第3話 菖蒲の独白 / イブキという男
検非違使の宿舎からほど近い大通りを一台の牛車が走っている。
牛車の中には貴人の女性と、猫耳が目を惹く侍女の、2人の姿があった。赤い衣を纏った貴人の方が苛立った様子で、親指の爪を噛んでいた。
「鬼の話題まで持ち出すなんて、少し話し過ぎたかしら」
小袖に袴姿と、貴族の子女としては慎ましげな装いの娘は、先ほど検非違使の宿舎に居た菖蒲だった。牛車に乗り込むなり脱ぎ散らかされた町娘の衣装は、傍らに控える侍女が折り畳んでいる。
「あーでも人手が足りないのは事実だし、でももっと上手くやれた筈なのに、私の馬鹿」
両手で頭を抱えながら百面相をしている。そんな貴族らしくない振舞いに侍女が小さくため息を零した後言葉を紡ぐ。
「菖蒲様。でしたら検非違使など使わず家の者を使えば宜しいのでは?」
「それじゃお父様に邪魔されちゃうでしょ!」
そう言って菖蒲が侍女に詰め寄る。
「あの人達にとっては私が大人しくしていた方が都合がいいもの。必ず邪魔されるわ。そしたら、杏奈は……!」
菖蒲の手が侍女の、杏奈の手を取り、その真摯な瞳でじっと見据えている。
「私の事などは……」
「嫌よ。嫌。私の友達は杏奈だけだもの、絶対離さないわ」
体裁や身分、そしてケガレなんかも無視して菖蒲が杏奈を抱きしめる。
しかし菖蒲から伝わる温かな人肌とは違って、杏奈の体は冷たさしか返さない。
式神、と呼ばれる陰陽術。
その術法は陰陽術の家系ごとに術法が存在するが、菖蒲が行っているものは陰陽道の世界でも邪法に近いものとされている。
人形に、自身の霊力を媒介に数多の命を縛り付け使役する。そういう陰陽術。
杏奈という存在は、そうして菖蒲に生み出された式神だった。
霊力を常に取り込まなければすぐに消えてしまう存在。
菖蒲が今回の殺人鬼事件を追うのは、杏奈の為。
どれだけ延命を重ねても、造られたその命と体は必ず終わる時が来る。その刻限が迫っていた。
兄たちの噂話に、鬼が都で人を殺して回っているのを聞いた。
もしそれが本物ならば、その体を素体に、杏奈の延命が叶う。
それが、水原たちの力を借りてでも、鬼を追う理由。
菖蒲の抱きしめる手が一層強くなる。
「痛いですよ、菖蒲様」
「杏奈が一生私の傍に居てくれるって言ったら離す」
「全く菖蒲は……」
そっと主人の背中を擦りながら、杏奈の目には牛車の御簾の隙間から街並みが杏奈の目に移った。
人や牛車の往来。市場には全国から仕入れた商品が並び、女性は着飾った装束を纏い、官吏と思われる男性は上等な服を着て澄ました様子で通りを歩く。そんな賑やかで華やかな街並みの、その隙間みたいな裏路地には力なく横たわる孤児や浮浪者達が居る。
そんな中に一匹の黒猫が佇んでいて、目が合った。
まるで何かを見通すように、じっと黒猫が杏奈を見据える。
目を凝らす為に一瞬目を閉じる。次に目を開けた時にはもう黒猫はどこかに行ってしまったようだった。
代わりに、裏路地には力なく横たわる孤児や浮浪者達といった、都の影の部分が色濃く映った。
生きているのか死んでいるのかも定かではない、幽鬼の様な人々。
そんな人達と重なる。
牛車は2人を乗せてゆっくりと生家へと向かう。
都から離れ、荒れ地が目立ち始めた街道を水原は馬で駆けていた。
目に光が戻った坂上に、やる事がある、と屋敷に追い出された後、水原も真っ先に貸馬屋に駆け込み上等な駿馬をこうして走らせていた。
「この10日間で強い仲間を集めましょ。腕が立つとびっきりのを」
菖蒲のその言葉を聞いた時に、彼の脳裏には2人の男の姿が浮かんでいた。
1人は坂上。
最も信頼できる人間であり、自身が知る限り最も頭が良く、求心力がある男だった。彼が行動を起こすと知れば、彼の力になりたいと思う人間はまだ多数居る。それに、いざ戦いになった時統率が取れる人間が必要だった。
いつかの農民を率いてとある国司宅へ討ち入った時、素人の農民たちを率いた鮮やかな手際は見事としか言いようが無かった。
鬼という得体のしれない存在と戦う以上、彼のような人間は不可欠だった。
そしてもう1人がイブキという男。
坂上とは違い、この男には全く信用が置けない。
裏切るとか出し抜くとか、そういう観点からではなく。何を考えているか分からない。
手綱を握ることなんて絶対に出来ない。そういう男だった。
しかし腕が立つ、その1点では今まで見てきたどんな武芸者よりもイブキが一番だった。
10年も昔の、まだ子供だった時に、既に。
そのイブキという男に会いに、こうして水原は駆けていた。
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