第9話 三日月の章 / 一夜明けて
月夜の晩で、三日月の夜が最も美しい。
星が瞬く新月でもなく、満月の優美な姿でもなく、三日月こそが最も美しい。
あの夜空に唯一浮かぶ細く鋭利な姿には、艶やかさと怪しさが内在している。近づくものを斬り裂きながら魅了して止まない、そんな悪女の様な美しさが。
事実、遠い異国では「アルテミス」という女神が存在し、その象徴が三日月の形を為している、また別の異国では巨大な宗教の象徴に三日月が用いられていると聞く。
時代や場所が違えど、見上げる空や月に想いを馳せるのは皆同じらしい。
陰陽寮を統括するようになって、これでどれほどの時間が流れただろうか。
天体の動きや、現在起きている事象を説明するには過去の記録が欠かせない。お陰で書殿に自由に出入りできるようになったが、異国との交流があった時代に伝わった書物や残された記録に彼方を思うばかりにもなってしまっていた。
そして皮肉な事に異国に行ったことも無いのに異国の文化に精通している者として扱われ、今では異国と当代の文化を組み合わせ、新たな神器を創り出すことを命じられるに至っていた。
神器。神から授かったとされる伝説の道具に匹敵するものなど人の身で作り出すことはとても適わないのだが、切なる事情もあった。
伝統や格式も当然大切だが、神器はこの国の技術力の高さを指し示すものでなければならない。
特に切実なのは、剣だった。
剣は武具である。敵を屠る武具は時代と共に発展を遂げ、常に最先端の技術でなくてはならない。今日作られる剣は神器を模したもので、遥か昔から製法が変わっていない。長らく続いた平和は、その代償に我が国の製鉄技術を停滞させ続けた。
時折流れ着く異国からの船を検分した際に出てきた剣の質の高さに、危機感を覚える程に。
そうして異国の剣、曲刀や湾刀と呼ばれる剣を参考に、直刃ではなく、湾曲した剣を模した剣の開発を進めた。
凝り固まった製法を一新し新たなものを創り出す為には、その位思い切った決断が必要だった。
恐らくまともな物は出来ない。少なくとも私の代では製鉄技術の進歩にいささかでも寄与すればよいという考えだった。
だが、仏の導きか、運命のいたずらか。
神器と呼ぶに何ら遜色のない逸品が生まれた。
三日月の形を模し、鋼鉄の地肌は光沢し玉を思わせる。刀、或いは太刀と呼ばれる事になった新たな剣は、異国の曲刀などは遥かに凌駕し、幾つもの技術段階を一足に飛び越した。
触れただけで肌を切裂き、振るうものが振るえば何層にも積み重ねた人間の体を一刀に両断する、切断能力の極致。
切断、という事柄にかけて人が生み出す極致に至った刀には斬れないものはない。
人や動物どころか、人間の領域外に住まう妖や八百万の神々すら斬る事が叶うだろう。
素晴らしいモノを創り出したという自負がある。
同時に、その性能の凄まじさに身震いも覚える。
刀は、妖や神々といった見る事すら適わないモノを斬る事が出来る道具として重宝されると共に、幾千幾万もの死体を積み上げる兵器にもなるだろう。
若しくはこの国の在り方すら変え得る、本物の神器にもなり得る。
この技術を闇に葬るべきと、何度も思った。
しかしあの三日月を模した美しき姿は、人を惹き付けてやまない魔が宿っている。
あの光沢に、あの造形に、あの切れ味に、耽溺し。更に開発を進め、その能力の素晴らしさを試さずにはいられないでいた。
引退を間近にした今も、こうして三日月を眺めながら、あの刀の事を思い浮かべている。
恐らく私は地獄に堕ちる事だろう。私が生み出したモノはこの先、数多の命を屠っていく。
だが地獄でも、こうして月夜を見上げることがあれば、この偉業を誇ることだろう。
