第37話 そして
運命の邂逅を果たしても、それでも現実を生きていかなくてはいけない。
都を賑わしたこの騒動は、鬼の骸が無ければ収集がつかない。
イブキが自身の友を救うにも、どうしてもその亡骸がいる。
そのために、こんな戦いの場を用意していた。
荒れ放題になる境内の草むらに、ざぁと風が凪ぐ。
戦いの熱が冷めて、互いに黒い瞳を戻している。
頭が冷静になっていく。
こんなに幸せなのだから。
幸せのままに終わりたい。
彼女が、言葉にしようとする。貴方の手で、と。
それを、イブキが遮るように言葉を紡ぐ。
「知り合いに山伏をしている人がいるんだ。東西のあらゆる山野を分け入って、修行と称して美しい景色を探している人達が」
唐突に、そんなことを語りだす。
彼の意図を探るように、彼女が耳を傾ける。
「ある人は、那智の滝こそが一番美しいっていう。山間の川を昇っていくと、突然水が叩きつけられる轟音が響き始めて、山の頂から水がこぼれ落ちるんだ。雪解けの時は特に水量が豊かで、まるで世界の産声の様だって言うんだ。
またある人は、富士の山こそが一番だって言う。青空に雄大な三角が完璧な調和を為していると。海から見ても、山から見ても、美しすぎて見飽きることが無いって」
まだお互いに素顔を知らない頃に、文でそんな話をしたことを思い出す。
この世界で最も美しい光景はなんだろうと。
それに何と答えただろうか。
人から聞いた美しさより、自分で見た庭の草花のほうが美しい。
確か、皮肉のような強がりのような答えを返した気がする。
結局、互いに本物を見たことがないから、そのお話はあまり広がらなかった様に思う。
あまり続けると、何処にも行けない自分が哀れに思えるから。
そんな小さな事を覚えていてくれてか。彼はそんなことを話す。
ここで終わる私に、夢を見せようとしてくれて。
「でも俺はさ。海を渡って大陸に行ってみたいんだ。大陸はとんでもなく広くて、本当に色んな人がいるらしいんだよ。赤い髪の人や金の髪の人。青い目や緑の目をした人もいれば、透き通るように白い肌の人が居る、黒壇のように黒い肌の人も。ありとあらゆる人が居るそうなんだ」
遣唐使で、大陸に渡った人の手記を読んだのだろう。
彼は、少年が夢を語るように目を輝かせている。
そんな世界なら、自分たちのような異形の者でも、陽の当たる場所で生きていけるのではないかと。
でもそれは、荒唐無稽な夢物語。
大陸に渡る手段は随分と昔に無くなってしまったし。自分たちの素性を隠して、あるかどうかも分からない楽園を探すなんて、どうかしている。
それでも彼が言葉を続けるのは、その夢物語を本当に願っているから。
もう死んでもいい。
そんなことを思った筈なのに。
もしも許されるなら。本当にそんな場所があるなら。
こんな運命から解き放たれるなら。
どんなに素敵だろう。
苦し紛れに言葉を繋げる彼に、彼女が微笑んでいる。
その世界で一番美しい光景が、彼の運命を変える。
彼女を殺さなくてはならない。そんな運命を変えてしまう。
「……とても痛いけれど、我慢できるか?」
イブキの目が、夢を想う少年の目から、青年の目に変わる。
無茶に飛び込んで、わずかな可能性を掴もうとする青年の目に。
「俺は子供の頃から角を折りすぎて、痛みに鈍くなってしまったけれど。恐らく君は違う。痛みに耐えられないかもしれないけれど、その角を落としてみないか」
今まで彼女が考えもつかなかったような言葉が、イブキの口から紡がれる。
「角が無くなれば人に紛れることが出来る。馬鹿な、話だけどさ。俺と逃げてくれないか、こんな世界から」
死を覚悟してこの地に赴いた筈なのに。
共に生きようと、戦った男が言う。
正気になれと、一時の感情に全てを棒に振ろうという彼に言わなくてはないけない。そう瞬時に彼女は思った。
それなのに、全く別の言葉を紡いでいた。
「あり、がとう」
今宵はあまりにも色んな事がありすぎて、頭がおかしくなってしまっている。
幾度目かの涙が、そうして溢れている。
例え痛みに耐えきれず、ただ苦しむだけだとしても。
本当に僅かな可能性に、全てを賭ける賭けだとしても。
人を殺め続けて、そんな希望に縋る資格が無いことが分かっていても。
此処から救い出そうとしてくれるその手は、天から伸びる蜘蛛の糸のように見えた。
その刀の、凄まじい斬れ味を知っている。
金槌でも破壊できず、のみでも削る事が出来なかった恐ろしく硬いものも、その刀なら斬る事ができるかもしれない。
糸のようにか細い稜線を行き、その頂に向かう様。
頂に辿り着くのは万に一つだとしても。
焦がれてしまったから、行かなくてはならない。
自由とか、希望とか。
そういう展望が人を業火の道へ、誘う。
朱い満月が空に昇る夜。
白装束の女が、地に膝を付き首を差し出すようにして、振り下ろされる刀を待つ。
傍らでイブキが呼吸を整える。
力がみなぎり、心が落ち着けば、寸分の狂いも許されない芸当へ向かう。
高らかに掲げた三日月を象ったような刃、高い満月に重なる。
命を断つのではなく、悪縁を断ち切る呪具としての役割を果たすために。
もしも手元が狂ってしまったら。
そんな考えは全て頭から追い払った筈だけれど。この神事に向かう最中で、気になってしまった事がある。
「君、名前は?」
お互いに名前を知らぬもの同士であったことを、儀式の際に思い出してしまった。
「俺はイブキ。息を吹くと書いて息吹。君の名前を教えてくれないか」
刃を待つ彼女が答える。
「イバラキ。誰も呼ぶことは無かったけれど、植物の棘に姫を付けて、茨姫」
「……そうか」
名を交わしあい、覚悟も決まる。
そしてイブキが、太刀を振り下ろした。
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