第26話 菖蒲の覚悟(2)

 香を焚き込めて、少しでも清浄な空気の中で、眠り続けている杏奈の傍に居る。

 その愛おしい黒髪を撫でつけながら、気が付けば、いつか聞いた子守唄なんかを口ずさんでいる。

 後数日で杏奈の命は尽きる。

 式の主人として、何より血を分けた姉妹として、どうしもなく強く、それが分かってしまう。


 双子として生まれ、発育が悪かった杏奈は、忌子として処分されてしまった。

 それが余りにも悲しすぎて、無垢だった少女は彼女の再生を願う。

 杏奈の亡骸とそこに残る精神を根源に、浮遊する思念や2人が慈しんだ猫も素体に、式神として彼女を造った。

 

 人の魂なんてものはどうやったって縛る事は出来ない。肉体だけがそれを留める器でいる。

 死んでしまった杏奈をよみがえらせる事は叶わない。


 タルパと呼ばれる、チベット密教の奥義がある。

 自分の精神の中に別の人格を創り出すという奥義。


 彼女が行ったのはそんな奥義によく似たこと。

 双子として、何も語らずともお互いの事が分かり合えたから出来た業。

 自分の一部を杏奈にして、それを式神に譲った。


 だからこの杏奈は、本当の意味では杏奈ではない。本当の杏奈はずっと昔に死んでしまった。

 けれどこの杏奈こそが、本物の杏奈であった。

 傍らに在り続け、共に時間を重ねてきた唯一無二の存在。


 もしも、また杏奈を喪うとしたら。それはきっと、とても侵し難い神聖なものを永遠に失ってしまうという事。

 文字通りに何もかもを分け与えた片割れを、もう一度失うという事。


 そんな刻限が迫っている。

 彼女はただ、物言わぬ彼女の頭を撫で続けている。

 いつか聞いた子守唄が、鎮魂の歌にならないことを祈りながら。


 

 8人目の殺人が行われる、十三夜の夜。

 数多の殺人事件を紡いで見いだされたその場所は、都の南、羅生門の程近く。


 水原のヒカルが大江家の御曹司を討った事件により、すっかり鬼の噂は語られなくなった。少なくとも、野次馬が集まるような事も無ければ、賞金狙いの検非違使や凶賊共は鳴りを潜めて居る。

 ここに集まるのは、真に鬼を欲する陰陽師や呪術を生業とする者達。

 皆一様に夜空を見上げ、鬼が現る刻を待っている。

 


 人気のない水原邸に、菖蒲の姿だけがあった。

 冷たい程に澄み切ったその瞳は、どうやら覚悟を決めたよう。


 冷水で水垢離し、身を清め。正装に身を包む。

 紫に趣向の凝らした金字があしらわれた長袴を穿き、生絹の色鮮やかな単衣を幾層にも重ね、その上に艶やかな緋色の唐衣を纏う。

 黒髪は一遍も余す事無く後ろ手に括り、金色の釵子を頭に乗せる。

 祭器の扇を握り、厳かに祭場と定めた台座に向かう。


 そのまま宮中の祭祀に昇る事も適うような出立は、彼女の決意を現すもの。今生で最も重大な儀式に臨む彼女の決意を示すもの。


 菖蒲と杏奈は霊的に強い繋がりを有する。菖蒲の苦しみが、そのまま杏奈の生死にかかわる程に強い繋がりを有する。

 それは転じれば、彼女の心の在り様が、杏奈を活かす事にもなる。

 ならば、神降ろしすら適うであろう心持ならば、どれほどの力を生み出す事だろう。

 無垢に無意識に、厳かに陶酔し、恍惚に酔い痴れながら彼女は祭場へ向かう。


 水原邸の庭に、四角く縄を張り、その中心に板の台座を造っただけの簡素な祭場。

 されど今宵限りはその場所こそが、この世で最も澄み切っている。


 台座に昇り、一息だけを長く吐く。

 準備はもう整っている。

 最後の意識が手放され、肉体という器が空になる。

 呼吸を整え、閉じられた瞳が開け放たられた時、神楽が舞われ始めた。

 此処に人は無く、何も無い。しかし無音に舞う彼女に呼応して、音楽が幻視の如く鳴り響く。



 白装束の剣士が、羅生門の程近くのその辻に姿を見せた。

 悠然と近づいてくるその剣士に、息を潜める陰陽師や呪術師が息を飲む。

 或るものは鬼を調伏し力とする為。或るものは鬼の肝を薬に万病に効く薬効を求めて。また或るものは己の力を誇示するために。

 様々な目的を秘めながら鬼が近づくのを待つ。

 

