第20話 異変
雪蓮は面食らってしまった。他の童生たちも何事かとどよめく。しかし、おしゃべりは
困惑が波及していくのも無理はない。
問題が簡単すぎるのだ。これでは習い始めの子供ですら即座に答えることができる。ましてやこの文句は
もしや筆跡の流麗さを測るつもりなのだろうか。それだとしたら答えが〝信〟の一字であるのは不自然に思える。いったい王視遠は何を考えているのか――
(不気味だ)
隣の梨玉が得意になって筆を走らせているのを横目に、雪蓮は学政の思考を読もうとする。しかしその甲斐もなく時間はどんどん過ぎていった。一問目、二問目、三問目――これまた形式外れなことに、日が暮れるまで三十もの出題がなされた。
そのいずれもが、児戯にも等しい穴埋め問題である。
結局、雪蓮は、王視遠の考えを読み切れぬまま頭場を終えてしまった。
□
結果は一日をおいて発表されることになっている。
が、あっという間にその日は来てしまった。
雪蓮を始めとした丙三のメンバーは、連れ立って試院の中庭に向かっていた。辺りは結果発表を待つ童生たちであふれ、常ならぬ熱気が充溢している。
「――もう! 小雪、大丈夫だって!」
梨玉が笑顔で雪蓮の肩を叩く。
「何を心配しているのか知らないけれど、すごく簡単だったじゃん。もし小雪が間違っていたとしても、私が大量得点しているから大丈夫だよ!」
「いや。僕はそのことを心配しているんじゃない」
「じゃあ何で暗い顔してるの? 昨日っからどんよりしているよね」
「雪蓮殿の杞憂も分かるな」
李青龍が腕を組んで言った。
「あれでは問題が簡単すぎる。全問正解して当然だから、差はつかないだろうね。いったい学政殿は何を考えているのやら……」
「え? あれって全問正解して当然なの……?」
「そりゃそうだろ。ただの穴埋めだったんだから」
「あはは……危なかった……」
梨玉は引き攣った笑みを浮かべていた。怖いので詳細は聞きたくない。
「小手調べ……なんじゃないですか? 院試のやり方が変わったから、最初くらいは簡単なものにしてあげようっていう温情なのかも」
「それならいいんだが……」
雪蓮もそれくらいしか思いつかなかった。
これ以上考えても仕方がないから、まずは結果を確認することにした。
通達によれば、今回の試験は世にも珍しい点数方式らしい。
頭場においては一問につき一点。三十問かける四人だから、伍の最高得点は百二十点となる。ただしあの平易な問題からすれば、ほとんどの伍が百二十点を取ることは想像に難くない。つまりこれは、絶対に落としてはならない点なのである。
ふと、人込みの中に
王凱はこちらに気がつくと、獣のように歯を見せて笑う。
(何だあいつは……)
嫌なものを感じて立ち止まる。
その時、係員たちが結果の書かれた榜を持ってきた。
童生たちは我先にと殺到する。
梨玉や雪蓮も負けじと榜に向かった。
にわかに歓声があがる。
榜に刻まれていたのは、ずらりと並んだ「第一等」の文字。
同点の百二十点ばかりなのだから当然のことだった。
雪蓮は目を細くして榜を眺めた。
甲一、甲二、甲三、
「あれ? 丙三が書いてなくない?」
梨玉が不審そうに声をあげた。
甲四、乙一、乙二、乙三、
「いや違う。これは……」
李青龍が戦慄して呟く。
乙四、丙一、丙二――そこまで読んだところで雪蓮は、心臓を素手でつかまれたような気分になった。
飛ばされて丙四が第一等になっている。
まさか、梨玉が問題を一つか二つ間違えたのだろうか。
逸る気持ちを抑えつけて榜を凝視する。数点失ったくらいは何でもない。最終的な合否は五回の試験の成績を合算して判断されるから、この後の二場、三場で挽回すればいいだけのことなのだ。
だが、雪蓮はついに愕然とすることになった。
