#43
床板がギシリと悲鳴をあげる屋根裏の通路。時計塔の部屋へ続く長い廊下で、マリはアイナを待ち伏せていた。
アイナが館に侵入した賊であることは明白。戦うことが目的ならば、わざわざ“掟破り”の不利を背負う馬鹿はいないだろう。狼戻館には貴重な呪物や宝具、書物などが眠っているわけだが、足跡を確認する限り何かを探している可能性が高い。
ならば闇雲に捜索するよりもまず手かがりを求めるはずだ。館中に蛾を放ったマリは、監視の目が充実したルートをあえて辿るはずという、
結果として、まんまと屋根裏へアイナをおびき寄せることに成功したのだ。
ゴリラと揶揄されるマリにしては冴えた作戦だった。
だからこそ今、こうしてドヤ顔をさらしているのである。
「わたしね、あなたに用があるの」
余裕たっぷりに胸をそらすマリを前にして、けれど誘い込まれたアイナもまた髪の枝毛を気にして指先で弄くり、互いに緊張感は欠けていた。
「へぇ、単独のご指名? うちも有名になったのかなぁ。でも残念だけど、うちはあんたみたいな無名に用はないんだぁ」
マリのこめかみに血管がピキリと走る。短気ゆえ、余裕の表情もそう長くは保てない。
事実、アイナの第一目標は神皮の確保である。個人の感情としてはエイイチの排除を優先したいところだったが、復活した神皮を目の当たりにしては優先順位も変更せざるを得ない。
「そ、そっかそか。じゃ、じゃあわたしなんか簡単に負けちゃうかもね。あー“祝詞”とかに弱いし、わたし。“祝詞”とかあげられたらすぐ負けちゃいそう」
震える声でなんとかプライドを押し殺し、当初の予定通りに事を運ぼうと試みるマリ。しかし大根役者も真っ青な棒読みは、アイナに警戒心を芽生えさせてしまう。
「祝詞? ……ふぅん、ホントにうちのことよく調べてんだぁ。――ねッ!」
アイナが交差した両手を前方に振り抜いた瞬間、二つの風切り音がマリめがけて飛び交う。マリが咄嗟に拳で弾き飛ばすと、壁に細長い二本の鉄芯が突き刺さっていた。
「な、なーにこれ? こんなクナイみたいなやつじゃなくて、祝詞を――」
「クナイだよぉ。うち、伊賀の末裔だからぁ」
綿毛のように跳び上がるとアイナは壁面を斜めに駆ける。立体的な機動に驚いたマリが目で追いかけると、アイナは壁を蹴りさらに高く跳躍した。
直上からの急襲にマリは慌てて頭部を守る。アイナのクナイに腕を深々と抉られ、痛みに耐えながら反撃の右を繰り出す。
大振りのライトフックは虚しく空を切り、後方に宙返りしたアイナはすでに十分な距離を確保していた。
即、暗器の二射が飛んでくる。
「くっ……!」
たまらずマリは背に翅を展開させるも、廊下は狭い。飛翔は安定せず、クナイに翅を撃ち抜かれてすぐに失墜した。
床を舐めるマリの無様を見下ろし、実力差に確信がもてたのかアイナは笑みを浮かべる。
「屋外ならまだヤれたかもねぇ。安心してうちの名声の糧になってよぉ」
マリの手がわなわなと震え、床板に食い込む。
引きこもっていたからこそ猟幽會に名は知られていなかったが、マリとて狼戻館に名を連ねる化物。次期当主を謳うからにはそれに見合うだけの自負と覚悟があった。
「ちょこまか、ちょこまか。わたしは、祝詞を……あげろって……」
片膝をつき、マリは体を起こす。握り込んだ拳を、立ち上がり様に天空へと全力で突き上げる。
「……――言ってるのにッッ!!」
剛腕が放つアッパーカットは宙空に破裂音を轟かせる。火山の噴火と同様に小規模の“空振”を引き起こし、マリの拳を中心に発生した衝撃波が円形へと広がる。
「な――!?」
凶悪なソニックブームは回避も防御も関係なく、四方の壁ごと粉砕しながらアイナを屋根裏廊下の端まで吹き飛ばした。
ガラガラと崩れる石灰岩の壁材を踏みしめ、マリはうずくまるアイナへにたりと笑みを返す。
「ごめんね。猟幽會の人って脆いから、加減が難しい。素直に祝詞あげればよかったのに」
歯をぎりっと噛んだアイナが、ダメージなど受けていない体で跳ね起きる。だが額からは少なくない量の流血が見られた。
「……うるさいなぁ……そんなに祝詞聴きたいならさぁ、聴かせてやろっかあ――!」
挑発に乗ってきたアイナを見据え、マリはキタ! と通信用の蛾を手に身構える。
その直後の出来事だった。ボロボロの床板を突き破って間欠泉の如く黒い影が突如噴き上がり、睨み合うマリとアイナのちょうど中間にズダン! と着地したのだ。
「ひぃぎあああああ!?」
「いゃああああああ!?」
予想だにしなかった事態に仰天し過ぎたマリが絶叫し、アイナはその声にびっくりしてみっともない悲鳴が重なった。
やかましい二人へ向け、ガンピールは威嚇するように「ガルル……」と喉を鳴らす。
はしたなくビビってしまった己を恥じつつも、マリは“勝った”と自信を深めた。すでに独力でアイナを圧倒していたところ、底知れない力量のガンピールが加われば敗北する方が難しい。
一人でも十分に勝てる。けれど狼戻館にルール無用を挑んだ以上、完膚なきまでボッコボコに後悔させてやるのが流儀。このマリの考え方はアヤメに近しいものがある。
「ひひ。見つけたぁ!
