SYUTEN 平安の都で鬼を斬る話
@nakasugi
第1話 新月の章 / 水原と菖蒲
人を殺めた感触が、まだこの手に残っている。
刃が柔らかいお腹に沈んでいって、引き裂くと吹き出すように血と臓物が零れて、それから力なくその場に崩れ落ちていく。
潰れたカエルみたいに地面をもがいて、血の泡を吐きながら微かな呼吸音がする。そしてこちらをとんでもない瞳で睨みつけてくる。
でも、傷口から鮮血はとめどなく零れ続けているから、血だまりが広がり続ける。
人はあっという間に死んでしまう。少しの力と少しの殺意で簡単に。
死の間際の姿は血と臓物に塗れた惨めなもので、尊厳なんてものはない。
貴族も、民衆も、その辺に転がっている浮浪者も。それは変わらない。
けれど、本当の最後の最期だけは皆静かに命を終わらせる。
呼吸が止まって、体の震えが止まって、目から光が消えて、肉体から命が離れていく。
その瞬間だけは綺麗だと思った。
海原に夕日が沈んで夜がやってくる時のように、血だまりの鮮血に命が沈んで、静かな闇になる。
まるで揺蕩い続ける世界から、切り離されたかのような特別な一瞬。
音もなく、温度も無く、静かで永久な一瞬。
でもそんな時間はすぐに終わってしまう。途端に現実が責め立ててくる。
傍らには無残な死体が転がっていて、返り血で体は真っ赤に染まっている。
鉄の混じった生臭さと、急激に温度を失っていく粘りつく血液。
堪らなく不快感が押し寄せる。
命は特別だけど、特別なんかじゃない。美しくて仕方ないけれど、どうしようもなく汚くて醜くい。
全能感とそれを塗りつぶす絶望感の落差に、もう私の頭もおかしくなってしまっているのだろう。
ため息が大きく零れる。
きょうで5人を殺めた。
約束ではまだ3人残っている。
まだ3人も、と思うべきなのか。それとも、あと3人だけ、と思うべきなのか。
本当にもうよくわからなくなってしまった。
それでもふと空を見上げる。縋るように、童心に帰ったみたいに。
新月の夜。
漆黒の夜空には、星々がどこまでも広がっている。
子供の時、月を手に入れようとして手を伸ばし続けたことなんかを思い出す。
あの頃のように。まるで吸い込まれそうな、そんな夜空に手を伸ばしてみるけれど。
この手が月に手が届くはずがなくて、血まみれの手はただ空を掻くだけだった。
最近の都は物騒だ。
都が物騒では無かった時代は無いのだが、それでも昨今の都は輪をかけて物騒だった。
今朝も街はずれで遺体が発見され、下級とは言えまた貴族の男がが殺された。
やられ方も前回と同じ。争った形跡はなく、鋭利な刃物で腹部を裂かれての出血死。
足跡の痕跡から、その殺人鬼は絶命の瞬間を傍らで眺めていたことまでは分かっている。
およそ人間の所業とは思えない凄惨な事件。
そんな事件の詳細が綴られた報告書を真摯に見つめている男がいる。
都の警察組織である検非違使の下っ端役人。年のころは二十歳前後。名前は水原ヒカルといった。
周りの同僚が、やる気がない様子を隠そうともしない中、彼だけは真剣な眼差しを向けている。
水原一族は昔は都でも有数の名家だった。しかし先々代の時に没落し、今はその栄達の陰もない。
家を再興したい。
そんな出自のお陰で、彼はそんな願いを抱いている。
しかし日々の生活に追われ、そんな儚い夢も潰えようとしている。
検非違使の下っ端の仕事は、同じ毎日の繰り返しが続く。生きていく事は出来ても、目が覚めるような功績を残すことは出来ない。
しかし、都を恐怖に沈めるこの殺人鬼には、つい先日、異例な程の懸賞金が出ていた。
上級貴族に連なる者にまで被害が出た事で、朝廷の上層部も重い腰を上げたという訳だ。
これを期に、上級貴族に返り咲く。
それが夢物語と分かっていながら、それでもその夢物語に縋っている。
しかしその犯人を捕らえる有用な手段はまだ思いつけないでいた。
水原が報告書を食い入るように見ながら思案を重ねていると、庭の窓から彼の四苦八苦する姿を眺めている少女が居た。
まだ幼さの残る十六歳頃の娘は、親し気に水原に声をかけてくる。
「手がかりは現場で探すんじゃなかったの。検非違使の新鋭さん」
「…………何の用だよ、部外者で不法侵入者の菖蒲」
厭う水原の言葉に笑みを浮かべ、異に解する様子もなく菖蒲と呼ばれた娘は邸内に乗り込んでいた。
検非違使の宿舎は、腐っても警察権を持つ組織の建物でよそ者が潜り込めるような場所ではない。
しかし彼女は買って知ったる様子で乗り込み、水原の机を覗き込むように座った。
「ふーん、5人目もなかなか凄惨ね」
「勝手に見るなよな。一応機密情報だぞ」
「そんなに邪険にしないでよ。デカい山よ。手組みましょ」
「お前も賞金狙いか。邪法使いと手を組んだって碌な事にならない、断る」
「まぁまぁ、そう言わずにさ」
そう言って菖蒲は水原の前に地図を広げる。都の地図。ご丁寧にこの連続殺人の犯行現場が朱塗りされている。
水原が呆れたような言葉を吐く。
「犯行現場の位置等、何度も検証してみたさ。今更こんなものを見た所で新しい情報など出てこないぞ」
「ま、素人目線だとそうかもね」
菖蒲の揶揄ったような口調に水原の目が細まる。
彼の持つ筆を奪い彼女は地図に線を引き始める。
「ここが一人目で、ここが二人目、とこうして殺された順番で繋ぐとね」