 あの鬼の間合いに入ってはいけない。その三日月を模した剣に屠られてしまうから。

 そんな共通認識がある。だから我先にと躍りかかる事はできない。しかし待ち続けて誰かに先を越されてしまったら、そんな焦燥も皆の中にある。

 

 じりじりと焼かれ、そして逸る誰かが鬼に呪符を投げつけた。ただの紙が矢の様に鬼に向かい、その目前で炎に変わる。

 しかし剣士は悠然と三日月を模したその刀で炎を薙ぐ。

 月夜に映えるその白には煤一つない。


 その呪符の攻撃を合図に、今まで息を潜めていた者達が一斉に襲い掛かり呪いを投げつけた。

 呪符を投げつけるもの、毒蛇を襲わせるもの。人の形をしていない式神らしきものを嗾けるものもいる。

 しかし剣士はその全てを両断する。

 足を止める事無く悠然と、その辻へと向かってくる。


 逃げ出すものも居る。腰が抜けて立てないものも居る。しかし剣士は一向に介する事無く辻を往く。

 その中心に居る、ある陰陽師の首を求めて。

 悠然と剣士は進む。


 けれど、その歩みが止まる。今まで眦ともしなかったその瞳がゆっくりとその者に向く。

 羅生門の屋根の上に一人の少女が立っていた。


 満月にほど近い十三夜の月を背に、艶やかな緋色の唐衣をはためかせる少女。その黒髪の上に猫を思わせる耳が逆立ち、指先には禽獣を思わす爪を覗かせる。

 ひらりと屋根の上から身を投げて、少女は降り立った。

 羅生門の上から飛び降りたにも関わらずどこを痛めた様子もなく剣士の眼前に立ち、少女は鬼を睨めつける。

 誰もが一目でその者が人ならざるものであると気付く。


 空気が変わる。

 白装束の剣士と、猫を模した少女との間に誰も立ち入れなくなる。

 名を馳せる陰陽師ですら有象無象の様に屠る白装束の剣士、血の薄く力なき呪術者ですら感ずる猫の娘から迸る妖気。

 神域に誤って足を踏み入れたような悪寒がある。

 祀られる神ではなく、禍津神が住まう神域に。人の世ではない場所に立ち入ってしまった悍けが走る。


 張り詰めた静寂。

 先に仕掛けたのは猫娘の方。一息で剣士に肉薄し、その爪を振るう。

 剣士が高速の太刀でそれを返す。必殺の剣は、猫娘を捉える。しかし残像だけを斬る。

 娘の姿は刀の間合いの外にある。刀が振るわれた刹那、まるで世界を歪ませるような俊敏な動きでその必殺の軌道を躱した。


 剣士も人を外れた存在なら、猫娘も人ではない存在。

 その耳の示す通りまるで猫のように柔軟に体を曲げ野生の獣の如く虎視眈々と敵の急所を狙う。怪物。

 お互いが必殺を繰り出し続け、紙一重で死が掠め続ける。

 剣士は猫娘を一太刀にする隙を伺いながら多様な攻めを躱し、猫娘は嵐のような剣戟を縫って致命の一撃を狙う。

 まるで死と死の間を揺れるように続く舞踏。


 数合、その様に踊り合い、互いに決め手を欠く事を知る。

 触れれば死ぬ刃を紙一重に躱し、確実に命を屠るであろう爪撃を繰り出させないように立ち回る。

 そんな刹那のやり取り。そんなものを幾重に交わさなくてはならない。


 どちらもそれは望まない。


 剣士は頭に被っていた薄絹を祓った。

 その長い黒髪と天を衝く様に伸びる角が露わになる。周りで息を飲んでいた陰陽師たちからどよめく声が上がる。

 赤く光る眼が、真直ぐに敵だけを見据える。


 猫娘は地に手を付き、獣の様に唸りを上げる。

 立ち上る妖気が一層に青色を濃く染め上げ勢いを増す。妖気は立ち上る先から燃え尽き、瑠璃の様に青と白の輝きを放つ。

