第30話 水原ヒカル(2)

 絶望の淵にあって、向けられる誰かの優しさに心を救われる。

 ただの自分の痩せ我慢なんかではなく、天が助けてくれているとすら思う。

 水分の無駄であるというのに、一筋涙が伝う。

 しかしそれを頭を振って払う。

 まだ助かった訳では無い。

 蜘蛛の糸が垂れ下がろうとしていても、それを掴み、登りきるのは自身の運と意思と力なのだから。

 まだ死の淵で足を踏み出そうとしている状況に変わりはなかった。


 彼が立ち去って、連れてきたのは一人の女。

 彼女は桶と清潔な布を持って、やってくる。

 ぎぃと、木の鳴る音がする。檻の扉が開けられる。


「動かないでください、今、手当をしますから」


 聞き覚えのある女の声だった。

 堅く縛られた縄と手の間に、冷たい水が掛けられて痛みが走る。それから、破れた傷口に清潔な布があてがわれる。

 傷の手当を終えた後、汚れた水原の体を拭う女。

 地に転がされた状態から座った状態に体勢を変えてもらって、ようやくその女の素顔を見た。


 いつかの、6人目の事件の時の、被害者と共にいた女。

 こんな所に彼女は居た。


「俺を覚えているか?」


 彼女に告げる。6人目の殺人事件の時、命を拾った彼女に簡単な尋問を行った。

 暗がりであったし、取り乱した様子でもあったから。そんな言葉が口を付いて出ていた。

 水原の汚れを拭う彼女の手が止まる。

 じっとその面相を見る。


「貴方はあの時の……。どうしてこんな所に」

「少し、面倒な事件に巻き込まれてな。そういう君こそ、何故こんな所に」

「それは……」


 答えに窮し、目を伏せる女。躊躇いがちに、言葉を選ぶように、訥々と言葉を紡ぎ始める。


「行く所が無くて、ここに置いてもらって居るんです」


 彼女も、誰かに話してしまいたくて、多少なりとも事情を知る人間には話やすかったのだろう。

 水原が聞きたがっている身の上を、6人目の被害者の貴族との関係をそうして話し始める。


「……あの方には、とても良くしてもらっていたんです。夫の借金で生活が苦しくて、あの方が助けてくれなければ夜鷹にでもなるしかなかったんです。でも夫が借金を返す算段が付いたと言って……。言うことを聞けば離縁してやると言うのです。あの方は身分のある方だから、私は遊び女にしかなれないのは分かっていましたが、それでも……。でも、あんな事になるなんて……」


 夫が言う算段とは、彼女の不倫相手であるあの男を、あの殺害現場におびき寄せるという事だった。


「それを信じたと」

「……えぇ。最初はあの方を害するのではと私も思ったのですが、借金が返せて更に財産が手に入ると夫は上機嫌で。それにこんな物を手付だと言って渡したんです」


 彼女がそっと懐から何かを取り出す。布で折りたたまれたそれを紐解くと、螺鈿細工の意趣が見事な簪があった。

 疎い水原にも分かる、見事な逸品。上級貴族の令嬢でもなければお目にかかれないような特別な品。


 確かにこれであればと、水原が思う。

 色んなことに合点がいき、一筋の流れが出来上がる。

 彼女とその夫は上手く利用されたのだ。菖蒲は鬼の力を高める為に儀式を行っていると言ったが、大江家を襲っている辺り、この鬼の一連の事件を通じて自分に邪魔な政敵を屠っている黒幕が居る。

 この簪がいい証拠だ。このような逸品をちらつかせ人を動かしている黒幕がいる。

 この出所を辿れば、その黒幕にたどり着くことが適う。


 彼女がこの検非違使の宿舎に身を寄せたのは英断だった。

 疑う余地はなくその夫は消されている。この都で、身元のわからない死体が一つ増えたところで誰も気に留めることはない。

 しかし事情を知る彼女はどうだ。

 少なくとも、この物的証拠だけはどうにかしたいはずだ。これは唯の見せ札で、遺失することは考えていない筈だ。これだけで家が建つ様な代物。夫を殺した人間が、夫がそれを持っていない事で焦っていることは容易に窺える。

 検非違使のこの宿舎に身を寄せながら彼女がまだ殺されていないのだから、検非違使に強いつながりを持つ者ではない。それだけでも十分に絞り込めるがまだ足りない。

 この簪の出所を洗うか、彼女とこの簪を付け狙う輩をふん縛って吐かせる必要がある。それだけで上級貴族を糾弾する事は叶わないが、牙は届く。


 地獄の底で、盤面をひっくり返す光明を見た思いだ。

 粗だらけで、確証も何も無いが、それでも確かな一筋の光。


「なぁあんた。俺を助けてくれないか」

「……え?」

「あんたと夫を騙し、あの貴族の男を殺した黒幕がいる。俺を犯罪者に仕立て上げたのもその黒幕だ。俺を助けてくれたら必ずあんたの仇を取ってやる」


 その瞳の奥にあった小さくても確かな炎が、強さとして爛々とそこにある。

 強い意思は、人の心にも炎を灯す。間近に居たものであれば尚更。

 考え込む彼女の表情にも、強い想いが宿る。


 しかしそれは大きな賭け。

 往く宛もなく、先の展望もないとはいえ、囚人の言葉に拐かされるという事なのだから。

 

「……ひとつ、お聞きしたいことがあります」

「何だ」

「私の安全は保証してもらえるんですよね」

「勿論だ」


 男の目には曇りが見えない。

 罪人として捕らえられ、自分と同じく頼る場所もないだろうというのに。


 気がつけばこくりと頷いていて。男を縛っていた縄を刃物で解いてやる。


「ありがとう」


 そう感謝だけを口にして、男はすくっと立ち上がる。

 もうそこに、囚人として捕らえられている時に見た絶望に耽った姿はない。強い意思で行動する強さと、それ故の危うさが見られた。



 井戸水で汗と汚れとを祓い、連れてこられた時に纏っていた狩衣に袖を通す。

 そうして一人の貴公子が出来上がる。

 迷いを振り払った彼は検非違使の建物を出ようとし、一度だけ振り返る。


 視線の先には、彼を救った奴隷の男の姿があった。

 男は彼の出で立ちを見届けた後、くるりと背中を見せた。

 何も見ていないという事。

 検非違使の建物に見を寄せていた女と、囚人の男が姿を消せば、女が脱獄の手引をしたと誰もが思う。

 その時、責を問われるのは彼だった。

 どんな酷い仕打ちが待ち受けているのか、水原には想像もつかない。それでも、彼は見ないふりをするという。


 また一つ、覚悟を重くする。


 自分だけの命ではないことを、もう一度強く確認し彼は検非違使の建物を後にした。

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