第34話 宵待の章

 宵待の月が昇る静かな夜。

 ある陰陽師の姿が、男の邸宅の庭先にあった。

 あらかじめ人払いは済んでいる。

 白装束姿の娘が命を奪いに来たならば、こんどこそ容易く命を屠られる事だろう。

 しかし今宵の待ち人は娘ではない。


 風が一迅吹き抜ける。

 庭に造った湖に波紋が広がり、水面の月が装いを変える。

 そしていつの間にか彼が居た。陰陽師の男の命を救った、青年が。


 背が高く、細身の青年。しかし近くで見ればその引き締まり鍛え抜かれた体躯に、男は驚きを隠せない。

 まるで、戦うために造られた様な肉体。

 こうして闇に紛れるように姿を現した事。あの強力な鬼と対峙し生きているという現実。それに不可解な行動原理。

 そんなものが綯い交ぜになり、一つの線を織りなす。


 この国の、津々浦々にまで浸透する、陰の者たち、があると聞く。

 寺社仏閣が地方に広まる際に、各土地に根付いていった存在。時々の権力者に阿ることはなく、ただ一つのものに忠誠を誓い続ける存在。


 万物に精通し、あの天に聳える星々の軌跡を紐解くことで、森羅万象を読み解こうとするのが陰陽師という在り方。

 それに対し、大自然にその身を投じ、その美しさも荒々しさをも体験し、森羅万象を修めようというのが、山伏とか修験者等と呼ばれる者の在り方。

 そんな山伏とか、修験者と呼ばれる者たちの中に、陰の者たちがあると聞いた事があった。


 青年を見て、その肉体とその在り方に、そんな幻視をする。

 彼のその佇まいは、書物や学問により至った陰陽師のものではない。軍人として体を鍛えただけのものではない。寺院で経により悟りに至ったものではない。

 確証は何もなくても、確信めいたものがある。

 

「待っていたよ。私に話があるんだろう」

「えぇ2つばかり。まずは、あの鬼について。知っていることを教えてもらえますか」


 青年が口を開く。

 庭先に立ったまま、屋敷にあがろうという素振りすら見せない。


 鬼。

 陰陽師の男自身も、その身に降りかかるまでその存在は半信半疑であった。

 彼らの歴史は、この地に至るまでの間、文字通り世界中を渡ってきた。その最中に様々な人々と交わってきた。時には、人とは呼べない魔性の者達とも。

 その末裔の彼らには、時々その血を濃くした子どもたちが生まれる。

 異形の角を持ち、屈強な肉体と聡明な知識と秀麗な容姿を持ち、人を人とも思わぬ残虐な嗜好の怪物。

 大抵は育つ前に命を絶たれてしまうのだけれども、生き残ってしまった者が、こうして存在する。


「君はラマ、という動物を知っているか?」


 何から語ったものかと思案して、男がそう口を開く。

 青年は訝しげに首を横に振る。


「私も文献でしか知らないのだがね、馬とロバとを掛け合わせて生まれた生き物の事だ。当然、馬とロバは別の生き物だから交わることはない。人工的に交配させた新しい生き物だ。そのラマは丈夫で便利な家畜なのだが、残念な事に子供をなせ無い。少なくともまだその手法は見つかっていない」


 まるで陰陽寮で若い学者に行う講義めいてきたが、青年は静かに耳を傾けている。

 鬼とは何か。その答えを募らせながらも、急かす事はない。全てを吟味するように、静かに言葉を待っている。


「まだ、というのはありとあらゆる手法を試している最中だ。という事だ。人の探究心は底知れない。我々に便利というだけで、自然には存在しない生き物を生み出し続けているのだからね。……かつて、人でも同じ様な事をしたんだよ」


 男は言葉を選びながら、歴史を語る。

 青年は感情を表に出すこと無く静かに聞き入る。


「今、陰陽師と名乗る一族のほとんどが、大陸から渡ってきた渡来人の末裔だ。一族の歴史は古い。数千年という時間の中で、あの大陸の東西を巡り続けてきた。その時間の数々の出会いの中で、ある異形の一族との遭遇があった。美しく屈強で、様々な知識を持った一族。古い文献に少し残るくらいの遠い遠い過去の話だがね。その人知を超えた彼らの力を取り込もうと、契を結んだそうだ。

 しかし、言葉を交わし意思を交わらせる事が叶っても、子供は生まれなかったそうだよ。彼らと我々とは根底から異なる生き物だったという事だよ」


 先人たちから語り継がれてきた昔話と、引っ張り出してきた文献の数々を読み返した知識を総動員して、言葉を続ける。

 

