#60

 大時計の隙間から差し込む光に撫でられ、エイイチのまぶたが持ち上がる。


「……〜〜んん……っと、よく寝たぁ」


 快眠、熟睡したあとの心地よい起床。ふかふかでもさもさ、それでいて温かい毛皮から頭を起こすのは名残惜しい。

 まるで何か重大な役目を終えたかのように深く眠るガンピールは、エイイチが寝顔をわしゃわしゃ搔いても起きる気配がなかった。


「あれ……てか、いま……朝? 俺たしか寝つけなくって夜中にここへ来たんだよな。そんで結局夜通しガンピール弄って遊んで、朝メシ食べなきゃって思いながらまたウトウト寝ちゃって」


 実際にエイイチが二度寝した時刻は、狼戻館滞在十九日目の昼前へ差しかかろうとしていた頃だ。そして現在は滞在二十日目の朝である。


「ま、丸一日寝てた!? やべぇ!」


 跳ね起きると、毛だらけになった服も構わず部屋を飛び出すエイイチ。


 仕事をサボってしまったこと、ツキハに“わからせる”などと啖呵を切っておきながらすっぽかしたこと。精巧すぎるラブドールに翻弄されたショックが尾を引いていたとはいえ、これには面の皮が厚いエイイチも血の気が引いた。


 滑るように梯子を下りながら、エイイチは「まずい、まずい」と繰り返す。

 エロゲーの貴重な一日を無為に過ごすとは言語道断。お宝イベントをスキップしてしまった可能性もある。それどころか全員の好感度が低下してもおかしくない失態だった。


 とくにツキハだ。強気に見せながら屈服を望む性癖の持ち主なのだ。エイイチの“わからせ”を本心では楽しみにしていたことだろう。誰より権力を握っているツキハが腹を立てれば、地質調査の任を解かれるかもしれない。

 つまりお払い箱だ。


「まずいってそれは……!」


 近頃の朝食の場であるダイニングルームへ急ぐエイイチだが、道中やたらと汚れた部屋が気になった。


「……なんだこりゃ、木くず?」


 掃除のやり残しだろうか。ここのところアヤメも忙しそうだし、多少のミスくらいあって然り。とりあえず一箇所にまとめておいて、のちに回収すればいいだろう。些細な手伝いでも、多少なりとも汚名返上のきっかけになる。


