第36話

 その鮮やかな笑顔のせいで、イブキの手が止まる。

 無感情に彼女を亡き者にしようと決めていた手が、止まってしまう。


 彼には人を殺めてしまった経験がある。幼い時、武山での修練で、力の抜き加減を誤ってしまって。

 事故、と呼べる範囲の出来事。

 その出来事により周囲から孤立し、自身でその力を呪いもしたけれど、そこに明確な意思は無かった。

 だから、彼は人を殺めた事がない。自らの意思で、明確な殺意を持って行ったことは一度たりとも。

 人を殺すという行為は、心に強烈な負荷を強いる。

 慣れてしまえばただの行為に成り下がるけれど。

 最初の一度は人生観すら変えうる負荷を強いる。

 人を死なせてしまったことに、大きな後悔を抱える者であれば尚更に。


 彼女が意思のない、人形のように意思のない存在であれば良かったのに。

 その笑顔を見てしまった性で、血の通う存在だと分かってしまったせいで、刀を振り下ろすことが出来ない。


 白い生絹の死装束を纏う彼女が満足気に瞳を閉じ、最後の瞬間を待っている。

 しかし、訪れる筈の刃がやってこない事に、ゆっくりと目が開かれる。


 目の前の男は、背が高く細身の彼は、刀を振り上げたままの姿勢で止まっている。振り上げられた刀を握る右腕は、微かに震えている。

 どうやら彼は優しい人、らしい。

 怪物を前にして、都を恐怖に陥れた殺人鬼を前にして、慈悲の心を持ち合わせているらしい。


 折れたとはいえ、手に握る刀には人を殺せるだけの刃が残っている。

 生き延びるのなら、それで彼の首を傷つけるだけでいい。

 こんな幸せな気持ちで死ねるなら。そんな事を思っても、生きたい、という欲がある。 

 そのためには、この優しい人を手に掛けるしか無い。

 

 それなのに、言葉が口をついて出る。


「どうして?」


 か細い、鈴のような女性の声だった。

 それで本当に斬れなくなってしまう。

 イブキがゆっくりと刀を下ろす。


「喋れるんだな……」


 そんな当たり前の言葉が溢れる。

 忘れようとしていたけれど、幾度も手紙を交わしてきた相手が彼女。自分よりも博識な人間が、言葉も解さない怪物な筈がない。

 目の前の女が都を脅かす鬼などではなく、ただ角が生えた普通の女であることを知覚してしまう。


 どうして。という言葉には様々な想いが込められている。

 その声音には、様々な事象への疑問があった。

 けれど、自分でも整理がつかない感情を、言葉には出来そうもない。


「どうして、泣いているの?」


 彼女の右手から、折れた刀が滑り落ちる。

 代わりに彼女の手が彼の頬に当てられ、イブキの瞳から伝う涙を拭う。


 彼女の言葉で、自分が涙していることに気がつく。理由は分からない。

 武器を携えていないとはいえ、これほど容易く懐に入られたのは初めてのことだった。

 背筋が凍るような状況の筈なのに。

 その細い指は、柔らかく、温かい。


 彼を見上げる彼女の瞳がまだ紅く染まっている。

 鬼という異形は、角を持つ他に、興奮に瞳を赤く染めるという特徴を持つ。

 闘いの熱を、まだその瞳に残している。

 

 彼女を見詰める、彼の瞳にも朱が宿っている。

 その朱から、涙が伝い続けている。


 まさか。

 夢想することはあっても、願ったことなんて一度もない。

 けれど、縋るような想いが彼女を駆り立てる。


 彼の頬を拭った右手が、彼の額にかかった髪をかきあげる。

 彼女が付けた刀傷の隣に、髪の生え際に、幾度もえぐり取ったかのような醜い傷が残っている。

 驚愕の表情で、彼女がイブキを見詰める。

 その真摯な瞳に、誤魔化す言葉が紡げなかった。


「……あぁ。俺もなんだ」


 観念したように、共にすら打ち明けることの無かった秘密を小さく零す。


「何度抉り取っても、角は生えてくるんだ。俺も、君と同じ、怪物、なんだ」


 