「しかし命は不思議なものだ。それでも一人だけ、女の子が生まれたそうだ。本来ならラマの様に子を成す事は出来ないはずなのに、その女は次々に一族の子供を生んだそうだ。そうして異形の血を取り込んだ一族が、我々だ。今では異形の血は薄く表に出ることはほとんど無いが、本当に極稀に、その血を発現する子供が生まれる。

 鬼、という言葉には余りにも多様な意味がある。しかし少なくとも、あの白装束を纏った娘は、こうして生まれた鬼だよ」


 静かに、聞き入っていた青年が話を聞き終えた。

 何も言葉を発すること無く長い沈黙が訪れる。

 そして、やっとの事で「そうでしたか」と。それだけ言葉を紡いだ。

 

「……君の問いの答えになったかね?」

「いえ、どうでしょう。さらに謎が深まったような気もしますね」


 青年の目にもう真剣な鋭い様子はない。誤魔化してみせるように、若者らしい年相応の苦笑を浮かべていた。

 それから、気持ちを切り替えた様子で、事実を確認するように淡々と問いを続ける。


「しかしそれでは彼女が都で人を殺して回っている理由にはならない。明らかに、誰かの意思に従っている様子でしたが」


 青年の目が、理知的な目に戻っている。私事が終わり、課せられた使命を全うするかのように。


 陰陽師の男は、言葉に詰まっていた。

 それでも心を一つ冷たくして、感情を切り離す。娘への思慕を切り離す。


「強大な力を、持て余しているのだよ」


 自身が見捨てた筈の子供を、道具にされている。

 捨てた負い目を棚に上げて、言葉を続ける。


「あの三日月を模した刀を見て、君はどう思った? 私は今思い返しても末恐ろしく寒気がするよ。実を言うと、太刀、と呼ばれるあの武器は少し前から陰陽師の界隈では話題になっていた。新しい呪具としてね。ここにもその一刀があるのだが、その切れ味は恐ろしく思うよ」


 傍らに置いていた太刀を男が握る。抜き放たれた鞘が床に落ちて乾いた音を立てる。

 月光に輝く、鋼の太刀が露わになる。白く、曇り無く澄み切った刀身は、降り積もり地平のどこまでも続くような淡雪を想起させる。

 男がその刃を掌の甲に乗せた。触れただけで肌は裂けた。赤い血が浮き上がり、その淡い白の刀身を伝う。


「触れただけでこの切れ味だ。それでも私では骨を断ち切る事は出来ないだろう。ましてや胴を薙ぐなんて芸当は出来ないだろう。膂力も技術も足りない訳だ。しかしあの鬼は違う。刀を振るうだけで、人の首も胴も跳ね飛ばしてしまう」


 陰陽師の男が、刀身を懐紙で拭う。


「素晴らしいものが出来た時。人間はその出来栄えを試さずには居られない。この呪具はその斬れ味に倣って、縁を斬る呪具として重宝される。何でも斬るという概念が、目に見えないものすら斬るという概念を成立させるからだ。だがあの鬼をけしかける者は、刀をただの呪具にするつもりはないらしい。

 ……なぁ、あの鬼が刀を振るい続け人を切り続けたら、どう思う?」

「……それは、恐ろしいですけれど」

「そのとおりだ。奴らは、この刀に恐怖という概念を植え付けようとしている。鬼と言えば刀を思わせ、刀を見れば鬼を思わせる存在にしようとしている。そうして刀をただの呪具ではなく、人が畏れ敬う神器へと昇華させようとしている」


 遠い異国では、草を刈る鎌が、命を刈る姿を想起させ、死神が携える神器となった。

 この地でも、刀を鬼という悪が持つ恐ろしい武器に仕立て上げようとしている。

 刀を持つ者に畏れを覚えさせ、人を束ねる道具とする為に。


「仮にそうだとして、何故彼女に振るわせる必要があったのですが」

「それが強大な力を持て余していた、ということだよ」


 陰陽師の男が続ける。


「鬼、という怪物を飼い続けるのは難しい。いつ寝首をかきにくるか分からない狂犬だ。言葉は悪いが、持て余していた道具にようやく使い道を見つけたというだけの話さ」


 この刀が広まれば、人は刀を振るう術を磨くことだろう。

 彼女はそれまでの繋ぎということ。


「それではあまりに哀れだ」

「……そう、だね」

「それに貴方の話は難しい。何故、凄い斬れ味が、見えぬものすら斬りうるというんだ」

「君は神仏に祈る時、手を合わせないか?」


 悲痛な青年の問いに、無感情に男が答える。


「手を合わせるという作法は古今東西で見られる作法だ。それは様々な作法が洗練されていった結果だが、その根底の一つには縄を糾える動作がある。掌で2つの物を1つにする動作だ。より神仏と一つになりたいという思いから糾え手を合わせるという作法が残った訳だ。

