第38話 ヒカルとイブキ

 流民の集落に身を寄せて、幾らかの時間が流れた。

 一連の事件の黒幕への手がかりを掴むために、水原たちの情報をわざと流して敵が現れるのを待った。


 その間、待つ、以外にやるべきことがない。お陰ですっかり暇を持て余した。

 男衆に紛れ仕事をすると身を隠す意味がなくなってしまう。かといって女たちに紛れ仕事をするのは、彼女たちからやんわりと断られた。

 ただでさえ余所者に、領分を超えた仕事が与えられることはない。

 だから、もっぱら子守が仕事であった。

 体力に自信はあっても、無邪気な子どもたちの運動量には適わない。

 一見無意味にも思える遊びに本気になる彼等に、憧憬の念すら抱く。

 そんな穏やかな時間が流れた。


 そうして、流民の集落にようやく受け入れられた頃。

 ただ、物事は水原の知覚できる領域を大きく超えたところで動いていたらしかった。


 まず初めに、坂上が失脚した。

 鬼の襲撃を受けた検非違使の上役の屋敷から、彼等の癒着の証拠が大量に出てきた。

 どうも、坂上に都合の悪い人間の処理を上役が担っていたということらしい。

 これにより、彼の証言に信憑性がなくなり、早々に水原の疑惑が晴れる事になった。


 その筋書きでは、鬼は彼等の命で動いていた事になっている。

 鬼を利用し、彼等に邪魔な存在を殺させていたが、飼い犬に手を噛まれたという筋書き。

 そんな噂がまことしやかに流れている。


 次に、都の郊外で、ある貴族の変死体が見つかった。

 何者かに殺された様子はなく、服毒で自害したというもの。

 よくよく調べれば、その貴族こそが、簪を付け狙っていた男のようだった。

 通常、服毒自殺をしたなんて噂は流れない。

 醜聞を嫌って遺族が病死した等、真実を隠すからだ。

 それがこうして表に出回るのは、より強力な存在が喧伝しているから。

 これ以上嗅ぎ回るな、という警告。

 水原たちも消してしまったほうが安全だろうに、それをしない。流民達を抑える為に便利と判断したのか、他の使い道があるのか、気まぐれか。

 理由は定かではないが、有耶無耶にしてしまったほうが得だと判断したらしい。


 検非違使の詰め所から脱獄した事も許されて、水原は一人、自身の屋敷にいる。

 のこのこ戻った所を暗殺する様子はなく、気持ちが悪いほど今まで通りの生活に戻っていた。

 それどころか。

 坂上たちの不正を暴くことに協力したことで官位まで与えられることになった。

 今までの暮らしが嘘のような、人生が待っている。


 何かこう、実態のない雲の上に担ぎ上げられているような、得体の知れない薄気味悪さだけがある。

 蚊帳の外に居ながら、他人の都合で自分の人生を決められている。


 自分の他に、全くの人気のない、伽藍堂になった邸内で大の字に寝転がる。

 ほんの少し前まで、この屋敷には騒がしくて賑やかな時間が流れていた。

 車座になり食事を取り、近所迷惑も考えず大声で訓練に励み汗を流す男たち。

 菖蒲とその式達が慌ただしく食事を用意したり家のことを行ってくれ、夜は夜で勝手に酒盛りが始まる、お祭りのようだった賑やかな時間。

 それがまるで幻のよう。

 タロウが死に、菖蒲が恐らく屋敷に戻り、シキは新たな居場所を見つけ、力を貸してくれた傭兵たちも自分の居場所に帰っていた。

 イブキの消息も分からないでいる。

 白昼夢だったと言われているかのように、跡形もない。


 そうしてぼおっと天井を見上げている。

 何をするべきか、何をしたらいいか。そんなものが分からないでいる。


 そんな中、一迅の風が邸内を通り過ぎる。

 それが何か虫の報せのようで、急いで立ち上がり庭先へと向かう。

 今日は真夏のように蒸し暑い。庭先には陽炎が立ち上るほど。

 まだ高い昼間だというのに、そこにイブキの姿があった。


「よう、ヒカル。元気そうだな」

「……イブキ」


 数日顔を見合わせていないだけなのに、随分と久しぶりに会うような気持ちになる。

 だが、市民たちにはまだ坂上の失脚と、水原の釈放の報は届いていない。

 だから、何故。

 何故彼がここにいるのかという疑問が強くなる。


 訝しげな顔を浮かぶ水原に、イブキが先んじて言葉を発する。


「酒を仕入れてきたんだ。一緒に飲まないか?」



 昼間から酒席を囲む。

 邸内から酒器を探し出し獨酒を注ぎ、ついでに酒のあてに梅干しと塩を見つけ、イブキが持ってきたするめとで宴会が始まる。


「するめ、か。また妙な肴を用意してきたな」

「これが美味いんだぜ」


 黙々と肴を口に運び、舐める様に酒を呑む。

