 僕に何か用か」
「用というほどのことじゃない。ただ、きみのことが気になってね」
男はそう言って雪蓮の隣に腰を下ろした。
距離が近い。だがこれは相手が雪蓮のことを男性だと疑っていない証だ。雪蓮は何食わぬふうで経書に視線を落としつつ、警戒を募らせて言葉を紡ぐ。
「あんた、勉強しなくていいのか。明日には三場が始まるんだぞ」
「きみは奇特だね。県試はぐちゃぐちゃの有様だっていうのに、呑気に読書なんてできるはずがない。――おっと失礼、きみのことを呑気と言ったわけじゃないよ」
雪蓮は相手の様子をうかがった。
漆黒の長髪が風に靡いている。目鼻立ちはいかにも利発そうで、美形の部類に入るだろう。立ち居振る舞いからして名家のご令息といった風格だが、それにそぐわぬ悪戯っ子の気質も感じるから不思議だった。
「あんた、誰なんだ」
「私は
李青龍。たしか頭場で三等、二場で四等に名を連ねていた男の名前だ。
「……では李先生、僕にいったい何の用だい」
「青龍と呼んでくれよ。見たところ年も同じくらいじゃないか」
李青龍は、まさか目の前の童生が女だとは思ってもみないのか、雪蓮の背中をぽんぽんと叩いてきた。
「これ、食べるかい」
懐から取り出したのは、赤々と
「どこからそんなものを」
「厨房から失敬してきたのさ。我々童生に供する食事は粗末を極めるのに、役人どもは日夜豪勢な食卓に与っているらしい。特に知県はいただけないね、給仕の者の立ち話を盗み聞きしてきたが、古の暴君を彷彿とさせる暴飲暴食っぷりだそうだ」
「勝手に食べてろ。盗人からものはいただかない」
「そうかい、それは高潔だね」
李青龍はうまそうにすももにかぶりついた。
雪蓮は溜息を吐く。
「世間話なら他のやつとしてくれ。生憎と僕は忙しいんだよ」
「きみ、いや雪蓮殿、殺人事件が起きたというのに肝が据わっているね。童生たちは犯人捜しに躍起になっているが、きみは動こうとは思わないのか」
「僕にできることは何もない。あれは聖賢の学から外れた行為だよ」
李青龍が噴き出した。
「これは大人物だ。そういうところが好感を持てるね」
「からかっているのか?」
「いやなに、怒らないでくれたまえ。私もまったく同じ考えなのさ。殺人事件が起きたのはいい。いやよくはないが、そういうことは往々にしてある。だが、その後の知県の対応はまずい。仮にも官吏として天子に仕える身であの有様では、
「国の問題にまで広げるとは性急だな。いい官吏もいるかもしれないじゃないか」
「いたなら紅玲はもっとよくなっていたはずだ」
その点は頷かざるを得ない。
李青龍は柳の葉を掌中でもてあそびながら言った。
「そうなると、期待すべきは次代を担う若者たちだが、この県試に参加している童生はほとんど駄目だな。自分の利益ばかりに目が眩み、本質を見失ってしまっている」
「あんたはどの目線で語っているんだ……」
「天下国家を論ずるのは、官吏を目指す者として当然の責務じゃないか。そして雪蓮殿、きみは違うんだ。目先の試験に翻弄されている童生たちの中にあって、きみだけが一線を画した目をしている」
「他の童生だって前途の明るい者はいるだろう」
「
雪蓮は答えない。
「だが、きみは別だ。さながら燕雀に混じった鴻鵠だよ」
「……それはどうも。だが僕はそんなに大それた人物ではない」
これ以上話しても仕方がないと雪蓮は断じた。書を閉じて立ち上がると、自分の部屋に向かってすたすたと歩き出す。
「どこに行くんだい? もっときみと話してみたいのだが」
「志の高い者を求めているのなら、
「耿梨玉殿か! 確かにあれも変わった目をしているな。いやしかし、女装して試験を受けるとはどういう考えなんだ? 怖くてちょっと聞きづらいところがあるね」
梨玉の正体には気づいていないらしい。
女装男子と思われているのも不思議な感じがするが。
「そういう趣味なんだろ」
「待て、やはり私は雪蓮殿と語りたい」
「遠慮しておく。ついてくるな」
「いいじゃないか! 時間はたっぷりあるんだし」
李青龍が笑って肩を組んできた。
雪蓮はさりげないふうを装ってするりと逃れる。
「……あんた、暇なんだな」
「暇なんだよ。童生を何日も県庁に閉じ込めておくなんて馬鹿馬鹿しい。こんなことなら
それでも雪蓮が拒否し続けると、李青龍はしぶしぶといった様子で引き下がった。だが去り際、彼はいやに真剣な顔で忠告してきた。
「雪蓮殿、気をつけたまえよ」
「何だ、藪から棒に」
「殺人鬼はまだ潜んでいる可能性が高い。もし雪蓮殿が殺されてしまったら、私は貴重な同志を失うことになる。そうなるのは悲しい」
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