第48話 爆炎

「もちろん、今回の試験問題が難解であることは認める。正考官の意図に違えば、僕や青龍せいりゅうの答案だって平妥へいだ(普通)の評価をつけられるかもしれない。が、これはどの挙子にも言えることだ」

「どういうこと……?」

「あんな問題を普通の挙子が解けるとは思えない。つまり平均的な成績は例年の郷試よりも著しく落ちるということだ。一方、合格率については一定のままだと思われる。次の会試に送る挙人の数は決まっているからだ」

「なるほどな! 相対的に上位に食い込んでいる可能性もあるというわけか。確かに今回の試験、噂に聞いていた雰囲気とは違って異常だったな……私の周りにも暴れたり泣き出したりする者が大勢いたぞ。ぜん殿、そういう光景を見なかったかね?」

「み、見ました! 全裸の人がカラスの鳴き真似をしながら走っていったんです」

「だそうだ! よかったな梨玉りぎょく殿、我々の未来は明るいぞ!」


 李青龍が梨玉の肩をぽんぽんと叩いた。

 欧陽冉もわずかな希望を取り戻したようである。

 しかし梨玉は表情を澱ませたままだった。


「でも分かっちゃったの。紅玲を変えるためには、ああいう問題も解けなくちゃしょうがないんだって。仮にこのまま科挙登第して官吏になっても、夢を叶えるどころか周りについていくのでも精一杯な気がしちゃって。正考官の呉春元さん、やっぱり状元なだけあってすごいよ……問題を通して挙子に警告してるんだと思う」

「梨玉、それは考えすぎだ」

「そうかなあ? そうかもしれないけど……」


 この子は清廉潔白すぎる。

 科挙は結局のところ官吏になるための手段に過ぎないのである――そのことを懇切丁寧に説明してやりたかったが、梨玉とて理屈は承知しているのだ。納得できない感情の部分で苦しんでいる。


 もう少し雪蓮を見習って腹黒くなってほしいものだ。

 もちろん、潔いことが梨玉の美点ではあるのだろうが。

 不意に李青龍が手を叩いて快活な声をあげた。


「まあ、悩みすぎても心身に毒だ。今日のところはゆるりと休もう」

「うん……」


 梨玉の顔色は最後まで優れなかった。

 これ以上言葉を重ねても無駄かもしれない。何か決定的な端緒がなければ、明日の試験で致命的な失敗をやらかす恐れもあった。


(いや、他人の心配をしている場合ではないか)


 雪蓮とて綱渡りの状態なのである。

 一回目は辛うじて乗り切れたが、この調子だと二回目以降も未曾有の問題が続くに違いない。一文字も書けずに敗退――そういうケースもなくはないのだ。


(夏琳英の意思が働いているのだろうか)


 だとすれば不愉快極まりない話だ。

 舌打ちをしそうになった時、欧陽冉が上目遣いで見つめてきた。


「宿に戻りませんか? ここは混雑していますし」

「そうだな。梨玉、帰るぞ」


 雪蓮は梨玉の手を引いて人込みから去った。

 ところがその瞬間、夜空に遠雷のような音が響いた。

 どよめきが広がる。雪蓮は何となしに視線を斜め前へと向けた。


「ん……?」


 遠くの空が赤く染まっているのが見える。

 星々は地上の光にかき消され、一つも見えなくなってしまっていた。さらに二、三度連続して巨大な音が――明らかな爆発音が響きわたった。呉服屋の屋根にのぼって見守っていた者が、馬鹿のような歓声をあげて手を叩く。