 エイイチは一つ一つ部屋を見て回り、失った好感度を取り戻すように木片をかき集めていった。




「お、おはようございまーす!」


 エイイチは努めて明るくダイニングルームへ入室するも、すでに朝食は終わっているようだ。


 一人椅子へ座っていたマリが、据わった目でエイイチを振り返る。静かに席を立ち、つかつか距離を詰めてきたマリは勢いのままエイイチの胸ぐらを掴み上げる。


「エーイチくん、よくも、よくも躊躇なく、わたしを封印部屋に叩き込んでくれたよね! 本物だったらどうするつもり!?」


 前後にガクンガクン首を揺すられながら、マリの怒りを理解できずに戦々恐々とするエイイチ。どう見ても常軌を逸している。


「こうして生きてるからよかったものの! そもそも確信あってのことだったの!? 一歩間違えば終わってた! まあたしかに結果だけ見れば――」

「マ……マリちゃんとりあえず力ゆるめてっ……ぐぇぇ……!」


 エイイチの顔面にチアノーゼが現れたところで、マリはパッと手を離した。戸惑いを隠せない様子で息を吐くエイイチへ、マリは唇を尖らせる。


「まあ……だから、その、結果を見れば、さすがわたしの眷属的な? 右腕って言うのかな。とにかく……お姉ちゃん相手によくやったね、エーイチくん」


 きっとエイイチの脳内には巨大なクエスチョンマークが三つくらい浮かんでいた。


 後ろ手に顔をそむけ、つま先をトントン床へ打ちつけるマリの姿は照れているようにも映る。さっきまで怒りを爆発させていたのに、直後の態度はデレた少女のそれである。

 それなりに兆候はあったが、ついにマリは気が触れたのだろうか。エイイチは心配になる。


「わたしは未来の王。エーイチくんはその近衛。成果を上げた臣下には、ちゃんと褒美を与えなくちゃだよね」

「お、おう」


 腰を折り曲げ、上目遣いでエイイチを覗き込み、蠱惑的に微笑んだマリは軽やかに反転する。


「今日はやらなくていいよ、下着洗い。ゆっくり休んで次に備えて」


 それは逆に褒美を奪われた形になるのではないか。しかし機嫌を直したマリへあえて水を差す必要もないだろう。エイイチはマリの気遣いに意見などはしなかった。




 サンルームのすぐ外では、アヤメが日課の洗濯物干しに勤しんでいた。エイイチの姿を認めると、作業の手を止め会釈をくれる。


「おはようございます、エーイチ様。お食事はすぐ提供できる状態にあります。お召しあがりになりますか?」

「ああ、いえ、仕事終わってからでいいですよ。すみません俺、めちゃくちゃ寝坊しちゃって」


 丸一日寝ていたことが果たして寝坊の範疇に収まるのだろうか。いくらアヤメでも呆れているに違いない。そして可能なら蔑んだ目をしたままメイド服のスカートを捲りあげて欲しい。

 反省と願望の入り混じった思考を繰り広げるエイイチも、アヤメはその体調に理解を示す。


「寝坊程度、気になさる必要はありません。想像を絶する消耗だったことでしょう」

「はぁ……消耗」


 自慰行為による体力の消耗でも心配されているのだろうか。しかしエイイチは突発的なアダルトシーンにも対応できるよう、常日頃からそういった行為を我慢している。


「エーイチ様のご配慮に礼を言わなければならないのは、私の方です。信じてくださったこと、ありがとうございます」

「い、いやいや礼なんて。こっちこそ、いつもありがとうございますアヤメさん。俺はバキバキなんで! いつでもお相手しますんで!」

「ふ……無理をなさらず。どうか本日はご静養を」


 意気込むエイイチをかわし、アヤメは頭を下げると仕事に戻ってしまった。


 あれだけ寝たのに、まだ休めと言う。エイイチは正直わけがわからなかったが、アヤメがいつも以上に優しいのは確かだ。




 眠り過ぎて鈍った体でも動かすかと、エイイチは裏庭の中央まで足を運んだ。さっそくラジオ体操に取りかかっていたところ、背中に軽い衝撃を受けてつんのめる。


「――っとと。危ないだろ」


 振り返る前から、衝突の相手が誰なのかエイイチには察しがついていた。庭をランニングするセンジュの姿は最初からずっと視界に入っていたし、背へ触れた腕や肩の小柄さで対象を推し量ることはできる。


「センジュちゃん?」


 背後でエイイチの服の裾を掴んで佇んでいるのは、やはりセンジュだった。赤い顔で俯き、口をへの字に結んでいる。トレーニングを中断して駆けつけるとは、ストイックなセンジュにしてはめずらしい。


「あ……あのさ。あたしのアレ……秘密にしてね、ぜったい」

「アレって?」

「わかってんだろ。エーイチには……恥ずかしい姿、さらしちゃったから」


 センジュの歯切れは悪い。マリほどではないにせよ、センジュの恥ずかしい姿と言われても様々だ。手を顎に思いを馳せるエイイチなのだが、今にも泣き出しそうなセンジュへの対応は決まっている。


「大丈夫。秘密にするから、安心しな」


 エイイチが金髪を撫でてやると、センジュはようやく顔を持ち上げた。尖った犬歯を覗かせ笑い、首にかけたヘッドフォンを耳へ装着する。


「あたしさ、部屋でチルってるから、その……よかったらエーイチせんせも、まったりしに来れば?」

「じゃあ、あとでお邪魔しようかな」

「へへ。……あとさ、えっと、今日くらいは――」

「うん?」

「“エーイチお兄ちゃん”って、呼んであげてもいいよ?」


 袖で顔を覆うセンジュは、汗を拭うというよりも上昇し過ぎた熱を冷ましているように見えた。


 センジュが去ったのちも、エイイチは庭へ立ち尽くしていた。三者が三様とも、間違いなくエイイチへの好感度が高まっている。一日寝ていただけなのに、何があった。


「奇跡、か」


 ともかくこの調子ならば一番の懸念、約束をすっぽかしてしまったツキハもなんとかなるかもしれない。

 エイイチは勇んで書斎へ向かう。




「ツキハさーん! 昨日は本当すみま――あれ?」


 書斎にツキハは不在だった。デバッグルームをノックしてみても返事はない。裏庭にも見当たらなかったし、この時間にツキハの所在が知れないのは稀なことだ。


「うわぁ……ここも汚れてるな」


 知らないのだ。書斎に散らばる木片が、元はエイイチ自身のドッペルだったことなど。ツキハの策略を暴き、エイイチの意向に反することなく住人全員を生存させた立役者がその木片だなどと、いったい誰が気づけるだろう。