 わざわざこんな場を設けたのは、何か話したいことがあるから。

 酒を舐めながら、水原が言葉を待つ。


「温い、な。こんなに暑いと冷たい酒が飲みたくなるな」

「よく言うぜ。氷室から氷を取り寄せるなんて、大貴族様達の特権だ。お前の盃にいちいち氷を入れていたら、俺はたちまち破産だ」

「はは、違いない」


 軽口を交わし合う。軽口が成立する。

 まだ、お互いに知りもしないけれど。この再開から始まった出来事は、互いの人生を大きく変えた。

 感慨にふける、互いにそんな年ではないが、酒はただ酒の味がする訳じゃない。

 

「無事な様子で良かったよ。もしかしたら死んでしまったかと思っていた」

「おかげさまで何とか生きてるよ。半分拷問みたいな目にあったがな」

「そいつは大変だったな」

「あぁ、脱獄する羽目になったよ。だから、何故俺がお尋ね者じゃなくなったか困惑している」


 疑問を止められず、結局水原自身からイブキに話を向ける。


「お前、今まで一体何をしていたんだ」

「……随分、直接的な問いだな」

「はぐらかすなよ」


 酒器を置き、水原の目がイブキを見据える。


「世間ではまだ俺はお尋ね者の扱いだ。そんな状況で何故、酒を用意してここにやってきた」

「単に友と呑みたかっただけさ」

「信じられるわけ無いだろ。お前は知っていたんじゃないか。俺が開放されていることを」


 声を荒げることはない。

 淡々と、それでも確実に、疑問を問う。


 その言葉にどう答えたものか。

 そんな思案をしているように、盃の酒を揺らし、それからイブキが一息に飲み干す。


「本当にヒカルと酒を酌みたかっただけだよ。末期の酒になるだろうからな」


 その静かで、強い想いの籠もった言葉に水原が口籠る。


「いいじゃないか、今お前が生きていることが全てだ。俺達が何かしていた所で死ぬ時は死んでいるさ」


 俺達が。そんな一人称が水原の耳に残る。

 山奥に引きこもりながら、都の貴人達と文を交わし、水原の動向を伺っていた。

 とても人間一人の芸当ではない。

 俺達が。

 その言葉はつまり、武山が、という意味になる。


 かつて水原自身が在籍したその場所が、ただの武芸の修練場ではないことは分かっている。

 しかしその真意を知る前に離れてしまっていた。

 彼の処遇を決めた者たちと同様に、分からない、知らない事が多すぎる。


「物騒だな、何だよ、末期の酒になるだろうってのは」

「あぁ。都を離れることにした、武山にも戻らない。少し西国を回ってみようと思うんだ」

「唐突、だな。そんな突発的な衝動で大丈夫か?」

「むしろやっと決意が固まったという感じだな。今回の事がいい機会になった。感謝してるよ」

「……そうか」


 イブキがあまりにも自然に言葉を紡ぐ。

 10年振りに顔を合わせた友人。お互いに成長し、知らない時間のほうが多い間柄。

 それでも幼い時分を共にした、唯一無二の存在。

 もう会えないだろう。

 それは、どうしても寂寥を誘う。


「それで、何がお前の決意を固めたんだよ」

「……別にいいだろ、それは」

「あぁ、女か。分かりやすいな、お前は」

「は? 何を根拠に」

「知ってるか? 図星を付かれると高圧的になるんだよ、お前。簡単なかまかけさ」

「…………」

「で、いつの間にそんな事になったんだよ」

「いや、それは本当に勘弁してくれ。話を変えよう」

「いいから話せよ」

「……そういうお前こそ、あの菖蒲という娘とはどうなったんだ」


 真昼間から始まった酒席が、陽を傾かせても続いていく。

 話は尽きない。

 年頃の若者の様に、くだらない話にも終始し、昔話も幾つも花開く。

 知らない時間を埋めるように、もう会えない事実を惜しむように。

 盃を乾していく。


 陽が沈み始め、暮れの時間が訪れる。

 西の果てを朱に染めて、黄と橙が天に広がる。陽を追う雲の陰が濃い紫を残し、鮮やかな色彩を映す。

 東の果ては濃い群青から紫紺へ色を移り変わらせ、夜が世界を飲み込み始めている。

 逢魔時と呼ばれる時間。

 昼は生者の生きる時間とされ、夜は死者と魔性の時間とされる。

 その境界は、人間と魔性との交差する結び目。

 

 別れは済んだ。

 すっかりと酒に酔い、眠ってしまっている水原を最後に一瞥する。

 傍らに、鬼の角を残す。

 彼ならば最も有用に使うと信じて。そうして忘れ形見を託す。

 思い残すことはない。


 宵闇に紛れ、屋敷から鬼の姿は消えた。

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