だが先立ってガンピールを手招きしたのはアイナだった。思いがけずな勧誘を目の当たりにし、マリに焦りが生まれる。
「な、なに言い出すのあなた。この子は
「はぁ? 柴ぁ? 意味がわかんないんだけどぉ……。あんたらのこと、神皮は恨んでる。当然だよねぇ、あんなとこに閉じ込めてさぁ」
そもそもガンピールの存在自体知らなかったマリにとっては寝耳に水だ。反論できずにいるとアイナはここぞと黒狼にアピールする。
「うちらとおいで、神皮。そうすれば、昔みたいに思いきり暴れられるよぉ。化物も何もかも、気に入らないものは全部ぶち壊して。神のように畏れ崇められて――!」
「こ、こっちにはお肉とかいっぱいあるんだから! 広いお庭もあるし、エーイチくんだって毎日遊んでくれるよぜったい!」
果たしてガンピールは――。
醜い争いには興味がないとばかり、マリが破壊した壁から月夜を見上げていた。
柔らかく降りる月光が、漆黒の毛並に神々しい輝きを纏わせる。
ガンピールは耳をそばだて、声を聞いていた。自身を呼ぶ、少女の声を。夜空に向けて真っ直ぐに伸び上がり、応えるかの如くけたたましい遠吠えをあげる。
「ひぃぎあああああ!?」
「いゃああああああ!? ――い、いちいち叫ぶな心臓止まるでしょぉ!? もういい、邪魔すんなら祝詞でおまえから排除してやる……!」
「ハッ……!? 祝詞! “エーイチくん、聞こえる”――!?」
記憶に残る、広大な森での出会い。
孤独だった黒狼と少女があの日見上げた空にも、今日のような月が出ていた。
本当に神と呼ばれることなど望んでいたのか、生贄など欲していたのか。
何よりこの記憶は、いったい
◇◇◇
歩み寄った少女は、それでも触れたりせずにただ黒狼とすれ違った。
きっと似ている。どちらが思ったのかはわからないし、互いにそう思っていたのかもしれない。
もう少女に敵意はなく、黒狼も牙を剥いたりはしなかった。
しかし、抗えない衝動がある。
異形を滅すること。それこそが少女の使命。
それ
「――――ッ」
再び胸に殺意を宿した少女が、振り向きざまに目撃したのは大口を開けて迫る黒狼の牙だった。
ああ――こいつはまるで鏡みたいだ。とはどちらが抱いた感想だったのか。
深々と胸を抉られ、四肢をもがれ、内臓をすり潰され、血を啜られる。不思議と恐怖はなく、感慨すらも湧かずにあるがままを受け容れる。
痛みすらも溶けて混ざり合うような心地よさを覚えながら、遠く意識が薄れていった。
少女が目覚めたときには、探し求めていた洋館が目前に佇んでいた。
横たえていた体を起こし、確認するも損傷はどこにもない。では黒狼との一幕は幻だったのだろうか。
違う。胸に手を当てればわかる。あの黒狼は
脈動する心臓の迫力がこれまでと異なる。くまなく全身を巡る血液は激流の如く、熱く少女をたぎらせる。止めどなく溢れてくる力が、逃げ場を用意してやらなければ今にも破裂してしまいそうに感じた。
嘘ではない。
その証拠に――強者が蠢く狼戻館の住人を、少女は単独で五名も撃滅したのだから。
「……あは、あははは! 雑魚ばっかり。ほんっと楽な仕事。ははは――……は、は」
言葉は、人格は、少女のものなのだろうか。
返り血に染まった手のひらを見下ろす。
内側から喰らうつもりなのだ。少女はなんとなくそう思った。
別にそれでもよかった。使命を果たすための力をもらえるのなら、この小さな体一ついつか喰い尽くしてくれて構わない。
本心だった。
なぜなら、少女には何も――……。
◇◇◇
背中から衝突した壁は砂糖菓子のように崩壊し、センジュは廊下に投げ出された。絶苦の蹴りを腹へまともにもらったのだ。たったそれしきのことで胃液と血を撒き散らし、手も足も痙攣して動かない。
「……まだ息があるか。煩わしいな、X10」