「ともかく掃除しておくか」


 他の部屋と同様に、エイイチは木片をかき集める。ふと粉々の木くずを手のひらへ乗せ、じっと見下ろす。


「うーん……」


 長いこと木片を見つめていたエイイチは、拾い集めた木くずをせっせとポリ袋へ詰めていくのだった。



◇◇◇



 ツキハが自室より顔を出したのは、日も高く昼前になってからのことだ。眠っていたわけではないが頭は重く、色のない瞳は思考を放棄しているかのようでもある。


 昨夜、ドッペルが示した可能性をツキハはどう受け取ったのか。あるいはまだ、受け止めきれていないのか。


 いずれにせよ閉塞された場所へは気が向かず、サンルームより外へと出る。無意識に陽の光を、吹き抜ける爽快な風を求めていた。




 裏庭に洗濯物を干すアヤメや、ランニングをするセンジュの姿はすでにない。代わりに、広い庭の中心部で屈む人影がある。

 エイイチだった。


「……何をしているの?」


 エイイチは掘り返した苗木の根本に木片を撒いている。指先は真っ黒に土汚れて、陽を浴びる背中は汗でうっすら透けている。

 撒かれた木片がドッペルの残骸であると、ツキハはひと目で見抜いていた。


「あ、ツキハさん。いやこれね、もしかして使えるんじゃないかなと。なんとなく思って」

「使える?」

「ほら、腐葉土ってあるじゃないですか。木を成長させるのに、なんか栄養豊富そうだなーって見えたんですよね」


 たしかに木くずを堆肥として撒くこともあるが、苗木はただの木ではなく“希望”の名を冠した霊樹である。いや……だからこそ“ただの木くず”などではない木片を撒く行為は理に適っているのかもしれない。


 何かを悟っているようなエイイチの言動には、不思議と説得力がある。

 たった一人でツキハに打ち勝って見せたドッペル――そのコピー元。オリジナル。昨夜ツキハが垣間見た聡明さも、瞳に秘めた打ち震えるほどの激情も、今のエイイチからは感じ取れなかった。


 ドッペルは本来の人物のパーソナルを忠実に再現する。それは確実だ。だが決して同一たり得ない。何故か。


 それは“ドッペルは自らをドッペルと認識している”から。これに尽きる。


 たとえオリジナルとまったく遜色ない日々を歩もうとも、初めから自分はコピーに過ぎない存在だとわかっている。エイイチと同じ人格が形成されるわけがないのだ。


 逆もまた然りで、エイイチが“あのドッペル”に迫る本性を持つとは限らない。

 エイイチが作られた存在であり、さらにその事実を知る。もしそんな荒唐無稽な現実にでも見舞われれば、ドッペルの心情に近しいものが芽生え、あのように変貌する可能性はあるだろう。


 いずれにせよ、夢想に留まる話だ。


「これでよし……っと。大きくなってくれるといいですね! あ、それより昨日すみません。俺、ツキハさんとの約束破っちゃって……」


 手を叩いて汚れを落とし、顔を俯かせるエイイチ。

 見据えるツキハは、昨日と同じ疑問を思い浮かべる。エイイチはいつから入れ替わっていたのか、と。突き詰めれば答えは出るだろう。けれど結局、ツキハは思考を止めてしまう。


 エイイチはツキハの目論見を破った。最良を超える結果を残した。事実はこれだけで十分だ。


 エイイチから外した目線を、ツキハは高く上げる。

 空は抜けるように青い。思わずエイイチも見上げてしまうほどに。あの日の空は、どのような色だったろう。


「花……咲くかしらね」

「はい。この木はでっかくなりますよ、ぜったい」


 数年後に天空へと伸びる大樹の姿が、二人の瞳にはたしかに映っていた。狼戻館の庭で勇壮に咲き誇る姿が、たしかに。


 緩やかな風が吹く。

 苗木に添えられた風車がカラカラと音を立てる。エイイチとツキハが描く“希望の樹”の未来を肯定するかのように、褪せた色紙は回り続けていた。

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