第四章 クローズド・ラビリンス【アヤメ】
#61
エイイチが狼戻館に滞在し、二十一日。
日常を取り戻したダイニングルームには賑やかな声が響いている。
「ほら、エーイチさん。もっとこっちへいらっしゃい」
「え、え〜? もっとですか〜?」
エイイチが身を寄せると、ツキハは自らのスプーンでポタージュを掬い、差し出す。
照れつつも「あーん」とスプーンに食らいつくエイイチの体たらくは、マリとセンジュの眉間に深いしわを走らせる。
「うまぁい! 濃厚で最高のスープ!」
「よかったわ。たくさん食べる男性は素敵ね」
わざわざ隣り合って座り、朝っぱらから人目も憚らず二人だけの空間を作り出しているエイイチとツキハ。マリもセンジュも思うところはあれど、ひとまず無視することに決めたらしい。
「素敵といえば、ツキハさん。昨夜はせっかく部屋に誘ってくれたのに……俺その、気づいたら寝ちゃってて。素敵な夜を何も覚えてないんですよね」
「な――!?」
ブロッコリーに突き刺したばかりのフォークをテーブルへ叩きつけてマリが立ち上がった。
愕然とする次女を一瞥するも、ツキハは余裕の笑みでエイイチへと向き直る。
「いいのよ、覚えていなくても。わたくしは気にしないわ」
「でも朝起きたら頭から芽がぴょこっと伸びてて。
「いいのよ、キノコみたいなものだと思えば。めずらしい話じゃないわ」
「キノコかぁ……なるほど」
なぜキノコならば“あり得る”などと納得できてしまうのか。エロゲーの基準を用いてもエイイチの判断は謎である。
判断を鈍らせた理由をあえて一つあげるなら、ツキハの格好だろうか。いつも格式張ったドレスを好むツキハが、この日は肩の出たゆったりめのカットソーにデニムパンツと、休日のJDのようなコーディネートをしているのだ。
ついチラ見を繰り返すエイイチが会話に集中できていないことは明白だった。
「な、なんか今日のツキハさん、いつもと違うっていうか。女子大生みたいですね」
「あら、これでも大学生よ。マリと同じで休学しているけれど」
「えっ!?」
「……なぜそんなに驚くのかしら」
「い、いや。深い意味はないです」
ツキハの目つきが鋭く変貌したのを見て取って、エイイチは恐縮する。化粧っ気も薄い、綺麗な顔立ちは非のつけようもない。べつに現役の女子大生でも十分に通用する容姿なのだが、その性格のせいだろうか。エイイチがもっとずっと歳上を想像してしまっていたのは。
甲斐甲斐しくエイイチの口もとをナプキンで拭ってやりながら、ツキハには心境の察しがついているらしい。
「失礼な話ね。これでも海で高校生にナンパされたことだってあるのよ」
「は? さっきから黙って聞いてりゃ、フカシこいてんじゃねぇぞ」
これには我慢の限界がきたとばかり、センジュがテーブルナイフの先端をツキハに突きつけた。
ツキハの瞳がいっそう薄く細まる。
「なんですって……? 末妹だからといって、何を言っても許されるわけではないのよ。センジュ」
「高校生からナンパとか無理があるっつってんだよ! 下手くそな嘘をエーイチに信じさせようとすんじゃねぇ」
「ま、まあまあ二人とも。ツキハさんくらい美人なら、飢えた男子高校生もそりゃ放っとかないって」
しかしここで、一度は口をつぐんだマリがセンジュに便乗する形で矛先をエイイチへ向ける。
「だいたいなんでエーイチくんは、さっきからお姉ちゃんの肩ばかり持ってるの。自分の立場忘れてないかな? あなたの責務は、わたしが王に至るためのサポートでしょ」
「あ? あたしにも勝てないくせに王とか笑わせんなマリ。馬鹿じゃねーの? おまえが王ならあたしは皇帝になっちゃうだろ」
「あなた達、狼戻館の当主を前に滑稽な発言はおやめなさい。恥ずかしい。今日のおやつを抜きにしてもらおうかしら」
醜い言い争いが続く。