菖蒲が今日死体が見つかった5人目までを線で繋ぐ。出来損ないの星型の様なものが地図の上に描かれる。
「おいおい、いくら検非違使の下っ端でも、陰陽師が使う五芒星位は知っている。これは歪な星の形じゃないか」
「そうなんだよね。でも後死体を3つ足すと」
そう言って菖蒲が地図上に新たな点を三つ書き込み、それらを線で繋いでいく。
「……何か、形、が出来たな」
「そ、八芒星っていうの。綺麗な形よね」
地図上の都の上に、変わった星型の印が出来上がった。
「私が学ぶ陰陽道では、この八芒星はほとんど使われない。鬼門や裏鬼門に対して効果を発しにくい、というのもあるけれど、まぁ単純に教義の違いよね。
ま、ここで重要なのは、私達とは異なる理で動く連中が、血の八芒星をこの都に描こうとしている訳」
にやりと水原の目を射貫きながら菖蒲が笑みを浮かべる。
先ほどまで菖蒲を邪険にしていた水原の目が、真剣に彼女の目に向けられる。
「……そいつは何のためにそんな事をしようとしている」
「知らないわよそんな事。私邪法使いじゃないし」
「だったら意味が無いだろ、こんな絵が分かったところで」
呆れたように水原が言うが、菖蒲は言葉を続ける。
「そんな事は重要じゃないの。捕まえれば分かる事だし、私にはどうでもいい事だもの。……ねぇ、考えてみて。敵が律儀に八芒星を描くのだとしたら次はここで殺人を犯す訳よね。何処で、が分かって、いつ、が分かれば、捕まえられるとは思わない?」
菖蒲が5人目の次の点を、次の、6人目の予測地点を筆で強く濃く塗りつぶしている。
はたと気付いた水原が書類をひっくり返し始める。そしてこの度の連続殺人の記録を引っ張り出す。
「2日から6日程の間隔で行われているな。……もし図形と同様に間隔にも理由があるとしたら、1人めから4人目と5人目から8人目は対になる可能性があるな」
「だとしたら8人目は、おそらく10日後のここで行われるって事じゃない?」
菖蒲が繋いでいった最後の点を筆で塗りつぶしている。
書類では、1人目から4人目は12日の期間で行われている。そして昨日5人目の事件が起きた。
確かに理屈が通っている話であった。少なくとも、何処から手を付けていいか分からない状態に一筋光が見えた想いだ。
「6人目と7人目の日取りもおおよその見当が付くな」
「でしょう。なかなかいい情報を持ってきたとは思わない?」
悪だくみをするように、或いはいたずら娘がその計画を口にするように笑って見せる。
「ね。この10日間で強い仲間を集めましょ。腕が立つとびっきりのを」
菖蒲の言葉に、水原は思案顔を崩さない。
数秒の沈黙の後に、率直な疑問が言葉になる。
余りにも出来すぎた話に、顔見知り相手とはいえ、疑いが勝った格好だ。
「分からないな。賞金が狙いなら何故仲間を増やそうとする。そもそも何故俺に話を持ち掛けた」
水原からの問いに、少し目を見開いた後、観念した様に菖蒲が答える。
「検非違使に融通を効かせて貰いたいのよ。……本当はもっと後になってから白状しようと思ってたんだけど、今回の相手は”鬼”よ」
「鬼!?」
「えぇ鬼。それも、殺人鬼、みたいな比喩じゃなくて。本物の人ならざる、鬼。だから荒事に滅法長けた武闘派が必要なのよ」
思いも寄らない言葉の登場に、水原は驚きを隠せないでいる。
噂話や怪談めいた話に登場しても、本物が存在するとは思わない。
そんな様子に構わず、菖蒲が続ける。
「鬼退治の後、その鬼の体の一部を私に譲って欲しいの。それが検非違使である貴方を誘った理由」
呆気に取られた顔を怪訝な顔に変える水原に、菖蒲が続ける。
にたりと、笑みを抑えられない様子で。
「鬼なんて怪物は、陰陽の者にとっては喉から手が出る程貴重なものなの。なんなら賞金は全て貴方に譲ってもいいくらいにね」
まだ少女のあどけなさを残しながら、獲物を想い蠱惑的な瞳を浮かべている菖蒲。
彼女の言葉に嘘は無いように思える。
少なくとも、鬼を討伐するという目的において共通しているようだ。
検非違使でも掴んでいない情報を武器に、交渉を持ち掛けてくるその少女に感心と恐怖を覚える。
確かに彼女の考えはもっとも。
賞金まで出ている相手の身柄は、検分の為に検非違使で預かる事になる。実際に身柄を拘束し、或いは遺体を検分するのは現場の人間だ。
もしもその身柄を手に入れようとするなら現場の人間を抱き込むしかない。変わり身を立てるにしても、遺体の一部を融通するにしても、野心があるのに冷遇されていて、危ない橋を渡らざるを得ない人間を抱き込むしかなかった。
水原がもう一度菖蒲の目を見る。
あどけない、幼さすら残るその顔には、真剣な色がある。
彼女の掌の上で踊らされている。しかし降って湧いた好機を逃してはならないと、彼の野心が囁く。
「分かった。手を組もう」
その答えに、満足そうに菖蒲が頷いた。
「えぇ、期待しているわよ水原」
差し出された手をお互いに強く握り合い、約束を結ぶ。
彼女はまだ、全てを話した訳じゃない。疑念はどうしたって湧くが、それを飲み込まなくてはいけなかった。
繰り返し、ただ摩耗していくだけの毎日にようやく光明が差した。
その手を掴まない選択肢は無かった。
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