第29話 水原ヒカル(1)
水原ヒカルという男が大江の捨助という男を殺害した。
そんな噂でもちきりだった都が、再び鬼の噂で一杯になる。
ある検非違使が鬼の標的となり、殺されるより惨たらしい姿になったという。彼の家からは、一介の検非違使が出来る蓄財以上の財産があったとか、あの男に冤罪で夫や子供が捕らえられたという訴えが後を絶たないとか、人買いと繋がっていて娘を攫っては売り飛ばす卑劣漢であったとか、そんな噂も飛び交う。
検非違使の詰め所では、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
体面をとにかく気にする組織に突如として訪れた衝撃的な事件と、露わになる醜聞の数々。
ある者はここぞとばかりに糾弾し、ある者はあの男とは関係がないと声高に叫ぶ。
囚人に構っている余裕なんてものはない。
しかし、囚われる水原にそれを知る術はない。
手も足も拘束され、猿ぐつわで喋ることも叶わない。
夜露に濡れ寒さに凍える夜を過ごし、水を吸い肌に張り付く衣服は不快で、顔に付いた泥を拭うことも出来ない。
何も進展がなければ、このまま死だけを待つことになる。
そんな恐怖がずっとそばにある。
また夜が明ける。世界が白み、水底に沈んだような静寂が包み深い青があたりを漂う。
十三夜の月の夜が終わり、さらに一日が過ぎていた。これでもう何日この牢獄にいるのだろうか。
何も食しておらず、何も飲んでいない。
思考が、どうしても滅入ったものへと進んでしまうから。何も考えないようにもするのだけれど、次の瞬間にでも檻から連れ出され処刑されてしまうかもしれない命だから、絶望と恐怖と諦観がずっと傍にある。
瞳が、虚ろな濁りを湛える。
生を諦め、死を受け入れる。命を諦めた人間が湛える濁りがその瞳に現れ始める。
考える、時間だけは山程あった。
しかし妙案も名案も結局は浮かんでは来なかった。あるのは己の無力を憂う嘆きだけ。
自分には、坂上のような狡猾さは無い。イブキの様に人を魅了する才覚も無い。シキの様にしなやかな思考と武の才もない。菖蒲のような覚悟と知恵も無い。タロウの様なひたむきな思いもない。
沈む思いは、何もなさを浮き彫りにした。
あるのは、思い上がった自尊心だけと叩きつける。
武山で幼い時分を過ごしたことで、人よりは武の能力があると思い上がっていた。徴税官として坂上と共に地方を回り、時には戦まがいの事をして活躍もした。上司に嫌われ同僚から疎まれようと検非違使の職で幾らか功は為した。
しかしその全ては幻想であったのだ。全て、誰かの掌の上で、誰かの力で為していた事。
自分に力があると過信して臨んだこの鬼を捕らえるという戦いで、ただただ醜態を晒し、自分には何も無いことだけをこうして証明している。
いつの日か、いや、ここにこうして繋がれる直前に、菖蒲と交わした言葉を思い出す。
家の再興が自分の目的だと彼女に言った。それを、他人の言葉を借りてきたみたいと突かれて、逆上し言い合いになっていた。
図星だったからだ。
それこそが自分の生きる理由であると、声高に言い続けてきた。友に、他人に、何より自分自身に。
そうしてすっかり騙されていた。
それが正に借物の言葉であったことを。
考える時間だけは大いにあったお陰で思い出してしまった。
「亡き父や兄たちの代わりに、お前が家を再興するのですよ」
そんな言葉を説かれ続けて、それが自分の望みであると思いこんでしまっていた。
気がつけば簡単な事。
自分には家族の記憶なんてものはない。ただ厳しく躾けられた事と、儚げな母の後ろ姿だけを覚えている。
本当の、自分の思いや願いなんてものはない。
ただただ空虚な、自分の人生。傀儡人形も同然の、中身のない、空っぽの人生。
そんな人間だから、人に誇れるようなものがないのだ。
幾らもそんなことを反芻して、今はただ渇きと飢えと嘆きと、死の匂いがある。
地を転がる自分の目の前を一匹の虫が行く。そのちっぽけな虫が檻の隙間を縫って広い世界へ行く。
そんな物を眺めて、自分は虫よりも劣るのだと思い知らされる。
彼とは違い、ここで朽ちることを余儀なくされている。
命の火が陰ってゆく。
それをただ、無感動な目で眺めている。
「死にたくねぇな」
それでも、そんな言葉が溢れた。もうとっくに諦めた筈なのに。