 体も幾らか大人びていて、それ以上に獣然としたしなやか姿に変わる。


 次を考えない。今だけを見据える。そんな死合が始まる。


 あの美しい鬼の剣士と、人と猫の形をした傀儡との戦いは、陰陽道や呪術、魔術とも呼ばれる呪法に携わる人間にとっては至極であった。

 鬼を調伏し使役する事は全陰陽師の夢である。それを可能とするのは一握りの中の一握りだけ。

 あれだけの傀儡を用意するために、どれほどの怨念とどれほどの呪いを込めたのだろうか。屍術を識る者にもその道程は計り知れない。

 身代を潰し、今生を賭してもその足元にもたどり着くことはない。己が目指す頂きの遥か向こうの景色。

 剣士も傀儡も、それほどの彼方にある。

 その力が、自分たちに向けば虫けらの如く屠られることを分かっていながら、彼らはその闘いに魅入られている。


 薄絹を祓った事で視界を確保し、正体を大勢に晒してしまう愚を犯し、あの獣だけを見据えた。

 それなのに、剣士は後手に回り続ける。

 

 明らかに攻撃の鋭さが違う。

 今までは間隙を縫っての攻撃だったが、斬られるかもしれない恐怖を厭わず果敢に攻めてくる。

 両腕の腕を振るうだけが、曲芸のように蹴り技も織り交ぜ始める。地から蹴り上げられるかと思えば、手を地につき頭上から踵が振り落とされる。

 先程の少女の姿はそこになく、大人の女に姿を変えて、長い髪を振り乱しながらありとあらゆる角度から必殺の一撃が迫る。

 間合いが変わりすぎてやりづらくて仕方がない。

 それでも、刀も触れるだけで命を断つ必殺。捉えさえすれば致命を与える。

 命を賭して、獣の娘が剣士に迫る。


 戦術も戦略も、弱者の手段だ。

 真の強者はその腕を震わせるだけで相手の命を終わらせる。それを何とかするために狩られるものが戦術や戦略を練る。

 相手を観察し、その刹那の隙を息を殺して探る。


 あの刀は、美しく、妖しく、悍ましく簡単に命を屠る。

 故にあの刀を振るわせる訳にはいかない。とにかくも距離を詰め、その獲物の長さを持て余している間に隙を窺うしかない。

 その為に命を惜しみなく炉に焚べる。

 なけなしの命を立ち上る炎に変える。

 1分1秒を、1瞬、刹那に変えて。何としてもあの鬼に打ち勝つ。

 この器を生きながらえさせるには、あの鬼を素体に、もう一度器を作るしか術がなかった。


 命の煌めきと迸りを眼前にしている。

 猫の娘の攻撃は、自由自在に繰り出すようで、その実、全てが急所を狙う攻撃に直結している。

 ほんの少し、気を緩めてしまえばたちまちに殺められる。

 終に味わうことのなかった緊張感が剣士にはある。


 それは娘が先を捨てて今だけに命を燃やしているから。

 最初に現れたときは少女のような出で立ちだった。それが今では大人の女の姿で、そして猛獣の様でもある。

 どんな術を用いたのか、命を早回しのように進め、隠すことなくその本性を露わにしている。

 その代償は計り知れない。

 おそらくその命を賭してもこんな業をなすことは叶わない。

 その証左が、彼女から迸る鮮やかな青い妖気。立ち昇った先から青く白く爆ぜ、命を燃やし続けている。


 彼女の攻撃はひとつとして同じものはなく、全てが目も体も慣れさせないために新しい攻撃が繰り出されている。

 余裕なんて欠片もない。

 その全てに全身全霊をかけなければならない。

 それでも、攻撃に呼吸がある。お互いにお互いだけが分かる、お互いの呼吸。

 命のやり取りをしている筈なのに、手に取る様に、お互いの次の手が分かる。

 

