第35話 満月の章 3度めの邂逅

 朱い満月が空に昇る。

 都から北東の方角に、随分行った所にその古寺はある。

 街道から外れ、人里からも外れたその静かな場所で、イブキが彼女を待っていた。

 時折手持ち無沙汰になった彼は腰に吊るした刀を抜き差しし、何度も確かめた光沢の鋼に、曇りも欠けも無いことをそうして確認をする。


 果たし合いの書状は、既に渡してある。

 前回は衆人環視の中での戦いであったから、どうしても邪魔が入りお互いが本気を出すことは出来なかった。

 だから、この場所であれば。お互いに死力を尽くすことが叶う。

 問題は彼女が生きているかどうか、ということ。


 8人の命を奪い、都に血の八芒星を刻む。

 呪術的に何か大きな意味があったかもしれないその儀式は、失敗に終わっていた。

 儀式に見せかけ、要人を暗殺する、というのが目的だったのであれば、その目的は達せられていた。

 どちらにしても、用済みになってしまった彼女が殺されてしまったかも知れない。

 そんな不安だけがある。

 不思議と、約束を袖にされる、という不安はない。

 

 生きているなら必ず彼女はやってくる。

 そんな確信がある。


 朱い満月は不吉の象徴だと言われている。

 悪人がそれを見るとたちまちに怪物になってしまう。

 子どもの頃、大人にそう教えられて、以来満月の夜は自分が怪物になってしまうんじゃいかと、月の色を確認することも出来ず、怖くて眠れなかった。


 それが迷信だと知ったのは、随分と後の頃だ。

 写経や写本が金になり始めた頃。ある綺麗な文字を書くお客との手紙のやり取りの中、教えてもらった。


 月が赤く染まるのは、月食という天体現象が関わっているから。

 それを知らないから、朱い月は不吉の象徴だと迷信を作ってしまうのだと、彼女の手紙には綴ってあった。

 

 それは決して無知を卑下するものではなかったのだけれど、たまらなく恥ずかしくなった記憶がある。

 以来、少しでも色んなことが知りたくて、貪るように書物を読み込んだ。

 今にして思えば、彼女と同じ目線で、同じ言葉で話してみたかったのだと思う。

 名も顔も、年齢も知らない女性との、ささやかな交流だった。

 

 ヒカルあたりが聞けば、恋煩いだとからかわれてしまいそうな話だけれども。

 恋、では決して無かっただろう。


 ただ手紙の端々から伝わってくる彼女の置かれた状況と、決して言葉にされなくても分かってしまう悲痛な叫びとに、ただ共感しただけの事。

 屋敷の一室から決して出ることが適わず、誰とも言葉を交わすことがなく、運ばれてきた食事を一人で食べ、微かに覗く庭の花々に想いを馳せ、持て余した時を書物で誤魔化す毎日。

 ヒカルが武山を去ってから、誰も俺に関わろうとはしなくなった。子供ながら誰も適わない力を持ち、化物という形容が特別な才を持つものという意味から、文字通りの得体の知れない存在を指すものへ変貌した。

 武山を降りることも許されず、姿を見せただけで皆に迷惑をかけるから。半ば自室と化した折檻部屋で息を潜めるような毎日を過ごすしか無かった。

 

 あの手紙のやり取りの日々は、自分の置かれた状況と、彼女の置かれた状況とにただ共感していただけの事。

 それがこんな形で人生が交わるのだから、運命というのは喜劇だ。

 ほんの数瞬の、あの戦いの時。白装束の鬼から香った香りは、彼女の手紙に込められた匂いと同じもの。

 気づかなければ良かったのに。そんなことすら思う。

 本当に人生というのは、喜劇だ。

 

