第14話
白装束の敵の詳細、同部屋で眠っているタロウの事。ヒカルの周りの状況について、全てを事細かく確認出来た訳では無いけれど、一通りの説明が終わった後、シキは倒れる様に眠った。
それを見届けて、イブキはじっと自分の掌を眺める。
心を落ち着ける時の、ちょっとした呪いだった。
武山という場所は、都にかなり近い土地にある。しかし修行中の身で山を下りる事はほとんどなかった。
初めて訪れる場所。そういう緊張がある。
初めて本当の命のやり取りが行われる。そんな緊張も強くある。
山を下りる時、師である僧正と交わした言葉が思い返される。
寺院の奥、伽藍と呼ばれる場所で僧正はいつも瞑想に耽っている。技と体を鍛えた後は、心と言わんばかりに。
それでいて最高峰の武力を維持しているのだから、とんでもない人物だった。
足音を殺し、気配を殺し、その伽藍に足を踏み入れた瞬間に僧正の声が響く。
「遅かったのぅ、イブキ」
単純な力比べなら勝つだろう。そんな見立てがある。だがもっと根源的な所で勝てないと思わされる。こうして何もかも見透かしているような様子も、異常なまでの察知能力も、いちいち美しさすら思わせるさり気ない所作も。
「僧正。山を下りる決心をしました」
決して一時的に、という意味ではない。もう戻れない、という覚悟を込めての言葉だった。
同期が次々と仏に帰依し、武山の僧となっていく。そんな中イブキだけが見習いのままだった。
僧侶になる以外にも、修験者となる道や、武山に出入りする商人となる道、一介の農民として生きるという道もある。そのどれも選べずにいた。
望めば次期僧正になれる。周りはそんな噂を軽々しくするけれど、その立場にいかに相応しく無いかを、こうして身を持って知っている。
目の前の、この人の様に大きな器がなかった。
「お前が来てから何年かのぅ。初めてあったのは乳飲み子の時じゃった。いやはや、時間とは恐ろしいの」
座ったまま、衣を滑らせ僧正がイブキに相対する。
鋼の様だった肉体は枯れ枝の様に細く、乾ききりいつ死んでもおかしくない様な体躯をしている。彼は今、即身仏という過酷な業の最中だった。業の終わりにその命は潰える。今も、とても血気盛んな様子とは言い難い。
でも瞳だけは爛々と輝き、イブキという若者を見定めている。
「お前の武は強い。じゃがそれは生まれ持ったもので、培ったものではない」
言い切ったその言葉に忖度なんてものはない。ただあるがままに、弟子の才を評しただけ。
そこにイブキも反論の余地は無い。自覚は大いにあった。
「下界に降り、修羅道を往き、培うのも、ある種定めなのかもしれんの」
その言葉を聞き遂げて、イブキが再び頭を垂れる。豪快で、自信に溢れたかつての面影はなく、何もかもが剥がれて慈愛の表情を浮かべる僧正の姿は直視できなかった。
即身仏に至るにあたって、削ぎ落したはずの心残りの様なモノがその微笑みにはある。
「お前なら、俺の跡をと思ってもいた。決心は堅いか?」
「……都を賑わす鬼とやらを、どうしても確かめたいと思います」
「そう、か。それでは、何も言えんの」
大きく、地に頭をこすりつける様に大きく、イブキが頭を下げる。
その頭を下げ終えた時、僧正は再び背を向けていた。
その後姿を目に焼き付けて、音を消し伽藍を後にしようとして、僧正の声が最後に響いた。
「イブキ。命は惜しむのだよ」
最後の手向けの言葉をそうして受け取った。
それは自戒のようでもあり、慈愛のようでもあった。
じぃっと掌を見つめていた。我に返った時、彼は慣れ親しんだ武山の折檻部屋だった離れではなく、水原の家の使用人用の住まいに居た。
人生とは分からないものだな、そんな独り言が零れそうになる。
代筆の小遣い稼ぎや、出入りの商人との話し合いで、都で殺人事件が行われている事は知っていた。水原の追いやられた状況と彼の性格を考えると、殺人鬼を追う事も想像が付いた。
自分に助力を請う事も。
そこまで予想が出来ても、自分が山を下りる決断をするとは露とも思わなかった。
貴族関係の揉め事に巻き込まれたくない。
水原に言った言葉は本心だった。
けれどそれでも、鬼、という言葉が全てをひっくり返していた。
絵物語や噂話にしか聞かないその存在に、相まみえるなんて思いもしなかった。
ずっと焦がれていた人の手がかりを、手に入れたような思いがある。
半月の夜まで、まだ数日ある。
体は早速熱を帯びていて、とても寝付けない。
部屋の窓からは高く上った月が見える。そうして眠れない夜を過ごすのだった。
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