第11話 一時
門前でそんな出来事があり、タロウを従えて屋敷に戻った時、菖蒲と式神達はもう掃除を終えていた。
彼女の周りを、式神達が紙風船を追い駆けながらはしゃぎ回っている。
「その人は?」
「あぁ。仕えてもらう事にした」
「……そう」
別段、彼女に許可を得る必要などないのだが、少し緊張した様子で水原が答える。そして、さらに緊張した様子でタロウが口を開く。
「タ、タロウと申します。この度は水原様にお仕えすることになりました。宜しくお願いします! 奥方様!」
緊張から張り上げられた大声がそう轟いた。
背後で、笑いをかみ殺すシキの笑い声が漏れ聞こえ、水原の困惑した様子と菖蒲の憮然とも言える様子にタロウがきょろきょろと辺りを窺う。
「あー、彼女は単に仲間だ。賞金稼ぎの」
どう説明したものかと、水原が答えると、タロウは自分が盛大な勘違いをしていたことに気が付いて顔を真っ赤にした。
しかし無理からぬ事だった。
水原という貴族の男の後を付け、彼に仕える事になりその屋敷に入っていった。その屋敷内に佇む女性が居ればそう勘違いしても仕方ない。
意に介した表情も無く、菖蒲がタロウに近づいていく。
庭先に降りるような事は無い。近づいただけで、邸内から庭先で膝まづくタロウに言葉をかける。
「顔をあげなさい、タロウとやら」
貴族らしく、毅然とした振る舞いで、下の者へと告げる。
「水原家の従者となったのであれば、貴方の振る舞いや居住まいはそのまま主人の格を表します。常識や所作に自信が無くても、心模様だけは凛として在りなさい」
いつの間にか、タロウの傍に着替えの衣を携えた式神が控えている。
「まずは体を清め、着替えですね。畏れ多いと思う必要はありませんよ、従者の纏う衣服もまた、主人の格を示すものですから」
菖蒲のその言葉に、タロウが歓喜にむせび泣くように涙した。
衣料が貴重なこの時代。階級や階層の境界は身に纏う衣服で決まる。
もちろん、血筋、家柄、言葉遣い、教養。見目ではないものも重要だが、身に纏う衣服がそれらを持つ者であるか、持たない者であるかを如実に区別する。
農村に住み、情報から隔絶された者達は、紅い染料で染められた衣服の存在すら知る事は無い。
都にやってきて彼等は初めてそれを知る。
思い知るその絶望は、彼等にしか分からない。
タロウを井戸へと案内し、当分の間シキも水原邸を塒にすることになったため希望された使用人の部屋を案内し、そうして一折の事を終え水原が部屋に戻ると菖蒲は静かにたたずんでいた。
香を焚いた様で芳しい香りが漂う中、彼女は一人屋敷内に居る。召喚していた式神も今は唯の札に戻っていた。
水原に気付いた様子は無く、庭の育つがままに任せていた草花に目を向けている。
「色々とありがとうな」
その横顔に感謝を告げるて、彼女も気が付いた様子で菖蒲の目が振り返る。
物憂げな瞳にすっと光が戻る。
「色々って?」
「いや、屋敷の掃除とかタロウへの気遣いとか」
「……あぁ、うんそっか」
タロウの前での既存とした女主人めいた雰囲気はもう無い。いつもの捉えどころのない、少し幼さの残る菖蒲の様子に戻っている。
「冷静になったら、皆死ぬかもしれない所だったんだなって気づいちゃってさ。私が持ち掛けた話だったし。何とか平静を保たなきゃって思ったらあんな感じになってた。まぁ迷惑じゃなかったら良かったよ」
彼女もまた、あの夜を過ごした仲間だった。
何も出来なかったという無力感も、それでも進まなくてはいけない寂寥感も、まだ抱えている。
自分たちの目的の為に、またあの場所へ行かなければならない。
でも今は少しだけ。もう一度歩き出す勇気を振り絞る為にも、日常に戻りたかった。
女友達に、何でもない雑談を向ける。
「香の香り、いい匂いだな。お前の私物?」
「いいえ、貴方の物よ。掃除してきたら出てきたの。勝手に使わせてもらっているけれど構わないでしょ? 香りも一種の結界だから。安心するのよね」
「構わないが、……一種の結界?」
「あー……なんていうかね。外壁は、外と内とを分ける境でしょ? これが結界。自分と他とを分ける事を言うの。 自分の場所じゃない場所には入りづらいでしょ? 例えば高い塀をわざわざ設けるのは、悪意を持った者が入ってこないようにするための結界。こうして庭先と屋敷内に高さを設けているのも、上と下とを区分するための結界。そして香りも、香る場所と香らない場所を作る結界。いい匂いと思ってこの場所に来た時、見知った場所の筈なのに少し違う場所の様にも感じたでしょ? そんな違いが、人や害意を寄せ付けないって考える訳。単に良い匂いってのもあるけどね」
「なるほど、面白い考え方だな。だがその理屈で言うと、ここは俺の家なのに、俺は排斥されている訳か?」
「あはは、違う違う。どちらかというと、私という異物を馴染ませるためよ。それにこれ伽羅でしょ? しかもとっても上質の。貴方のお母様は本当に洒落た方だったのね。使わず死蔵させるのは勿体ないわ」
菖蒲の香と結界の談義を聞き終えて、懐かしいと感じてしまった香の香りがふと昔の記憶が思い出させる。
先々代の頃に没落し、口減らしも兼て武山に送られた後、結局兄達が皆無くなって自分がこの家に呼び戻された。
血を分けた父や母たちだが、とても家族とは呼べない関係だった。
子供としてではなく、家を存続させる者として、貴族教育を厳しく付けられた。家は酷く貧しく、貴族という身分の華やかな生活は終ぞなかった。
そんな毎日の中で、父も帰ってこず、使用人たちにも暇を出し、母と2人きりになった夜があった。
元服を間近にした、子供時代の最期。もしも母に甘えられるとしたら、その日が最後だった。
寝所に居ない母は、あの夜ここでこうして一人佇んでいた。
傍らで香を焚きながらどこか遠くを儚げに見つめて、静かにその横顔に涙が伝っていた。
母が何を思っていたのかは分からない。若くして逝った兄達を思っていたのか、家に帰らない父を思っていたのか。それとも別の事を思っていたのか。
ほどなくして母は病で死んでしまったから、確かめる術もない。
それでも、あの晩、母がこの香を焚いて涙を流していたのを覚えている。
あの晩、たしかにこんな香りが漂っていた。
「そう、だな。あぁ、確かに母のものだ」
水原が答えた時、返ってくる言葉は無かった。
隣を見ると、少女が静かに寝息を立ててるた。
陽はまだ昇り続け、一日が始まったばかり。けれど、昨夜から一睡もしていない菖蒲達には、この疲労感と芳しい落ち着く香は睡魔を呼ぶ。
まだ幼さの残る横顔に、一房髪が顔にかかって寝苦しそうにしている。
それをそっと払ってやる。
白装束の鬼を追い駆けるにあたって、この少女からはまだ聞きださねばならない情報は沢山あった。
それでも今だけはそっと。
この家では終に味わう事の出来なかった一時を、水原は噛み締めていた。
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