あの空に浮かぶ美しい三日月を、この世に顕現せしめたのだと。
ただ命を失わなかっただけの夜が明けた。
死闘を終え、疲労困憊なはずの水原の姿は検非違使の建物にあった。
彼はそこで只管に頭を垂れながら、上役からの嫌味と説教を聞かされ続けている。
勝手に現場に出た事。賞金首の次の現場を分かっていながら報告をしなかった事。目の前でむざむざ被害者を出しながら犯人の手がかりが何も無い事。等々。説教が何度目かのループに入っても、今の彼はそれを咎める事は出来ず、ただ只管に頭を下げるしかなかった。
終いには死者に触れた事でケガレを纏っていると、1週間の謹慎まで命じられてしまっていた。
ケガレを口実にした、事実上の制裁だった。
ケガレ。
物理的な汚れではなく、概念としての汚れ。
医療技術も衛生技術も乏しいこの時代。仏教の死生観も合わさり、死体は穢れた忌み嫌われた代物だった。
仕事に向かう出仕の途中に死体と出くわすだけで、しばらくの間出仕を禁じられるほどに。
家中の者が亡くなれば、30日間も喪に服す期間が設けられるほどに。
それは絶対の信仰だった。
没落し、家族どころか奉公人すら居なくなった家に戻り、水原が大の字に寝転がる。
死闘を行い、ほとんど取り調べ同然の報告を行わされ、徹夜明けの体は疲労困憊だった。しかし、体にはまだ戦いの熱が残っていて簡単には眠れそうにない。
それに、検非違使の同僚たちの素早い動きも引っかかっていた。
あの戦いの後、検非違使で保有している奴隷に男の身元の特定を依頼し、傍らでむせび泣き続けている女に、男との関係を聞いた。
女は平民の女で、男好きのする顔立ちだった。貴族の男とは1年近く前からの仲で、生活の面倒を見てもらいながら時々逢瀬を繰り返していたという事だった。
貴族であることは知っていても、素性は分からないとの事。
男がどこの家の御曹司であったか、身元が分かるまでにはまだ時間がかかる。
身分が高く名のある者なら、その死の公表は隠したいはずだ。平民の女との逢瀬の最中に死んだなど外聞が悪すぎる。必ず何かしらの体裁を整える。逆に下級貴族の三男、四男といった存在だったの筈であれば、誰もそんなヤツの顔は知らないし、家の者も名誉の為に黙殺することだろう。
被害者の身辺から犯人を割り出せない以上、犯人に最も近づいた水原を謹慎程度で済ませるのは不可解だった。
そしてこの一週間という時間も奇妙だった。
検非違使達も次の犯行現場と時間を割り出しているとすれば、次の現場には出てくるな、という事。
何処からその情報を得たのか。
堂々巡りに考えが回り、最後にあの敵との戦いを思い出す。
思い返せば思い返すほどに、ただ死ななかっただけの戦いだった。
手を出してはいけない事に手を出しているのではないか。右頬の傷に手を当てながら、そんな事まで思い始めた。
「命を拾っただけめっけもんだー、なんて思ってないわよね」
天井を睨む様に眺める水原を、覗き込む様に菖蒲が言った。突然の来訪と突然の言葉に、分かり易く水原が驚く。
「うわ、びっくりした。……不法侵入だぞ」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ」
そして桐箱に入った弁当箱を水原の前に置く。
「まずは食べましょう。空腹で考え事何て碌な事にならないわ。ほら、シキも」
庭先で、屋敷内に入る事をためらっていたシキと目が合う。水原がこくりと頷けば、おずおずと部屋に上がってくる。
たしかにあの戦いの後何も食べてはいなかった。
そして、不可思議な食事会が始まった。
数時間前。
水原が検非違使達に連行されていった時、菖蒲は自身の家に戻っていた。