崩れた壁から姿を見せる絶苦の声も、センジュにはほとんど聞こえていなかった。
黒狼の力をもっとも強く授かるはずの満月でも、ご覧の体たらくでは死期も近い。自身の最期を予感してなお、センジュは穏やかな笑みを形作る。
いずれ自分が消えることはわかっていた。その時が来ただけだ。
ガンピールが封印されている間は気が気じゃなかった。日々弱まっていく様子が手に取るようにわかり、このまま完全に失くなってしまったらどうすればいいのかと不安で仕方なかった。
黒狼の封印が解かれた今、センジュがどれだけ安心したか。これでもうガンピールの思い出作りに頭を悩ませる必要もなくなるのだ。
今さら一人では生きられやしない。生き方もわからない。自身が消失したあと、黒狼の好きに体を使ってもらった方がよほど有意義だ。
これはセンジュの本心なのだ。
なぜなら、少女には何も――最初から自我など存在しなかった。
「ちがう」
はっきりと否定の言葉に、センジュは薄く目を開ける。霞んだ視界が、やがて一つの像を結んだ。
「……エー、イチ……」
屈んでセンジュを見下ろしていたエイイチは、背中越しに絶苦へ向けて声を震わせる。
「ちがうだろ、こんな……ふざけんなよ。矜持はどうした。竿役としての、矜持だよ」
大真面目に問いかけていた。
アダルトゲームの世界だ。最悪、寝取りの竿役が介入することはあってもいい。心してヒロイン達を守ればいいだけだ、とエイイチは思っていた。
しかし【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】で描かれるのはハートフルな純愛ストーリー。身悶えするようなテクニックでヒロインを支配するならまだしも、度を超えた嗜虐的な暴力など到底容認できるものではなかった。
原作にそのような描写が許される下地はない。ユーザー層から変わってしまう。つまり――。
「あんたみたいなのは、この世界にいらねえよ」
立てかけていたトーテムポールを肩へ担ぐと、エイイチは絶苦を睨みつける。ここまでの怒りを覗かせるのは、おそらく初めてのことだった。
「……エーイチ……気を、つけろ、そいつは……」
「大丈夫。怖いおっさんには出てってもらって、すぐに手当てしてあげるから」
そして、先ほどからエイイチの頭に響いていた祝詞が止まる。直後にマリの声が届く。
『――ちゃんと最後まで聴いてた!? エーイチくん!』
「大丈夫だよマリちゃん。なんだかわかんないけど、全部聞こえてたから」
『ほんと? わたしのおかげだからね!』
いつもの演技さえ忘れてはしゃぐマリ。
エイイチはふと頭にへばりついている存在を意識してしまい、全身が粟立つ。けれど今は努めて無視することに決めた。
かつてない憤りに衝き動かされるエイイチも、化物を相手取る猟幽會にしてみれば所詮ただの人間でしかない。鋭い眼光に気圧されるはずもなく、絶苦は白手袋を引き締めて無表情に告げる。
「煩わしいな……ヒツジ風情が。何者かなどどうでもいい。貴様には“根源の恐怖”を見せてくれよう」
『え?』
「エーイチ……そいつは、絶苦は“人の恐怖を増幅”させる、だから……!」
『え?』
さて、マリの誤算は二つあった。
一つは絶苦の宣言とセンジュの忠告通り。常人ならばものの数分で発狂死するほどの“恐怖”を操る敵を前に、エイイチの呪いを解いてしまったこと。
さらにもう一つ。
『――掛けまくも畏き祓戸の大神等――』
『あいたたたた!? ちょっ、ちょっと待っていったん待って頭割れちゃう!!』
祝詞の垂れ流しは、マリ自身も多大なダメージを負ってしまうという割と致命的な二点である。
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