第19話 2度めの邂逅 / 半月の章

 もしも自分が夜襲をかける側ならば、もっと夜遅くに仕掛ける事だろう。

 少なくとも、半月とはいえ、月明かりに照らされる夜に仕掛ける事は無い。


 だから、雲の無い月明りが街を照らす夜、寝静まった夜遅くでもない時間に、襲われると分かっている場所に襲撃をしかけなければならない敵の境遇に、イブキは同情をする。


 パチリパチリと、篝火の木が爆ぜる音が響く。

 静かと言って差支えの無い晩に、そうして月夜を背景に白装束を纏った剣士が塀の上に立っていた。


 待ちに待った敵を目の前にして、イブキは冷静だった。

 正確には一度だけ大きく心臓が高鳴った後、氷の様に冷たく彼は在った。

 それはある種の作法に似ていた。深い水底に潜る前に息を整える様に、これから対峙する偉大なモノに敬意を込めて。


 剣士が庭に舞い降りて、護衛の兵士の誰もが侵入者の存在に気付き、敵を遠巻きにしている。

 敵だ敵だ、誰かやっちまえ。そんな怒号にも似た掛け声が響くが誰も襲いかかれないでいる。

 鬼の強力無比な噂話と、噂や階段の類ではなく本当に怪物が居た驚愕、そして剣士が携えた三日月を模した抜き身の刀に月光が揺れる妖しさに、誰もが飲まれている。

 人並みの中に出来た空洞を、そうして悠然と剣士は進む。


 意を決し一人の兵士が剣士に躍りかかる。

 しかし体裁きだけで剣士の攻撃は躱されてしまう。男は勢いあまって兵士の群れに突っ込み、一部の陣形が崩れている。

 剣士は変わらず歩み続ける。


 そんな誰もが対峙できない、ある種の厳格な儀式の様な緊張感の中、剣士の進む先にイブキの姿があった。


 今度は剣士もその歩みを止める。

 徒手空拳の、何の武器を持たない一人の破戒僧を、剣士は対峙すべき敵と見定めた。


 無造作に、握っていただけの抜き身の刀を、剣士は上段に構える。

 破戒僧は自然体にただ立っている。

 二人がお互いの全てを見据え合う。


 合図も無く、音もなく、外野が固唾を呑んで両者が動き出すのを待っている。

 かすかに上下に揺れるお互いの体が、揃う。

 瞬間、爆ぜる様に両者は地を蹴って距離を詰めた。

 剣士の必殺の初太刀が振り下ろされる。破戒僧が間合いを図りながら紙一重で左に躱し肉薄し、右人差し指と中指で作った鉤爪で、剣士の喉元を狙う。

 振り下ろした筈の刀を無理やりに横薙ぎに剣士が払い、それを紙一重で交わしながら、鉤爪は剣士の頬を掠めるだけに終わる。


 一呼吸の攻防。

 瞬きの間にそれは行われ、イブキが距離を取った。

 彼の右手に付いた鮮血は、赤い。


 一息、イブキが息を吐く。

 視線は依然剣士を捉えたまま、集中は途切れない。


 二つの事が詳らかになる。

 あの刀という剣の間合いと、あの鬼の血も赤いという事。


 顔を隠す為に被られていた薄絹が、ゆっくりと剣士に舞い戻っていく。

 頬に手が当てられ、その鮮血を確かめている。

 確かめた後、イブキを捉える瞳は鮮血よりも鮮やかな赤を湛えている。


 氷の様に冷たいはずの心に歓喜がある。

 ほんの少しの油断が命を刎ねる死闘。己の技を全て尽くしても勝てないかもしれない。そんな相手。

 真っ先に喉元を潰しにかかっても相手に狼狽えた様子は無かった。首はただでさえ急所だが、陰陽師や呪い師といった吐く言葉に力を持たせる輩には喉は何よりも大切な器官。それを狙われても狼狽えない。

