第28話 赤い鬼

 十三夜の月の夜。

 満月にほど近いあの月を、酒を嗜みながら眺める男の姿がある。

 嘆きを覚える様なことはなく、想いを馳せるようなこともない。ただ、自身の栄達にあの月を重ねる。

 その男とは、水原の上役の男である。

 彼は屋敷に造らせた小さな池と、そこに突き出すように無理矢理に増築した釣殿に座り、ぐびりぐびりと呷るように酒を飲み干し満足げにゲップを吐いてみせる。


 検非違使の世界で上に昇ろうとしたならば、大捕物をするか、上役に取り入るかしか術はない。しかし大捕物なんてものは人生にそう何度と起こらない。であれば、上役に取り入るしか事実上、術はない。

 だが取り入る、というのは非常に難しい。

 愛嬌や生来の性格で気に入られる、という者はいる。細々した自分の成果を捧げるような者もいる。しかし決まってそういう者から切り捨てられていく。己を守る事を忘れたからだ。

 どれほど気に入られたと思っても、上役にとって自分たちは駒でしかない。

 故に長い時を、息を潜めるように生きてきた。

 人に好かれない性格であることは分かっていたから嫌われないようにだけ心を砕き、上役と上役の微妙な関係の最中を泳ぎ、風見鶏と蔑まれても生き残ることだけに心血を注いだ。

 当然上役に成果を奪われるから、部下から搾取をし業績を残す。


 反発する者も大勢いた。だが、彼らにも飴を与えればすぐに従順な狼になり、やがてその牙を失う。

 飴とは、小役人の利点だ。

 町民の、特に身分が低い者たちの扱いについては彼らに全て委ねる。すると、あれだけ正義がどうのと謳っていた者すら、その支配者の権利に酔う。


 数多の犯罪が、この街では起こっている。誰もその数の全てを数えたりはしない。

 些事を大事に塗り替えてしまっても、誰も気に留めることはない。

 それが、下層のものであれば尚更。

 

 目の前で縋り頭を擦り付けるように懇願する人間の、命を自分が握っている。

 これは正に全能の感覚だ。財産を奪ってもいいし、娘を慰みものにしてやってもいい、気まぐれに助けてやらなくてもいい。

 相手の生死の全てを自分が握っている。

 正義を標榜するものも、周りがこの甘美を啜っている姿を眺め続ける我慢は続けられない。次第に一つ摘んでみせ、そして欲に溺れていく。


 俺の下で、俺の差配に従っていれば、その果実が許される。

 そうして支配者の権利に彼らは酔い、俺に歯向かうような牙はなくす。俺達が彼らに向ける視線を、上に居る者が俺達に向けることに気付くこともなく。


 彼らの上前をはね、そうしてここまで昇ってきた。

 上役に気に入られることはなく、下の者からも心の奥底では蔑まれながらも、誰からの身代わりに仕立てられる様なヘマだけはさけ、ここまで昇ってきた。


 そして今、ついに出世の扉が開けた。


 坂上という男の計らいで、事は本当に上手くいった。

 鬼を捕らえるという栄誉は陰陽師の連中に譲る事になったが、大きな貸しを作ったと思えばいい。この騒動を納めた功で出世を約束されている。一向に牙を抜くことはなく、あの正義感ぶった目を向けてくる忌まわしい水原を処分出来るのもいい。