猿ぐつわを噛まさせれているから言葉なんて発せない。だから、今際の際だというのに、そんな事を思ったという事。
死にたくない。それでも、死にたくない。
何も無い空っぽの人間だとしても、こんな風に虫けらの様に殺されて言い訳がない。
坂上にどれほど正大な目的があったとしても、それに付き合わされる謂れはない。この命は俺自身のものだ。
手にも足にも強く縄が縛られている。もがき動かし続けたせいで、皮膚はとっくに破れ剥き出しの肉に痛みが走る。
それでも構わずに体は動く。
もう家族もない、自分一人の命であるから、ここで朽ちても構わない。
一瞬そんなことが過ぎっていたが、そんなことは最初から許されてはいなかったのだ。
タロウという青年を死なせたのは自分だった。
付き合った時間は短いとはいえ、仲間の死の原因は自分にある。鬼を討ち取る。そんなことを始めなければ、彼は死なずに済んだ。
もう始めてしまっている。
勝手に自分だけが自分の都合で降りることは許されない。仁義が、信念が、責任がそれを許さない。
菖蒲とシキにしたってそう。彼女たちは彼女たちの都合で自分と行動を共にしていたのだとしても、あの死線を一緒に潜った仲であった。イブキという男とは古い付き合いになる。それでも、十年という時間を空けている。こちらの動向を識っていた節があるとはいえ、あいつの人生に横槍を入れたのは自分自身であった。
今更、自分だけの命とは、死んでも言うことは叶わない。
朝焼けが始まり、朱色が空も街も染める中、検非違使の建物で、肌が裂けるのも厭わず身を捩り悶える水原の姿が在る。
手足を縛られ、芋虫の様に惨めな姿。決して解けることのない縄を引きちぎろうとする様は滑稽にも映る。それでもその瞳に虚ろはなく、小さくても確かな炎がその奥に宿る。
ギリ、ギリと。肉を裂く鈍い音が響く。
早朝で静まり返り、検非違使の幹部職の男の醜聞で、囚人に構っているような余裕はない。
人の居ない建物に、鈍いその音はよく響く。
慕う人間が、その信念故に身を削る鈍い音は、心を掻き立てる。
一人、その音に居た堪れなくなってしまった男が立った。
「水原さん、お体に障ります。やめてください」
そう言って水原の傍にやってきたのは、検非違使に所属する奴隷の男。
彼はここで死体の処理と囚人の管理を任されている。しかしその扱いは低く、私語も意見も許されないそんな立場にいる。
囚人に声をかけるなんて、面白半分に折檻される理由をわざわざ作るようなもの。されど、今日は皆が自分のことに忙しく、出仕すらしてこない。
水原を助けることが適う、絶好の機会であった。
「あぁ、こんなに痛ましい。今、猿ぐつわを外しますが絶対に喋らないでくださいよ」
檻の格子の間に手を差し込み、水原の口枷が外される。
「な、なぜ」
「しーっ、喋らないでください。お願いですから喋らないでください」
周囲に誰も居ないことは幾度も確認していた。それでも彼は何度も周囲を見渡す。
息を潜めれば、耳が痛くなるほどの静寂の朝。誰にも見咎められる事がない事を確認し、彼は懐から竹の水筒を取り出し、水原の口に差し入れる。
渇ききった喉に、冷たい水が染み渡っていく。
末期の水には決してならない。たったそれだけの慈悲で、活力が、生気が、湧く。
この肉体は生きたがっている。そんな確かな実感がある。
「すみません、俺の体は穢れているから、貴方の傷口に触れることは出来ない。今、人を呼びますから」
自分が咎められるかもしれない、そんな禁を犯してでも人を救おうとする彼が穢れているはずがない。
それでも、死に触れる者への穢れの信仰は絶対のものであるから。水原が許したとしても、彼がそれを許せない。
「あ、り、が、と、う」
禁を犯してでも救ってくれた彼に、もっと大きな感謝がある。しかしこれが、今の水原の精一杯。
小さく、蚊の鳴くような小さな声で、口の動きだけで、それを告げる。
彼は水原の行動に、そんな必要はないと首を横に振る。
奴隷という人間は、人間として扱われることはない。人が最も嫌う仕事を任されながら、人以下の扱いを受ける。
それが当たり前のこの世界で、人のように扱おうとしてくれたのが水原だった。
そんな恩人の哀願を、聞こえないふりをし続けたのは自分なのだと、首を横に彼は振る。
そして彼はその場を立ち去っていった。
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