「な、何でしょうか? 建物が燃えているような……」

「火薬が爆ぜたのだろうね。しかしあれは相当な大事故だぞ」


 宵闇を切り裂くほどの炎。

 雲景府には京師天陽に次いで大規模な造兵廠があるのだ。何かの拍子に保管されていた火薬が爆発した可能性も否定できないが――


 野次馬と化した人々が現場の方向へと移動を始めた。

 雪蓮は路地の端に避難しながら状況を分析する。


「おかしいな」

「雪蓮殿、何がおかしいんだね?」

「炎が燃え上がっているのは雲景府の省庁周辺だと思うが、あの近辺には火薬庫らしき建物はなかったはずだ」

「何でそんなことを知っているんだ」

「新しく訪れる場所の地図を頭に入れておくのは当然だからな」

「そういうものか……?」

「そういうものだ」


 特に武器庫や火薬庫の所在は常に確認するよう努めている。その手の施設はウィークポイントになりやすいからだ。万が一――本当に万が一だが――科挙登第に失敗して武力反乱を起こすフェーズに移行した際、必ず役に立つ情報である。


 いずれにせよ、何か不可解なものを感じずにはいられなかった。

 前述の通り省庁付近に普段火薬はないため、あれほどの爆発が起こるとは考えにくいのだ。


「どうする? 我々も様子見に行くかい?」

「ええ? 危なくないですか……?」

「何か妙な予感がする。僕はちょっと見てくるよ」

「あ、雪蓮さん……!」


 雪蓮は通行人の流れに沿って駆け出した。

 人いきれは苦手だが、四の五の言っている場合ではない。



          □



「何やってんだ、冬元とうげん……」


 問題を見返すこと十六度目、正考官・春元しゅんげんは深い溜息を吐いた。

 場所は貢院こういんの奥、内簾官ないれんかんが閉じ込められている屋敷である。

 呉春元の対面には、ある種好戦的な笑みを浮かべる冬元が立っていた。


「何か不都合がありましたでしょうか? 至らぬところがあればご教示ください。反省を重ねて次に活かしたいと思いますので」

「不都合っていうか……難問すぎないか?」

「そうでしょうか。私は適切だと判断しておりますが」

「だってこれ、皇帝陛下や大臣どもが考えることだろ? 一介の挙子連中に答えを求めてもしょうがねえと思うんだが……」

「真に世の中を改善する策を問うているわけではありません。答案に筋が通っておればよいのですよ――つまり政策として実現できるか否かは二の次。この手の無理問題が出た際に、狼狽えることなく冴えた思考を発揮できるか否かを見るべきなのです」

「ふむ……」


 一理ないこともないが、従来通りの郷試を想定して勉強してきた挙子たちが可哀想でもあった。外簾官に聞いた話によれば、昨日今日と貢院では様々な騒ぎが起きたらしい。怨嗟の声をあげて暴れる者、号舎の中で不貞寝をする者、奇声をあげて走り回る者――面倒くさいからといって問題の確認を怠ったことが仇となった。


「……ちなみに、栄明えいめい長公主ちょうこうしゅは何と?」

「素晴らしいと仰いました。光栄なことでございます」

「そうかい。よかったね」

「はい! お兄様が作問の機会を与えてくださったおかげです!」


 自分の手腕を信じて疑わない冬元も冬元だが、長公主も長公主で常軌を逸しているらしい。まあ、皇族のお墨付きならば何も問題はあるまい。二回目、三回目も同様の形式で行うのがよさそうだ。


(度肝を抜かれた挙子たちは気の毒だがね)


 ちなみに郷試は院試などとは違い、三回すべての試験が終わってからまとめて答案審査を行うことになっている。一回目の試験で挙子たちが如何なる答案を練り上げたのか気になって仕方がなかった。


