#7
カーテンを透かして差し込む朝日に、エイイチは目を覚ました。壁掛けの時計は午前8時を示している。寝るのが遅かった上、どこからか迷い込んできた一匹の蛾がずっと壁に張りついていたため気になって眠れなかった。エイイチは虫が得意ではない。
我が物顔でへばりついていた定位置に蛾の姿はなく、きっとどこかへ飛び去ったに違いないとエイイチは安堵して身を起こす。見計らったようなタイミングでドアをノックされた。
「おはようございます、エーイチ様。朝食のご用意が出来ております。ブレックファストルームへご案内します」
「あ、はい! 準備するんでちょっと待ってもらえますか?」
「かしこまりました。では――5、4、3」
「アヤメさん!? 待つ気ないだろカウントダウンやめてくれよ……!」
エイイチは大慌てで寝癖を撫でつけ、ついでに下半身を強めに押さえつける。朝の一番元気がいいときに暴発したらどうすんだ、と悪態をつきながらドアを開けた。
「冗談です」
「はあ、はあ、そんな冗談も言うんですね。おはようございます、アヤメさん」
無表情のアヤメは悪びれた様子もなく、いつものクールな眼差しをエイイチへ向ける。とはいえこうして軽口を叩く関係になれたことは喜ばしい。これはアヤメと初エッチをする日も近いなと、廊下の窓を照らす陽光にフッと目を細めるエイイチ。
「おや……ポケットに何か?」
ハンドポケットでいかにも格好つけるエイイチの不自然な膨らみを、アヤメは目ざとく指摘した。どうにか収まりのいいポジションを探していただけなのだが、馬鹿正直に答えては風情がない。
「護身用にね、俺だって凶器の一つくらい隠し持ってるんですよ」
「……なるほど。凶器ですか」
ナイフを隠し持っていたことに対する、これはエイイチなりの意趣返しなのだとアヤメは察した。大っぴらに武器があることを公言し、隠し持つなどという姑息な手段はとらないと暗に言っている。昨夜みせた怯えはたった一晩で克服したのか、なかなかどうして大胆な男だと感心した。
「変わるものですね。昨日の夜から、今朝までの短い時間で」
「昨日の、夜?」
昨晩のアヤメの大胆発言を思い出し、エイイチはついつい給仕服の足元へ目を向ける。アヤメもすぐ目線に気づき、まるで挑発するかのようにスカートの裾を軽く持ち上げてみせる。
「どうしました? エーイチ様。それほど気になるのであれば、今すぐ抜いてもいいのですよ」
「い、今すぐって、さすがにこんなところじゃ……」
「ふ。冗談です」
「もう! びっくりさせないでくださいよ!」
エイイチは“やっぱりドスケベメイドじゃないか”と心の内で歓喜した。一方で“強がってみせても本物にはまだ遠い”と少しの優越感に浸るアヤメ。どうしてこれほどまでにすれ違ってしまうのか。
互いにわかり合ったような視線を交わし、何もわかり合うことのないまま二人は三階へ向かった。
三階東。朝日で澄んだ暖かさが籠もる小部屋には、ツキハとセンジュが対面で食卓を囲んでいた。夕食を頂いたダイニングに比べて狭い部屋だが、大きな掃き出し窓のおかげで開放感はこちらの方が上だろう。
「おはようございます、エーイチさん。狭いところで申し訳なくも思ったのだけれど、せっかくだから家族のように過ごしていただきたくて」
今朝のツキハはフェイスヴェールや喪服然としたドレスの重苦しさから解放された、ライトブルーの鮮やかなワンピース姿だ。厳格な印象とはまたガラっと変わって親しみを覚える。姉妹だけに髪の艷やかさはマリとそっくりで、少し赤みがかった髪色のマリに対してツキハは深い蒼色。所作は姉がより洗練されており、エイイチの目にはティーカップを傾けて微笑むツキハが後光差す天使に映った。
「家族……! そんなに歓迎してもらえるなんて、ありがとうございます!」
前回の見立て通りツキハの上唇にあるほくろは無性に情欲を掻き立てられる代物で、その柔らかく笑んだ口に相席を促されたエイイチは喜び勇んでセンジュの隣へ腰かけた。すぐさま拒絶するように、センジュは椅子ごとガタッと距離を離す。
「センジュちゃんもおはよう。今日はぬいぐるみ持ってないんだね」
「話しかけんな変態。こっち見んな」
センジュも昨夜の妖艶なベビードールではなく、オフショルダーのブラウスに極めて短いジーンズスカートのスタイル。やはり夜とは印象が違って見えるも、軽装を好んでいるらしいことは理解した。
丸出しの華奢な肩。くっきり浮き上がる鎖骨。動けば腋がチラ見えし、サンダル履きの素足なども外せないポイントだ。見るべきところ盛り沢山な防御力の低い服装はエイイチも大好きである。