すでに自身の食事を終えているガンピールは「グァ――」と大あくびをすると、前足で顎を掻いて丸く伏せる。
平穏な日常だった。館にもいつもの日々が戻ってきたのだ。
「ちょっ、みんな困ったな。はは。アヤメさんからも注意してくださいよ。……アヤメさん?」
傍らに立つアヤメのみが、感情の失せた顔で立ち尽くしていた。流線を描く前髪から覗く瞳で冷酷にダイニングテーブルを見下ろし、低い声で全員に問いかける。
「なんですか、これは」
苛立ちを孕んだ声だった。およそアヤメの口から発せられたとは思えない声音に、マリもセンジュも軽口を止めてぽかんと見上げる。
「狼戻館はいつから……このような脆弱に成り下がったのです?」
失望の眼差しは、雇い主であるはずのツキハにも容赦なく注がれた。静まり返るダイニングルームを見渡したアヤメは、手首へと巻かれた真新しい包帯に爪を立てる。カリカリと神経質に。憎々しげに。
慌ててエイイチが止めようとしたところで、踵を返したメイドは空いた皿も下げずに部屋を退出してしまう。
後には微妙な空気だけが残された。
「どうしたんですかね。なんか……アヤメさん、また傷が増えてたような」
解答を得ようと同意を求めるエイイチに、ツキハは首を振ってみせる。
「わたくしはアップデートしなくてはならないの。気になさるなら……エーイチさん、あなたに一任していいかしら」
「わかりました。様子も変だったし、ちょっと話を聞いてみます。仕事がんばってください」
「ええ。今度はね、ちゃんとしたエンディングを増やすつもりよ。これまでより希望に満ちた、最後をね」
何人ものヒツジの犠牲を、ゲーム【豺狼の宴】では主人公が至るBAD ENDのバリエーションとして描いている。狼戻館で犠牲が出るたびに、ツキハはアップデートを重ねて新たなBAD ENDを追加してきたのだ。
「いいですね! 完成したらまた続きをやらせてもらいますね」
次は違う。ツキハの変化は【豺狼の宴】にユーザーの満足度を高める結末を生むだろう。今さら売上に繋がりはしないだろうが、ツキハにとって大事なことなのだ。
しかし、現実の狼戻館の方向性は未だ定まらない。
そもそもどうしてアヤメに傷が増えるのか。地下より解放されたガンピールはここにいる。アヤメも当然認識している。自傷行為にもはや意味などないはずだ。ならば、なぜ。
ゲーム【豺狼の宴】最大の障害であり、最悪の展開と謳われる第四章。
ゲームはこの時点でアヤメと、黒狼に成り代わられたセンジュしか館の生存者はいない。アヤメはセンジュを殺害し、神皮こと黒狼を自らに宿して主人公の前へ立ちはだかるのだ。
すなわち“宴”はアヤメと執り行われる。
では、同じ道を辿りようがない現実は――。
◇◇◇
焼却炉奥にある茂みに隠れたスポット。他の誰も立ち入らないその場所で、アヤメは給仕服の上衣をはだけさせた。
剥き出しの、病的なまでに白い肩へとアヤメがナイフを押し当てる。肌を伝う鮮血が、わずかに膨らんだ胸へ到達すると、アヤメは前屈みになった。
墓石のような石塔にボタボタと血液が降り落ち、地中へ吸い込まれていく。
地下には何もない。何も存在しない暗い地下室に、落ちた血が広がっていく。
「……っ」
数多の怨念に支えられし魔性の館は、流れる血の一滴も無駄にはしない。狼戻館そのものが意思を持つかのように鳴動し、血に込められた念までも汲み取り、吸収するのだ。
狼戻館は変化する。その変化はアヤメがもたらしている。
ひび割れた石床を走る血液は、神経回路の如くアヤメと館を接続する。
「私が――。私こそが、狼戻館に」
エイイチがハーレムを築くために越えるべき最後の壁は、途轍もない高みへ到達しようとしていた。
今、現実がゲームを凌駕する。
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