 指示された通りに検非違使を動かし、指示された通りに子飼いのならず者達をあの場所に動かしただけで、これだけの益を手に入れた。

 濡れ手に粟とは正にこの事だった。


 ぐびりぐびりと、彼は勝利の美酒を呷る。

 何よりも、坂上という男の弱みを握った事が、今回最大の益であった。


 出世をだしに俺を利用したつもりだろうが、それだけでは終わらない。あの頭のきれる男は本物だ。小細工を弄することなく上に登っていける、そういう器だ。

 そういう人間の後ろ暗い過去は、あの男が昇れば昇る程に値が釣り上がる。

 あの男もそれが分かっているから、俺を捨てることは出来ない。

 適度に脅すだけで金が入ってくる。


 かつて憧れた高みに昇ることは、もう叶わない。であれば、こんな甘い汁を吸う人生も悪くはない。


 それにいざとなれば、この裏話を奴の政敵に売りつけてやればいい。

 どう転んでも損はない。


 ごくり、ごくりと浴びるように酒を呑む。全てを飲み干し、酔いに耽る。

 小水にでもと立ち上がった時、ぐらりと男の体は揺れて、盃が庭へと転がった。

 その視線の先に、誰かがいた。


「な、何者だ」

「なぁ。撲殺された死体って見たことあるか?」


 その黒い影は、男の問いに答えることはなく、滔々と自分の言葉を述べる。


「骨は折れ、体中痣だらけで、顔なんて見る陰も無くてな。特に頭を後ろから殴られると、目玉って飛び出すんだぜ」


 黒い影は、その手に棍棒を抱いている。

 名もなき流民の若者が獲物にした棍棒に、鉄の鋲をいくつも誂えた拷問具の様な棍棒を手にしている。


「でももっと悲惨なのは体の内側でさ、腸や蔵は本来色とりどりに鮮やかなんだが、真っ黒に染まるんだ。血に塗れ、血に溢れさせ、真っ黒に染まるんだ。まるで怨嗟そのもののようにな」


 陰が、その棍棒を振り上げる。


「よくも仲間をやってくれたな」

 

 棍棒が、男の後頭部を襲う。力加減が分かっているその仕事は、男を昏倒させるに留まる。意識を残し、行動の余地だけを削ぐ。

 声を上げることも適わず、鋲の付いた棍棒が肉体を破壊する音だけが響く。

 人は簡単に殺すことが出来る。殺意と覚悟さえあれば。

 首の根を締めるだけでも、刃物で肉という肉を斬るだけでも、棍棒で力任せにふるい続けるだけでも。

 けれど、殺さずに痛みだけを与えるのは難しい。

 少なくとも知識が必要となるからだ。人間の肉体の構造と精神の強度を識っている必要がある。そして明確な、殺意を上回る強靭な意思が。


 その黒い影の仕事は、匠の仕事であった。

 鋲の付いた棍棒だけを駆使し、男は両の眼を喪った。顎は砕かれもう二度と物を噛むことは叶わない。掌と指は潰されもう物を掴むことも適わず、膝から下はあらぬ方向に骨が折れ、例え骨が繋がったとしてももう歩くことは出来ない。

 股間は潰され、肛門も削がれ、満足に用を足す事も叶わない。

 そんな惨時でも、死ぬことは無い。

 舌を噛む顎もないから、命を断つことも叶わない。



 しかし耳だけは。かろうじて、聴覚だけは残っている。

 その耳に、黒い影が近づいて耳打ちをする。


「仲間への礼の他に、たくさんの物を預かってきた。相当あくどい事をしてきたんだな、どうか苦しめてくれと大勢から言われたよ」


 そうして黒い影は離れる。男は何か言おうとしたが、砕けた顎は言葉を発せず、何かくぐもった音だけが響く。

 およそ考えうる最悪の人生だけを残される。

 辛うじて耳だけは残っている。

 しかしその耳はこれからどれだけの怨嗟を聞くのだろうか。

 おそらく、彼が耳を塞いだ数だけ聞くのだろう。助けを乞われても吐き出し続けた無慈悲な言葉の数々を。

 地獄と、表現するのが最も適切な、そんな人生だけがそうして残された。


 復讐を遂げて、月明かりの下に彼は立った。

 手は赤く血塗れに、体も返り血で真っ赤に染まっている。その赤は次第に酸化し真黒に変わり、彼を染め上げるのだろう。

 手には鋲の付いた棍棒を握り、返り血で真っ赤に染まった彼が、そうして十三夜の月を仰ぐ。

 何を、思うのだろうか。

 しかし、思案をする暇もなく、邸内に悲鳴が轟いた。


 凄惨な音が響けば何事かと皆目を覚ますことだろう。そしてその音がやんだならば、何があったのかと確かめにも来るだろう。


 そうして、女中が悲鳴を上げた。

 主人の変わり果てた姿にも、何よりも、庭に佇む赤い肌に金棒を担ぐ異形の怪物に。


 その悲鳴で、怪物は屋敷から姿を消した。邸内に住まうものが何事かと悲鳴の下に集まり、変わり果てた主人の姿に絶句する。

 そして説明を求める面々に、彼女は自分が見たものを話した。


 都を賑わす、異形の鬼について。

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