ケチャップのついた指を咥えつつ、食卓へ手を伸ばすセンジュ。自ら離れてしまったため悪戦苦闘するセンジュに代わり、エイイチはテーブルのマスタードを取ってやった。
「これ?」
センジュは舌打ちし、マスタードの小瓶を奪い取る。他にも口を拭えとばかりにティシュペーパーを渡したり、皿にサラダを取り分けてあげたりとエイイチはセンジュの世話を焼く。センジュは心底からうざったそうに悪態をついていたのだが、ツキハは「ふふ」と笑みをこぼした。
「すっかり仲良くなったのね。まるでお兄ちゃんが出来たみたい」
昨夜のミスを挽回するため、エイイチは細かな好感度を稼いでおきたかったのだ。しかしツキハの言葉が決定打となり、センジュは食べかけのパンにソーセージを押し込むと未練なく席を立つ。
「やってらんない。あたし帰る」
パンを手に大股で立ち去るセンジュを、ツキハもアヤメも止めはしなかった。これもまた狼戻館の日常によく見る光景なのである。エイイチにしても、ヒロインは様々な属性に分かれている方が攻略しがいもあるというもの。
「ごめんなさいエーイチさん。気を悪くなさらないで」
「いえぜんぜん。ところで、マリちゃんは?」
「マリは……ね。かわいそうだけれど、食事はいつも部屋で一人なの」
「そうなんですか……」
マリもたしかに“部屋から出られない”と言っていたが、それほどまでに病弱だったのかとエイイチも深刻な顔を見せる。ここがエロゲーの世界でよかった、とも。エロゲーならば、選択を誤らなければ結果はオールハッピーに決まっているのだ。
「それも含めて、わたくしはエーイチさんの仕事ぶりに期待しているのですよ。よろしくお願いしますね」
「仕事――はい、もちろん! 俺に任せておいてください!」
館に滞在して二日目。いよいよ本日からエイイチの仕事も始まる。ホラーゲームにあるまじき爽やかな朝は談笑と共に過ぎていった。
昼食に摂るからとアヤメにおにぎりを握ってもらい、やる気満々だったはずのエイイチは途方に暮れていた。なぜなら“滞在中の外出は決して認められない”とアヤメから厳しい言いつけを食らったからだ。
現に玄関扉はこうして施錠されており、扉をガタガタ揺らしていたエイイチはあきらめてエントランスホールへと戻る。
ではどうやって仕事をこなせばいいのか。エイイチの身分は“地質学者見習い”のはずだ。原作エロゲーでも毎日のようにフィールドワークへと繰り出し、美しい自然に触れながらヒロインとアオハル的に親睦を深めていくのだ。
仕方がないのでエントランス奥にある、玄関とは正反対に位置する扉を開けた。いわゆる裏庭スポットであり、整えられた芝と季節の花々が咲くまごうことなき屋外である。洋館の敷地内のため周囲を高い壁に阻まれてはいるが、他に地質を調べられそうなところもないのでエイイチは庭へ出た。
「さて、と」
近くの小屋を漁って園芸用のスコップは手に入れたものの、原作のエロゲーで地質調査を詳しく解説するシーンなど皆無。あくまで山の景観と館の背景を語り、ヒロインの悩みを引き出すための設定に過ぎないのだ。
「時間経過ですっ飛ばしてくれたら楽なんだけどなぁ」
イベントが起きない間も、たとえ描写されなくともこれが現実を生きる主人公の視点である。適当に土をほじくり返しながら、夕暮れが訪れるまでエイイチは裏庭で過ごした。
エイイチがただの土遊びに精を出し、ミミズに悲鳴をあげたり花を植え替えてみたりとそれなりに楽しんでいた頃――。
狼戻館の一室では、テーブルへ広げたノートを前に、正座したままエイイチを待つ少女がいた。
マリである。
日が落ちるに伴い、徐々に暗くなる部屋で一人。柔らかいクッションを敷いているとはいえ足も痺れている。
今度こそ自身の完璧な虜とするため、わざわざエイイチが好みそうなセーラー服っぽい清楚な服装を選び、当然スカートも太ももが露出する短めなものを意識した。
茶菓子においても甘いもの、しょっぱいものに辛いものと三種類を用意する徹底ぶりである。
そもそも【豺狼の宴】で主人公は、学校に通えないマリの“家庭教師”として館を訪れる。家庭教師の“先生”なのだ。
「エーイチくん。わたし、ゆるさないから」
数時間ものあいだ放置されたマリは、握りしめたシャープペンシルを力任せに叩き折った。
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