「あの、ご報告があるのですが……」


 厠にでも行こうと腰を浮かせた時、狼狽した様子の同考官が転がり込んできた。呉春元は咄嗟に状元らしい威厳を演出しながら応対する。


「どうした。こんな時間に騒々しいな」

「申し訳ございません、先ほど内簾官から連絡がありました。黄皇党こうこうとうのやつらが雲景うんけい府の庁舎に火を放ったそうです」

「は?」


 冬元と声が重なった。


「おい、意味が分からんぞ。何故そんなことになっているのだ」

「お兄様、元々雲景には黄皇党の本隊があると聞きました。ついに武装蜂起を決めたのではないでしょうか」


 呉春元は取る物もとりあえず外に出、省庁がある方角を見据えた。

 かすかに夜空が白んでいる。炎の光が照らしているのだ。努めて耳をすませてみれば、人々の狂乱する音も聞こえてくるようだった。


「呉春元様、賊は長公主を狙っているそうです」

「何故分かる」

「やつらが『長公主の居場所を教えろ』と叫んでいるとか。おそらく人質にして天陽の朝廷に何らかの要求をする算段なのでしょう」

「長公主殿下はどこに……?」

「さ、さあ……」

「省庁とは真逆の位置ですね」


 冬元が答えた。


「高級宿が並んでいるのは貢院をはさんで反対側にある区画。おそらく長公主殿下に魔手は及んでいないと思われます」

「では何故黄皇党は省庁を狙ったんだ?」

「長公主の居場所は省庁ということになっていますからね。行方をくらませるための措置ですが、連中はまんまと引っかかったというわけです。いずれにせよ危機的状況ですよ、お兄様。すぐに長公主殿下に書簡をお送りし、雲景府を脱出するよう具申するのがよいでしょう」

「最悪だ……」


 そこで呉春元はふと思い出した。

 正考官は郷試が行われる地に到着した際、鳴り物入りで往来を練り歩いて威儀を示すのだ。呉春元と栄明長公主もこのしきたりに従って民衆の前に姿を見せたのだが――冷静に考えれば、栄明長公主の背格好が不埒者どもに知られた可能性がある。


 そもそも呉春元は「やめるべきだ」と進言した。

 雲景には黄皇党が潜んでいるため無闇に姿を現すのは危険である――と。


 しかし呉春元の力説も虚しく琳英りんえいは巡行を強行した。

 よほどの楽天家なのか、何か他に深遠な考えがあるのか。前者のような気もするし、後者のような気もするから始末に負えない。


(まあ、長公主は顔を隠していたが……)


 皇族は民草に素顔をさらさぬのがルールである。

 不幸中の幸いといったところだが、あまり慰めにはならなかった。


 呉春元は己の不運を呪わずにはいられなかった。

 何故自分が正考官をやっている時に限ってこんな騒動が起きるのか。

 否、長公主などという爆弾を抱え込んだ時点で面倒ごとが起きるのは確定していたのだろう。

 同考官がおずおずと尋ねる。


「いかがされますか」

「いかがもへったくれもあるか。我々は郷試の答案審査をするのが仕事だ。わけの分からん匪賊の対応は唐州とうしゅう省の総督に任せておけばよろしい」

「狙われているのは正考官の長公主殿下なのですよ」

「正考官はもともと一人だ。仮に長公主殿下が雲景を去ったとて大勢に影響はない。ここで泰然とした態度を示してやってこそ挙子たちも安心するだろう」

「しかし……」

「あのなあ、俺たち内簾官は郷試が終わるまで貢院を一歩も出てはならないことになってるんだ。例外なのは栄明長公主だけだ。外の騒ぎが心配なのは分かるが、俺たちにできることは何もないんだよ――そうだろう冬元?」

「お兄様の仰る通りですね。我々はいち試験官にすぎない。下手に首を突っ込んだら問題をややこしくしてしまいます」

「そうだそうだ。明日に備えてさっさと寝ろ」

「とはいえ、です。お兄様」


 冬元は何故か逆説で言葉を続ける。

 その右目に妖しい光が宿っているのが見えた。


「仮に黄皇党が職務遂行の邪魔をするならば容赦はしません。この騒動で郷試の運営に支障が出るようならば、我々正・副考官で不埒者どもを一人残らず処分いたしましょう」

「は……?」


 何言ってるんだこいつ。

 呉春元は呆れて冬元の横顔を見つめたが、冗談の色は一切なかった。頭のてっぺんから爪先まで本気である。


(まあ、そんなことにはなるまい)


 黄皇党は総督たちが何とかしてくれるはずだ。

 ひとまず栄明長公主に書簡を出さなければならない。

 敵の狙いが分かっている以上、獲物を逗留させておく意味はないのだから。

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