第31話 菖蒲
大切なものを喪って、心に大きな穴が空いたまま。
何かを思い、何かを感じても。全部溢れていく。心に留まることはなく、全てが通り過ぎていく。
あの十三夜の月の夜。父や兄たちもあの現場に居たらしい。
何か凄い剣幕で罵られた様だけど、何も心には残らない。
そして今は自分の部屋という場所に居る。
ここはひどく落ち着かない。
見知った、思い入れのある場所の筈なのに。
まだ傷のままに残る彼女のことを、どうしても思い出してしまう。
それでも、何処かに行くことも出来ないから。
ここでただ潜むように息だけを続ける。
耳を塞いでも聞こえてきてしまう父や兄たちの話から、どうも私の処遇を決めているらしい。
それもひどくどうでもいい。
分かっていたことだけれども、彼女が居ないことでこうも浮き彫りになる。
この場所に菖蒲という娘の居場所はなく、政略の道具があるだけなのだ。
息をすることも億劫な、水底にいる。そんな心持ちになる。
冷たく、身を切るような冷たい場所で、ただ息だけをする。
ずっとそうし続ければ少しは楽になるのかもしれない。
でも、水底に溜まった澱は身じろぎをしただけで舞い上がり、暗がりを更に不明瞭なものにする。
ここは生きていける様な場所ではなかった。
それが分かっていても、今はただこの冷たい場所に居なくてはいけない。
ただそれでも。
自分の思考が黒く塗りつぶされ、何も考えない人形になってくれれば楽なのに、明るい色を思い出す。
本の一瞬のことだったけれど。
水原たちと過ごした時間が、何度も想起される。
無遠慮で、無節操で、無教養で。山賊みたいな野蛮な人達だったけれど。
彼らと過ごした賑やかな時間に、少しだけ明るいものを見出す。
あぁ、楽しかったのか私は。
今更にそんなことを気がついたとしても、何もかも終わってしまった後。
でももしも次があるとしたら。突拍子もない夢想が許されるのなら。
次はちゃんと、杏奈もあの輪に加えたい。
こんな冷たい場所で、ただ生き永らえさせるのではなく、あの明るい輪の中に彼女を迎えたい。
そんな叶わないことを、幾度も思う。
もうあの賑やかな日々も終わってしまった。
タロウも死んで、全てが変わってしまった。
何より水原とも仲違いをしたまま。
あの聡明ぶってもどこか抜けたあの人は、冤罪で命を散らしてしまう。
彼を助けることよりも、もっと可能性の薄い、杏奈の延命を私は選んだ。
だからこれは、全て虚しい夢想。
もう還ることの無い日々を思い返しているだけ。
杏奈を喪ったことで、腫れ物に触るようだった父たちの様子は、不躾なものへと変わっていた。
呪いの傀儡をけしかけられることがない。
そんな安心が彼を増長させているようだ。
私は何処かの誰かの子供を孕むことになるらしい。
嫌だなという思いも湧くけれど、そんなものか、という言葉も湧く。
人生はそんなもの。そんなものなのだ。
この心に空いた穴は、いろんなものをただ零していく。
無力感も嫌悪感も、溢れて。諦観すら溢れて、何も感じずに生きていくのだろう。
それなのに。
懐に、何か温かいものがある。
それが何かと思って取り出してみれば、くたびれた呪符が一枚、熱を帯びている。
水原に渡した呪符の対となるもの。彼の強い思いに呼応して熱を帯びる。そんな願いが込められた呪符。
鮮明に、何か視界が開かれていくような感覚がある。
もう使い切ったと思っていたその呪符が効力を発揮する、その意味は、彼が強い想いを抱いているという事。
絶望にあってなお、まだ諦めていないという事。
感情が溢れる。穿った心の穴から感情が溢れる。
溢れても溢れてもなお湧き続ける激情がある。
まだ間に合うかもしれない。
そんな願いが彼女を立ち上がらせた。
家に仕える者たち、父や兄たちといった家族が彼女の前に立ちはだかるが、全てが一層される。
菖蒲という女性は天才である。
その全ての才を、『杏奈』という傀儡に注ぎ込んでいると皆が勘違いしているだけで、呪符で何か炎を顕現したり、呪いの塊を投げつけることしか叶わないような術者には、到底及びもつかない領域に彼女は居る。
彼女は獅子を造った事で天才と称されるのではない。獅子を造る事が出来る獅子故に天才なのだ。
その能力のみでその才の多寡を見極めるから、誰も彼女の本質は知らない。
誰も彼女の歩みを止めることを適わず、その檻の外へ彼女は踏み出した。
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