 幾時をそうして待っていただろうか。

 月が高く昇った頃に、待ち人は現れる。

 腰に太刀を吊るし、白装束に身を包み、薄絹でその角を隠して。


「やぁ。待っていたよ」


 イブキがそう、話しかけるが。彼女は何も返さない。

 一息で届く間合いの一歩外から、こちらに入ってこようとはしない。


「そんなものは外しなよ。もう君に角が生えていることは見てしまっている。ただ邪魔なだけだろう」


 イブキの言葉に、彼女は少し躊躇った様子でいる。逡巡の後、諦めたようにその薄絹を祓う。

 朱い月に照らされて、その艶やかな黒髪と紅い唇が目を惹く相貌が露わになる。

 イブキを見据える切れ長の大きな瞳は、何の感情もない。

 ただ、諦めたような、受け入れたような、憂いだけがある。


 交わし続けた手紙の相手が果たし合いの相手であったからか、殺戮と言えど実の父との逢瀬を邪魔したからだろうか。

 それともその腰に、彼女と同じ刀が吊るされているからだろうか。

 皮肉な事に、その刀で数多の人を屠り続けてきた彼女に、同じ刀を携えた刺客が送られた。

 彼女を確実に屠るために。


 何か、気の利いた言葉が出てくるものと思っていた。

 長く文を交わしあった相手で、この戦いで確実にどちらかが死ぬ。一度鉾を交えた事で、互いに一撃必殺の刀を携えることで。否が応でもそれが分かる。

 同じ苦しみを知る数少ない相手なのだから、言葉を交わすべきなのかもしれない。

 逆に言えば。

 事ここに至りて、もう言葉は無粋でしかない。

 どれだけ言葉を尽くそうと、もう、どちらかが死ななければ決着がつかない。


 イブキが刀を抜いて見せれば、それに呼応し彼女も刀を抜く。

 一足でも踏み込めば忽ちにも相手の太刀が飛ぶ、必殺の距離。


 お互いに、全身全霊で相手を見据える。

 この遠い一歩を踏み出すために、全神経を剥き出しにし、相手の動きを捉える。

 呼吸も、眼差しも、刀を握る腕に込められる力にも、にじり寄る足の微かな動きにも。全てに。

 ほんの何かすら見落としたものが命を落とす。

 やがて気配も、体温も、息遣いもすぐ傍に感じられる。自身でも知らない僅かな体の動かし方のクセすらも、手に取るように理解する。

 そして、意識すら同調し、相手が何を考えているのかすら、わかり始める。


 その刀で人を屠り続けてきた事で、彼女には分かる。

 この闘いは一息で決着が付く。

 一太刀で、相手の息の根を止める武器を互いに持つ。受けに回り相手に刀の扱いを学ばせればそれだけ自分が不利になる。

 人を殺め続けた一日の長が、あの男に勝る。


 武山であらゆる武具の扱いを学んできた事で、彼には分かる。

 この闘いは一息で決着が付く。

 矛盾という故事がある。最強の矛と最強の盾がぶつかったら、というもの。それが矛と矛であれば、互いの力量だけが勝敗を分ける。

 積んだ研鑽は、彼女に勝る。

 

 段々と呼吸が揃い始める。

 全てが揃った時、互いに爆ぜるように地を駆け、神速の剣を互いの急所へ向ける。

 

 時間を極限にまで圧縮したような一瞬。ほんの刹那にも満たないはずの一瞬が互いの何もかもを語り尽くす。

 勢いをそのままに、脇構えから薙ぎ払うように逆袈裟を放てば、合わされた刀の刃で受け流され、そのまま上段から太刀が振り落とされる。それを紙一重で交わしながら左一文字に薙ぐもそこにもう姿はなく、死角から放たれた一撃を目の端で捉え、刀が何とか払う。

 致命を狙う神速の剣戟を紙一重で交わし続け合う。

 時を超越したかのような攻防。一瞬と一瞬の連続。

 刀と刀が打つかるたびに火花が爆ぜ、その度に露わになる二人の顔は嗤っている。


 死力を尽くし、ただ今だけを生きる。

 そんな経験はお互いに初めてのことだった。

 本の少し気を緩めれば首と胴が分かたれる。本の少し力を抜けばたちまちに腕を切り落とされ無防備な体に刀を突き立てられる。本の少し余計なことを考えればこのやり取りに狂いが生じ、打つ手を失い積んでしまう。


 研ぎ澄まされた刃の、切っ先の上で踊り続けている。

 踊り狂い続けなければこぼれ落ちてしまう死線の上。

 そんな常人には理解の及ばない舞台が、二人には、今まで生きてきたどんな時間よりも、濃密な刹那であった。


 死に装束を纏った女が笑う。薄い笑いしか浮かべない男が目を見開いて笑う。

 血に酔った鬼達が、興奮に笑い目を紅に染めあう。

 

 されどどんな演目も、どれほどに心地の良い時間も、終わる時が来る。


 致命を狙い合う、一時の余韻に浸ることも許されない刃のやり取り。

 刀の扱いにどれだけ長けても、限界を超え続ける肉体の行使に、軋みが上がる。

 刃ももう限界を迎えていた。どれだけ手入れを尽くしても、蓄積した疲労は残り続ける。


 幕切れは唐突に訪れる。

 彼女の刀が、根本から折れてしまった事で、その演舞は幕を閉じる。

 呼吸を忘れ、瞬きを忘れ、思考を飛ばし最適と最速を繰り返し続けていた体が止まる。爆ぜる音と色彩に目を奪われ続けていた時間が終わる。


 肩で息をして、もう指の一本すら、動かせない疲労感に体は満ちている。

 それでも滝の様に溢れる汗が心地よい。

 体に残る熱さが嬉しい。

 夢の中にいるような、快感と感動が延々と続く、至高の時間だった。


 間違いなく、人生で一番の瞬間。


 彼女が笑う。憑き物でも落ちたように、心から満足気に。

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