第5話 イブキ

「久しぶりだな、ヒカル」


 扉の先で、建物の主がそう告げた。

 文机で何か書き物をしているその男は、昔の風貌のまま大人になったような出立だった。

 ぼさぼさの前髪は目元までも覆い、相変わらず表情からは何を考えているか分からない。

 しかし10年という時間は、互いに大きく姿と印象を変えていた。

 彼の周囲は本や紙の束がうず高く積まれ足の踏み場もほとんどなく、本棚もぎっしりと資料が詰まっている。どこかの学者、或いは僧院の高名な高僧の様、或いは世の中から隠遁した仙人のような雰囲気を醸し出しているが、蝋燭の火にゆらゆらと照らされる男の肉体は細い体躯ながら、遠目からでも鍛え抜かれているのが分かる。

 無駄を削ぎ落し研ぎ澄まされた、武を極みを目指すもの。

 武山で一番の怪物がここに居る。

 

 あの化け物はこんな風に育ったかと、水原の頬には冷汗が流れ、そして薄っすらと笑みも零れる。

 昔のように、水原の事をヒカルと、彼は呼び捨てる。


 出来る限り平静を装ったように言葉にする。

 帝にも謁見できる、水原家に伝わる極上の衣装を着てきて良かったと思う。

 高価で高貴な衣装は、こうした外交や交渉事においては鎧になる。相手の攻撃から身を護る以上に、自らを鼓舞するものとして。


「先ぶれも無く、突然の訪問だったのにすまないな」

「いや、構わんよ。……10年になるものな、お前がこの地を離れて」


 筆を置き、口元だけを綻ばせながらイブキが文机を片付け始める。

 室内の様々な書物に目を配って水原が言う。


「随分と様変わりしたんだな、ここは」

「ん、あぁ。お前がいなくなった後、写本が懲罰になってな。万年掟破りの俺が今ではここの住人という訳だ。だが一念岩をも通す、というやつで俺の書いた写本が売れるようになった。お陰で小金持ちになったよ、面白いよな」

「売僧坊主じゃねーか」

「いや、まだ僧籍には入ってないから……これは言い訳だな」


 水原が軽く笑みを零して、イブキも苦笑を返す。

 10年という時間は長い。人が変わってしまうには十分な時間がある。しかしこうして変わらない事もある。

 手の付けられない暴れ者が送られる武山という閉鎖した場所で、幼い時分を共にした。そうして育んだ幼馴染としての友情は、或いは義兄弟とも言える絆は変わらない。


「金が欲しいなら打ってつけの話がある。乗らないか?」

「……あぁ、仲間探しでここに来たのか。例の連続殺人事件にヒカルが躍起になっている、という噂はよく聞くよ」

「噂、だと?」

 

 飄々としたイブキの声に、怒気を持って水原が返す。

 宮廷の高官ならいざ知らず、検非違使の下っ端の動向が噂になる筈など考えられない。

 言葉選びを間違えたなと、頬を掻きながらイブキが答える。


「そんなに怖い顔をするなよ。単純な話さ。武山にも出入りの商人は居る。同門の動向は誰だって気になる。俺達田舎者にとって都の話は何よりの慰めだ」


 答えの様で、答えになっていない事をイブキが話す。

 つまりは監視が付いていた、という話だ。没落したとはいえ貴族の家柄。何か役に立つかも知れないと唾を付けられていた訳だ。

 腑には落ちないが、水原も武山を利用しようとする身。

 水原が本題を切り出す。


「なら話は早い。都の殺人事件を止めたい。お前の力を貸してくれないか」

「……悪いけど、断るよ。旧友が尋ねてくれたのは嬉しいし、力になってやりたいとも思う。だが、興味が湧かない。それに貴族絡みの事件は色々と面倒だ。お前の事じゃないぞ」


 だったら何故ここまで通した。

 そんな思いも湧くが水原は引き下がらない。


「興味が湧かないはずが無いだろう。相手は鬼、だぞ」

「……鬼、だと」


 表情は見えないがイブキが纏う空気が変わったのを感じる。

 冷たく、果たし合う直前に漂うような。剣呑な空気。


「あぁ、陰陽師が言うには、だがな。しかしもう5人も被害者が出てる。全員腹部を切り裂かれて殺され、そして争った様子はない。……鬼が眉唾ものでも、こんな芸当が出来るのはよっぽどの手練れだ」


 或いは、初めから殺されることが決まっていた生贄のよう。

 

 そんな言葉は呑み込みながら、水原はイブキの様子を窺う。

 武術を極めた人間は、その力を振るう場所を潜在的に求めている。水原自身もまた、そうであるように。

 幼少のころから武山始まって以来の神童、そう称されたこの男なら猶更の事だろう。

 こうして本に囲まれ古今東西の物語を慰みにしても、根源的な欲求には逆らえるはずが無い。

 それが、イブキという男を引き入れる勝算だった。


 この小さな小屋に漂う緊張感は、イブキが発した言葉で弛緩した。


「勝算はあるんだろうな」

「あぁ勿論だ」


 それからは饒舌に水原は言葉を紡いだ。被害者の共通点、他に本格的に賞金を狙ってきそうな連中の心当たり。恐らく相手は都に血の八芒星を刻もうとしている話。そして次の殺人予測地点について。


 ひとしきり耳を傾けた後、八芒星が刻まれた都の地図を眺めながらイブキが言う。


「……6人目は明日だな」

「どうして分かる」

「恐らくだが月の満ち欠けに沿って犯行を行っている。5人目は新月の夜、4人目は3日前の三日月。だから6人目も明日の三日月ではないか、という推理だ」

「……何故そんな事を?」

「さぁな。陰陽術とか、呪術とか、その辺の兼ね合いなのではないか」


 イブキの推理で、今度は水原が考え込む。

 明日の夜が確率が高いのであれば早急に都に戻らなくてはならない。

 どんな作戦を練るにしろ、まずは相手の力量を見極めてみる必要があった。


「ヒカル。お前は夜明けと共に都に戻ったほうがいい。俺は僧正の許しが無ければここを離れられない。なに、7人目までには合流するさ」


 本当は、6人目まで時間がないことを知った今、すぐにでもこの最高戦力と共に山を降りたい。

 しかし頭を切り替える。

 彼自身もまた、この山で武を磨いた身。敵が人外の存在だとしても、剣を交えてみたいという想いはある。

 自分がやらなくてはならない。覚悟が一つ、新たになる。


「あぁ分かった」

「それとだヒカル」


 目元まで覆われた髪の隙間から、イブキの眼が蝋燭の火に揺れる。

 

「その鬼と仕合うのは俺だ。それが条件だ」


 再会した時よりも強烈な、剣呑な空気が部屋内に充満する。語気は柔らかくても、有無を言わせない、そんな迫力だった。


「……身柄は、話を持ってきた陰陽師に渡す事になる。可能な限り、生け捕りで頼むぞ」

「あぁ、それでいい。仕合えればそれでいい」

「それと6人目の際は俺が戦うことになる。もし俺が捕らえればこの話は無しだ」

「あぁ、それで問題ない」


 2人の間に、握手を交わすという慣習は無かった。ただお互いの双眸が、イブキのぼさぼさの前髪から覗いた鋭い瞳と、ヒカルの決意に満ちた瞳が交わり、お互いの覚悟を確認した。


 

 話し合いが終わり、水原がシキに連れられて寝床に案内される。

 1人になったイブキは、都の地図を再びじっと眺めていた。

 視線の先にあるのは7番目の地点。都の北部、貴族街と呼ばれる場所。

 食い入る様に、イブキはその場所を見つめていた。

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