 それに結ぶという言葉がある。契を結ぶ、縁を結ぶ、誓いを結ぶ。通常一つにならないものを一つとする時、我々を結ぶという行為を行う。事実、呪法の世界では結び目には力があると考えられるし、神を祀る社も糾えた縄を柱に結ぶ。これが呪術の世界の概念だ」


 禅問答じみてきた答えでも、受け入れがたい内容でも、青年は飲み込むしか無い。

 相手はその世界で生きる人間。その理に異を唱えても受け入れられはしない。


「付け加えれば、そうして結び続けてきた縁には、悪縁となってしまったものもある。そういうものを切る為に、この呪具は期待されていた訳だが、なんとも皮肉な話だな」


 自嘲めいた笑いを浮かべながら、陰陽師の男が言う。

 青年も、苦虫を噛み潰したようでありながらも、笑みを作る。

 受け入れがたくとも、あの鬼も、そんな思想で出来た集団の、犠牲者だという事だった。


 沈黙が訪れる。

 青年が何も言葉を紡がないのを待ってから、徐ろに陰陽師の男が言葉を吐く。


「それでは、次は私の番だ。蓮花に君を寄越させた理由を話したい」


 命の恩人の疑問を最初に受け付け、そして当初の、彼との繋がりを求めた理由を話す。


「この刀を君に譲ろう。そして、あの鬼を殺しては、くれないか」


 そう言葉を紡ぐ男に、理路整然と理を話す陰陽師の姿はなく、命からがらに救われた貴族の男の姿もない。目を細め、どこかを見詰めるようにしながら諦観だけを湛える、一人の男の姿がある。


「蓮花が縁を繋ぐ者は、鬼と互角に渡り合ったものだと思っていたよ。それに、こうして命を救われた訳だ。君の腕を疑う余地はない」


 男が青年に太刀を譲ろうと差し出してくる。それをどうしたものかと躊躇っている青年に男が続ける。


「話が前後するがね。この呪具を鬼が持つ恐怖の象徴にするのは惜しいと思っている。糸を引く憎い奴らに一泡吹かせたいという思いもあるが、この刀で悪鬼を屠り、真っ当な神器にしてはくれないか。刀の始まりが、都を脅かす鬼を屠ったものとなれば、畏怖はされど、忌み嫌われるものにはならないだろう。

 あの娘を悪神にするのを止めてくれないか」


 青年が、男から太刀を受け取った。

 あの鬼とはもう一度戦わなくてはならない。そんな覚悟があったから、男に言われずとも彼女と仕合う心づもりであった。

 刀を受け取ったのは強力な獲物が必要だっただけではない。鬼を、あの娘、とよんだ男の偽りのない想いに報いたいと思ってしまったからだ。


 太刀紐を腰に巻き、漆拵えの鞘に収まった太刀を、腰に吊るす。

 青年の身なりは貴族のものではない。裕福な町人が纏うような、上等な装束ではない。

 みすぼらしい、そんな見方すら出来る出で立ちであったが、太刀を吊るしたその姿は、あまりにも彼に似合っていた。


 複雑な思いがある。これから対峙する鬼にも、こうして刀を託した男の想いにも。余計な物を背負ってしまった、そんな思いがあるが決して刀を振るう手が鈍ることはない。斬った後で、後悔が少し強く募るだけだ。


「元々、あの鬼とは決着を付けなくてはいけませんでした。しかしこうして貴方の願いを聞き遂げた以上、報酬を頂きたい」

「当然だ。何でも言ってくれ、命を救ってくれた恩もまだ返しきれていない」

「では。水原ヒカルという男を、貴方の力で救ってはくれませんか」

「水原ヒカル……?」


 思いがけない青年の願いに、一瞬だけ男が困惑を見せる。

 かつては上級貴族に名を連ねた、没落貴族の男。大江家の御曹司殺人事件の黒幕として捕らえられた男。


「何故彼を? 君とはどういう関係かね」


 男の純粋な問いに、ほんの刹那だけ、青年が昔を懐かしむ。

 幼い頃、武山で辛苦を共にした友人の事を。


「彼は冤罪でしてね。それに、坂上がのさばるより、彼が力を付けてくれた方が都合がいいんです」


 青年の返答に、陰陽師の男は少しだけ難しい顔をする。


「なるほど、坂上という男を糾弾し、彼を助ける必要があるということだね。なかなか難しいが何とかやってみせよう」

「助かります」


 そんな約束を結んだ後、一迅風が吹いた。

 思わず目を閉じて、男が再び目を開いた時。青年の姿はもうそこには無かった。

 あるのはただ、ほんの少しだけ欠けた宵待月の昇る空と、波紋に揺れ満月の様に装う水面に浮かぶ月だけ。


 男は水面が静まるのを待ち、水面が宵待月を映すようになっても、ただ月を眺めていた。

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