 相手の一連の動きに、なぞらせるように体を運ぶ。それで相手の攻撃を躱せ、相手もそのように体を運ぶから攻撃は当たらない。

 次第に音が無くなっていく。土を踏みしめる音も、風を切る音も、刀と爪とが打つかる剣戟の音も無くなる。

 意識がずっと澄み切って、争いの最中に穏やかな夢心地の様でもある。

 剣戟が火花を散らす。

 赤い刹那の命の灯り、打ち合う数だけ火花は散り、この刹那を彩る。

 美しいとすら思う一瞬が訪れる。


 鬼の剣士の瞳が一層赤く輝く。

 宝石の紅玉の様に爛々と、鳩の血の如く鮮やかに、紅色にその瞳を染める。

 薄気味の悪い笑みさえ浮かべているように感じる。


 剣士の速度が増す。

 こちらが全精力を注いでも、それを上回る速度で刀を振るう。

 押し込んでいた筈の均衡がそれで崩れてしまう。


 鬼の放った切り上げが、猫の娘の右腕を斬り、空高くに跳ね上げた。

 地に落ちる音はしない。

 空高くに舞い上がった傍から、右腕は青い燐光に包まれ燃える。

 灰すら残すことなく燃え尽きる。


 とっさに猫娘が距離を取る。

 剣士の追撃が虚しく空を斬る。

 刀の間合いの方が長いから、猫娘は肉薄し間断無く攻撃をし続けるしか勝ち筋が無かった。

 それがこうして距離が出来る。

 もう一度あの懐に飛び込む必要があるが、もうあの剣士はそんな甘さを許さない。


 お互いに次が最期と確信する。

 猫女が一度だけ喪った腕に目を配る。

 全身から迸る青い妖気は傷口から一層に激しく燃える。

 残された時間は本当にもう僅か。

 もう一度地に手を付ける。

 眼は穿つ敵を見据える。

 愚直と言われようとも、己の出来る最速で最強の攻撃で臨まなくてはならない。


 剣士もまた構えを作る。

 己を顧みることのない必殺を繰り出す敵に、未だ嘗て試したことのない構えを取る。

 破れかぶれではない。

 かの敵に自身の最高をぶつけるために、剣士は刀を水平に、あの最速を薙ぐ最速の剣で迎え入れる。


 青い閃光が走る。

 紅い斬撃が放たれる。

 一瞬で、決着が付く。


 もっと、正確に言えば。既に決着は付いていた。


 刹那を超えて、那由多の速剣が獣の首を薙いだ筈だった。

 獣はそれでも止まらず剣士に襲いかかる。

 共にまともで居られるはずがない衝突。

 しかし剣士の刀には手応えが無い。


 姿形はそこにあったのに、幻燈の様に刀はその体をすり抜ける。

 彼女が過ぎ去った後、一筋、青い光の帯だけが残る。

 それも淡く消えていく。燃え尽きた燐光は静かに空に還っていく。


 剣士が後ろを振り返る。

 青い炎に包まれた猫女がそこに居た。

 彼女は少しだけ気まずそうに、けれど確かに満足気に笑みを湛えている。


 迸っていた青い妖気は落ち着いて、それでも確かに彼女を包んでいる。

 指先や足先から、燃え尽き始めた体が塵も残さず、燐光だけを仄かに灯し空に還っていく。


 ある一人の少女の亡骸とそこに遺る精神を媒介に、数多の怨嗟と怨念と、慕った猫を素体にしてその式は出来ていた。

 最期の一片まで、使い切ったから。その器はもう役に立たない。

 縛られていた数多の怨嗟と怨念がそうして開放される。


 もっと悍ましい怨霊が生まれる。

 そんな懸念が、見舞っていた陰陽師たちにはあった。あの傀儡は、そういう悪しき物を束ねた呪物であった。

 けれど彼ら彼女らは、何の未練もなくただ燐光になって還る。

 杏奈という器を通して、叶えられなかった命を生きた。

 その器に縛られてはいたけれど、彼女からたくさんの愛を受け取った。


 最期に、彼女の願いだけは叶えてあげたかったけれど。

 懸命に、存分に、十分に、望めなかった時間を彼らは生きた。


 燐光が空に散っていく。

 杏奈の器はもう、その姿を留めては居られない。


 ごめんね、と。最期にその唇は動く。

 けれど、憑き物が落ちたように穏やかな笑みを、彼女は浮かべた。


 青い炎が、そうして燃え尽きた。

 散っていった思念が、最期の気焔を上げる。

 鬼火が剣士の周りを舞うように揺れ、そして本当に散っていった。


 

 水原邸で、簡素な台座の上で、菖蒲ははたと気がついた。

 体中から滝のように汗を零し、無意識がずっと続いていたから、自分が何をしていたのか一瞬分からない。

 しかし会心の手応えだけがある。

 おそらく、今生で最も神に近づいた瞬間だった。

 その祈りは聖域に至り、自身の持ちうる全てを賭した、そんな想いがある。


 けれども、大切なモノを無くしてしまった、埋めようのない喪失感がどうしようもなく存在する。

 いつかこんな日が来るかもしれない事は分かっていたけれども、その喪失を埋めることはもう絶対に叶わない。


「あぁ、なくなってしまった」


 そんな言葉が静かな暗闇に溢れる。終生塞がることのない、穿った心の穴から。

 そして涙も一筋、その双眸から伝った。


 

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