 物心が付いた時から、武山の山寺だけが自分の世界だった。

 時々やってくる人達の言葉を聞けば、人間には普通、親という家族がいるらしい。

 その温もりを知らないなんて。

 皆はそう、俺のことを憐れんだ。

 知らないものをどう思えばいいかわからない。親が居ないことに何を悔しがればいいのか分からなかったけれど、いつも向けられる同情の瞳は、悔してくてたまらなかった。

 俺が手を付けられない暴れ者だから。親が居ないと皆が言う。

 ここにいるやつは皆家族から捨てられた奴だ、と聞きかじりの言葉を吐けば。お前は怪物から生まれた言葉だから親が居ないんだ。

 そんな言葉が帰ってきた。

 それでも、訓練でそういう奴らを片っ端から倒してしまえば、からかってくる奴は少なくなった。

 親が居ない事を、そうすることで跳ね飛ばす事が出来たと思っていた。


 まだほんのガキの時分に、僧正が真面目な顔で語りだしてきた事があった。

 曰く、俺は鬼という怪物の末裔で、放っておけば角が生えてくるらしい。人の世界で生きるのならば、その角を取らなくてはならない、と。

 何のことはない、怪物だ怪物だ、と囃し立てる皆の言葉が事実だったということだ。

 悔しいとか悲しいという想いは湧かなかったように思う。

 ただ、彼等は本当のことを言っていたんだ。そんな想いだけがあった。

 

 角を取る、という作業は本当に辛かった。

 どんな金槌でも、どんなのみで叩いても、この角は折れることは無かった。

 それでも日に日にその角は大きくなるから、どうしても取らなくてはいけない。

 最終的にその角は、頭蓋を削って取り出すことが決まった。

 角の部分は鬼でも、頭の部分はまだ人間だったということだ。


 額を刃で切り裂いて、頭蓋の骨をのみと鎚で砕きながら角を抉り取る。

 それは本当にたまらなく辛かった。

 どんなに痩せ我慢をしても、涙も叫びも止めることが出来ない。


 俺が叫び声を上げても不自然じゃない場所として、客人用の小屋だった離れが折檻部屋に変えられた。

 角は、一度取ってもまだ生えてくる。

 自分だけがどうしてこんな痛い思いをしなくてはいけないのか。

 何故生まれてきてしまったのだろうか。

 そんな事を考える毎日だった。


 ある時から、同世代のクソガキと仲良くなった。

 済ました顔で正義感ぶったこいつが面倒で、他の奴らと同様に一度打ちのめせば大人しくなると思っていたけれど、そいつはめげること無く何度も突っかかってきた。何度も何度も。

 結局俺が根負けして、よくよく彼の話を聞いてみると、確かに道理が通った内容だった。

 それ以来、一緒にいる時間が多くなった。

 地獄みたいな人生の中で、数少ない楽しい時間だったように思う。


 そうして多少の知識がついて、分別も出来てきた。

 いつか絶対こんな場所から抜け出してやる。ずっとそう思い続けてきたけれど、断片的に聞く武山の外の世界は、この場所よりずっと生きるのが難しい場所らしかった。

 この耐え難い地獄が、実は揺り籠。

 外の世界では生きていけないと思い知った。


 鬼の噂が都から届き、旧友が鬼を捕まえると言い出したのはある意味天啓だった。

 もしも本当に自分以外の鬼が居るのであれば、一目見てみたかった。

 叶うなら、戦って自分の力を試してみたかった。

 生まれ持った才能だけで自分が強いのか。それとも武山で積んだ研鑽故に自分が強いのか。

 同じ存在なら、それが確かめられるのではないか。そんな事を思った。

 何よりも。

 人に飼われ、道具のようにすり潰されるだけの存在なら、楽にしてあげたいと思った。

 自分もまた鎖に繋がれているというのに。


 

 彼の、絞り出すような告白を聞き遂げて。彼女の手がイブキの古傷に触れる。

 何度も繰り返し傷つけられたその場所は、幾度も肉芽を形成し、酷い瘢痕を残している。

 それでも、とくり、とくりと。心臓に呼応し血が脈打っている。


 赤い血は生きている事を確信させる。

 その鼓動は、自分たちがちゃんと生きていることを高らかに告げる。


 泣き止んだ彼の代わりに、彼女の双眸から涙が伝う。

 困った様に笑いながら、涙がこぼれ続ける。


 生き続けていればこんな日が訪れる。

 天涯孤独と諦めていながら、唯一の理解者に出逢う。

 人生で一番幸せな日が。


 朱い満月が昇る夜。

 2人の鬼の姿が、人気のない古寺にあった。

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