 水原は陰陽師に関係する者と、白装束の剣士を見たてた。

 呪いを扱わないのか、戦いをすぐ傍に生きてきたのか、真意はわからない。それでも、これほどの研鑽を積んだ相手は初めての事。

 そんな人と出会えた、歓喜がある。


 ほんの僅かな間合いが、そのまま勝敗を分けるから。

 焦れる程にじりじりと、互いの距離が微かずつ詰められる。


 間違って互いの間合いに飛び込んでしまえば死に至る。外野の兵士達にもその緊張感が伝わっているから、湖に木の葉が一葉落ちた音すら響くような、静けさが場を支配する。


 剣士が刀を正眼に構える。

 これでイブキがうかつに飛び込めるような隙が完全に無くなる。


 目線で、体の動きで、体重移動で、足さばきで、互いに互いを誘うが、見切りがついた間合いにお互いが入れない。

 それでも、イブキの足音が静けさを割った。


 確かな勝算がある訳では無い。捨て身に出た訳でもない。

 それでも刀が振り下ろされる閃光の様な一瞬に、微かな活路を見出して、地を這うように飛び込む。


 剣士が後ろ足を一歩下げながら、飛び込む破戒僧を払い切る。その最速の刀を信じて、イブキがその軌道の刹那の隣に身体を滑り込ませる。


 蜃気楼の様に、剣士には斬った筈の手ごたえが無い。外野の人間にも何が起きたかは分からない。ただ、破戒僧の体の横を刀が空を斬ったようにしか映らない。

 真相はただ、正眼に構える剣士の手元の死角を利用しただけ。剣の間合いと剣の軌道と、剣の奔る速さに併せて体を横に滑らせた。

 己の技量を信じていても、刹那のずれも許されない所業。


 しかし懐に入ってしまえば、そこは彼の間合。

 水月に、丹田に、胸骨の隙間に、喉元に、体の正中線の何処にでも一息で打ち込める。一息で息の根を止めることが出来る間合いだった。


 お互いに、お互いの心臓を握り合った様な状態で、魅入っていた。

 剣士の、鮮血よりも鮮やかなその赤い瞳は驚愕に見開かれている。

 刹那の隙間を拭った代償に、イブキの額は大きく切裂かれていた。覆いかぶさる様な前髪は切払われ、その傷口と血に染まる赤い瞳を彼女は見ている。

 彼女。

 舞い上がった薄絹のその下に、唇に紅を引いた女の素顔があった。

 通った鼻筋に涼し気な瞳。整った顔立ちの女であったが、その額の両脇からは異形の角が伸びている。

 鬼。

 それはまごう事無く鬼であった。

 都を、恐怖に染める、異形の殺人鬼。


 刹那よりも短い、那由他の時間。2人はそうしていた。

 それでも時間は動き出し、躊躇ってしまったイブキの拳は空をきり、剣士は脱兎のごとく距離を取った。


 敵が逃げ出した。それが合図となった。

 今まで固唾を呑んで見守っていた兵士達が、わぁっと歓声を立てて逃げる剣士を追い立てる。

 多勢に無勢の剣士が、塀の上へと飛び上がり、そして姿を消す。


 それに、追い払ったぞと兵士たちが歓声を上げる。勝どきまで上げるものが居て現場は騒然とし、主役となったイブキを取り囲み興奮冷めやらぬ様子でいる。

 そんな場合じゃない。イブキの悲鳴にも似た声は大衆に消される。ずっと事の成り行きを見守っていたタロウだけが、その必死なイブキの真意を汲み取り、こくりと首肯をしたあと、屋敷の外へと飛び出した。


 騒ぎ立てる兵士たちを何とかかき分け、イブキがタロウを追走する。


 鬼と仕合う。そんな個人の目的は一応果たせたが、肝心の仕事を疎かにしていた。

 捕縛する。そのために、今は何としても追い駆けるしかなかった。



 半月の夜は、占いを当てにせず星空を見上げる事が無い人間にとって、ある種博打の様な存在だ。

 つまり、満月へと向かう月なのか、新月へと向かう月なのか定かではない。

 宵待月でも十六夜でも同じことが言えるのだろうが、半月は丁か半か、二者択一の様で面白い。


 都人は本当に博打と遊戯が好きでいる。

 何もかもを賭け事の対象にするきらいがある。

 半月が面白い、と感じるようになったのも、そんな人間との付き合いが増えたせいだろう。


 自分の人生が伸るか反るか、賭け事として決められる。

 それは吐き気がするほど驕った考えだが、今の自分では受け入れざるを得ない現実だった。


 都に鬼を放ち、誰がその鬼を捉えるか。そんな鬼事はやんごとない人々にとって殊の外愉快な戯れ事だったらしい。

 今宵も一つ骸が増える事を、彼等はとても好ましく思っている。


 一つ、死体が増える事に、一つ、罪を背負う。

 昔はそんな明快な人生だった。その一つは顔を知り性格を知り家族を知る同胞で、そんな者達の死体を重ね高みを登ってきた。

 彼等の顔を忘れる事はない。だから罪を背負ってこれた。


 しかし今は違う。

 一度崩れて、再度高みに昇るには数多の死体が必要で、とても一つ一つを数えていられない。

 だから、名も知らぬ者の骸を重ねている。

 お陰で死体が増えても罪を背負う事は無い。今まで重ねた罪が更に重くなった様な気がするだけだ。


 そうして俺も都人になり、やんごとない人々の仲間入りを果たす。

 人の死に何も感じ入る事のない、人間ではない生き物に。


 今宵も一つ骸が増える。けれどもそれではまだ足りない。今宵限りはもう一つ、死体を重ねる必要がある。


 同胞は皆鬼籍に逝った。残ったのはたった一人だけれども、それを重ねなくてはならない。


 陰陽師の友人に、昔聞いたことがある。

 名前はそのモノを縛る呪であると。


 名を呼ばれ、名を書く内に己をその名前のモノと認識を果たす。真央と聞いて真央という者だけが返事をし、そしてその文字の持つ意味に囚われていく。真央は真実の中央と書く。その呪に縛られ、物事の中心に居なくてはならないと思い込み、それが出来なければ心を病む。

 名づけとは祝福であり、呪いであるとその友は言った。

 文字の持つ意味だけではなく、名付けた者の想いも込められるから。


 それでは、宿禰とはどういう呪いであろうか。

 古代の武人を示すその役職名は、俺にそうあるように責め立てる。


 出世を望み、ひとつでも上の階級に上がる。貴族として至極当たり前の在り方を、俺は恐ろしい程に望んでいる。

 同胞をこの手にかけてでも、昇らなくてはならない。

 そんな悍ましい業を抱えている。


 最後の一人を焚べる段になってもその業は止まらない。

 故に、この身が業火で焼かれる段になっても変わりはしないのだろう。

 悔いもするし涙も出るが、その業は止められない。


 この博打の結末がどうなるのかは分からない。あの半月が新月か、或いは満月になった時に答えは出る。

 それまではただ、この骸で出来た道を生き続けなくてはならない。

 そういう業を、抱え続けて生きている。

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