頭場の結果が、想定の埒外だったからである。
曰く――
第一等 甲一 得点百二十
第一等 甲二 得点百二十
第一等 甲三 得点百二十
第一等 甲四 得点百二十
第一等 乙一 得点百二十
…
第一等 癸三 得点百二十
第一等 癸四 得点百二十
第三十八等 辛四 得点百十九
第三十八等 壬二 得点百十九
第四十等 丙三 得点九十
□
丙三の四人で緊急の会議が行われることになった。
会館の食堂に集まった雪蓮、梨玉、李青龍、欧陽冉の四人の間には、何とも言い難い気まずい空気が流れている。
「九十点とは珍妙な話だな。丸ごと一人ぶんの点数が抜け落ちてしまったかのようだ。いずれにせよ我々丙三組は、他の伍の後塵を拝することになってしまった。これはまずい事態だと思わないかい、梨玉殿」
李青龍がほとほと困り果てたように腕を組んだ。
梨玉が「大丈夫!」と空元気じみた声を出す。
「まだ二場、三場ってあるでしょ? 次で取り返せば問題ないよ!」
雪蓮は溜息を吐く。
「二場以降の配点がどうなるか分からないだろ。あるいは頭場のように平易な問題ばかりだったら、差をつけることもできずに不合格の烙印を押される」
「ちなみに院試に合格できるのって何人くらい……?」
「さあな。院試は入学試験だから、学校の定員によるんじゃないか」
「全体の三割程度――だいたい五十人だね。成績優秀な者から
五十。上位半数に入れるかも疑わしい状況なのに。
梨玉の口から漏れたのは、盛大な溜息だ。
「何でこんなことになっちゃったのかなあ? 私、今回の試験には自信があったんだけど……」
「私も問題を間違えた覚えはないね。あれに躓いているようでは、進士になるなど土台無理な話だよ。四書五経が頭から抜け落ちているとしか思えない」
自然、話の流れが行き着くのは原因究明だ。
梨玉と李青龍の言葉を聞き流しつつ、雪蓮は依然として畏まっている欧陽冉に視線を向けた。顔面蒼白。病に侵されているのかと見紛うほど顔色が優れない。
「欧陽冉。あんた、何か知っているんじゃないか」
欧陽冉は可哀想なくらいに慌てた。
「い、いえ、僕は、そんな……」
「梨玉も青龍も満点の手応えだそうだ。もちろん僕も間違えた覚えはない。となれば、必然的に怪しいのはあんたということになる。そもそもごっそり三十点、一人ぶんの点数が失われているのも変な話だ。何か不正でもやらかして――」
「もう小雪! 仲間を疑うのはよくないよ!」
梨玉が眉を八の字にして見つめてきた。
「冉くんが何かをやった証拠なんてないでしょ? 私や小雪が知らないうちに間違っていたのかもしれないし」
「いや、そうは言ってもな……」
「信だよ信! 学政さまも言ってたでしょ。この試験を突破するには、伍の信頼関係が大事なんだよ。こんなふうに犯人捜しをしても仕方がないったら。私が言い出したのが悪かったけれど、次の試験について考えたほうが有意義だと思うな」
梨玉の言うことには一理ある。
不和が生じれば試験に支障をきたすかもしれなかった。
李青龍が湯飲みに口をつけてから言った。
「しかし冉殿、一つだけ確認しておきたい。疑っているわけではないが、頭場の試験はどんな手応えだったのだい?」
「それは、えっと、その、たぶん、僕も満点だったと思います」
欧陽冉は今にも消え入りそうだ。
それで満足したのか、李青龍は「ならばよし」と頷いた。
雪蓮も建前上は納得しておいたが、何か隠し事があることは明白だった。
欧陽冉の背景を洗ってみる必要があるかもしれない。
そう決意した矢先、雪蓮たちに近づいてくる者の気配があった。
「最下位だったそうじゃないか、馬鹿ども」
「!」
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