仮にも貴族令嬢であるから、今般の殺人事件の現場で身柄を拘束された等あってはならなかった。
早朝の都は人通りが少ない。それでも人目に付かないよう可能な限り気配を殺し家路へと急ぐ。
何とか家に辿り着き、ようやく一息付けた頃には空が随分と白んでいた。
家の者にも見つからないように、泥だらけの衣装をかなぐり捨てる様に脱ぎ捨て、普段着の小袖に身を纏い、杏奈の元へ急ぐ。
彼女の魘された様子に、恐れていたことが現実になってしまった。
「杏奈、しっかりして、杏奈」
猫耳の少女を抱きすくめ、せがむ様に、祈る様に彼女に問いかける。ひんやりと冷たい彼女の体。微かに杏奈の目が開く。
「あ、菖蒲様。……おか、えり、なさいま、せ」
「ごめんね、杏奈。本当にごめんね。今元気にしてあげるから」
何とか平静を保つように努めながらも、菖蒲の声には焦燥がある。小柄な彼女を両手いっぱいに抱きしめて、その額に額を当てる。
「あったかい……」
うわ言の様に杏奈がそう零して、菖蒲はすがるように彼女を抱きしめ続けた。
陰陽術には様々な術法がある。
菖蒲が扱うものはかなり、邪法に近い。式神である杏奈を長く顕現するには、膨大な力が必要となる。或いは大きな代償が。
彼女たちは、霊的に非常に強いつながりを持っていた。
菖蒲の体調や感情の高ぶりが伝わるほどに強いつながりが。喜びや自信といった感情が活力になり、逆に絶望や悲嘆は死すら呼び寄せる。一蓮托生を超えた関係。
杏奈のその症状は、極めて危ないものだった。もう少し霊力を分け与えるのが遅ければ命を失いかねない程に。
それだけ、あの白装束の怪物に恐怖していた、という事だった。
「ぜったいに、あいつを掴まえるからね」
霊的に密接なこの土地から、長く離れる事は出来ない杏奈。加えて、彼女がまともに行動できる時間は年を追うごとに短くなっている。
鬼の、凄まじい生命力を媒介に、新たな器を用意しなくてはならない。
そんな切実な状態にまで、彼女は追い詰められている。
「相変わらず薄気味悪い女だな、お前は。まだそんな骸に執心なのか」
蔑みを隠す事の無い男の声が菖蒲の背後から投げかけられる。
嫌悪感と敵疑心を隠すことなく、強く睨んだ瞳で菖蒲が振り返る。
「出て行ってください。お兄様」
「そう怖い顔をするな。これでも哀れな妹の行く末を案じてやっているのだ」
「出て行けと言っている。これは警告です。それ以上何か言うと――――」
「あぁ分かった分かった」
菖蒲が呪符を取り出すと、菖蒲の兄はおどけたように両手を見せる。
顔立ちは、兄弟であることを証明にするように良く似ている。けれども、目の奥に宿る光は似ても似つかない。
「まったく父上にも困ったものだ。娘に甘すぎる」
わざとらしく呆れた声で喋りながら、踵を返していく。
だが、呪符も届かない距離まで離れると貴族として恥ずかしくもなく大声を上げた。
「菖蒲。さっさと人形遊びなど卒業して、一族の女としての務めを果たせ。そして少しでも俺の役に立て」
勝ち誇ったように大声を上げ、菖蒲の兄は去っていく。
彼女は、杏奈にその声が聞こえないよう必死に耳を塞ぎ、ただその男を睨み続けるしかなかった。
その悔しさや憎悪も、今は呑み込むしかない。
陰陽師としての実力なら、あの男には負けない。そんな自負がある。だが、男社会のこの世界では女の癇癪は許されない。兄を傷つけたことで父から見限られれば、即この家を出されかねない。そうすれば杏奈の命は潰えてしまう。
杏奈を護らなくては。
怒りに身体の全身が震える。それでも、そう決意を新たにする。
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