#44

「“恐怖”を武器にするって……嘘でしょ、そんな」


 制圧したアイナに馬乗りとなり、両手でその口を塞ぎながらマリは己のやらかしを悔いていた。絶望的な心境からマリの表情は険しく、もがもがと暴れるアイナを見下ろしていたのだが――ふと思い出す。


「待って。エーイチくんはたしか、オオカムヅミの実を二つ持ってた。つまり」


 月の波動の影響か、今夜のマリは冴えているのだ。

 さっそく通信機代わりの蛾を生み出し、嬉々としてエイイチへ告げる。


「“よく聞いて、エーイチくん。その猟幽會の男に何かやられて怖い思いをしたら、すぐにトーテムポールの表裏を見て。事が済んだら持ってる実を食べて、わたしに合図をちょうだい”」


 今一度エイイチに恐怖を忘れさせ、猟幽會を排除させる。戦闘力が皆無なことくらいマリも承知の上だったが、エイイチならばなんとかするだろうという根拠なき信頼があった。

 その後エイイチの合図を待ち、アイナに再び祝詞をあげさせる。これで呪いのアフターケアも完璧である。


 計画の隙の無さにうっとり微笑んだマリは、怯えるアイナなど気にも留めずふいに辺りを見渡した。


「あれ……ワンちゃんがいない……?」




 決戦の狼戻館、二階の廊下奥。

 絶苦と対峙するエイイチは、マリの指示を本当に理解したのか、うわの空に虚空を見上げている。


「……馬鹿、だな……だから、逃げろって、言ったのに……」


 背後のか細い声にエイイチが振り向くと、床に倒れたセンジュは自嘲の笑みを投げやりに浮かべる。まるで捨て鉢だった。


「ま……先に、消えるのは、あたし……か」

「センジュちゃんがそう選んだの? そんなにこの館に残るのは嫌なのか?」

「……嫌とか、そんなんじゃ……。でも、安心しろよ。エーイチ……もし、おまえが生き延びたらさ……ちゃんと、あたしはここ・・・・・・にいるから・・・・・


 言葉とは裏腹に、センジュの虚ろな瞳からは生への執着や未来の展望など捨て去っているかに見える。


「なんか……性格とか、変わったな、て、感じたとしても……それは、あたし、だから」


 原作【豺狼の宴】においても、二章でセンジュの魂とも呼ぶべき自我が消滅するのは“正史”である。センジュか、センジュではない何かか。原作では入手した極小の鉄棒をアヤメに渡すかどうかで分岐する。言うまでもなく、小さな鉄棒とはエイイチも拾ったガンピールの封具を解く鍵となる。

 どちらを選ぶかはプレイヤーに委ねられるわけだが、エイイチはすでにそうとは知らず選択してしまっていた。


 すなわちガンピールを選んだ。

 過去に血肉が混ざり合ったと思しきセンジュと神皮は、互いに分け身の如き存在。地下の石牢で衰弱していたガンピールは解放されたのち、みるみる活力を取り戻していった。センジュの生気を吸い上げるように――。


 ただし、述べたように原作でもこれが正史。【豺狼の宴】では神皮について匂わせ程度のフレーバーテキストしか用意されていないため、原作主人公及びプレイヤーは三章からガラリと変貌するセンジュをただただ不気味に思う他なかったのだ。


 これまでのセンジュの行動から別人格のようなものを予想は出来ていても、正体にまでは辿り着けないもどかしさ。ゲーム後半で複雑なフラグ管理のうえようやく垣間見れる地下牢には、何かが繋がれていたという痕跡だけが残り神皮の姿は拝むことも叶わない。


 そう考えればエイイチは恵まれている。考察するに十分な材料は揃っている。無能でなければ至るはずだ。センジュとガンピールの同一性の真実に。有能揃いなエロゲー主人公を目標に掲げるなら気づかなければならない。


「……わからないな」


 しかしエイイチは無能極まる台詞を吐いた。

 本当に意図を飲み込めないといった様子で首を傾げ、体ごとセンジュへ向き直った。


「……そうか、よ……べつに、いいよ、もう……」


 センジュは期待していたのかもしれない。自身の境遇や運命を、もしかするとエイイチなら理解してくれるかもと。救われなくてもいい。最後の瞬間、ただ想いに寄り添ってもらえればそれでいいのだと。

 期待の分、だからこそ落差も激しく。ここではっきり失望したのかもしれなかった。


 エイイチはトーテムポールの重みによたよた足をもつれさせながら、倒れるセンジュに歩み寄る。


「センジュちゃんはさ、なんかちょくちょく二重人格っぽいしぐさとか見せるけど……」


 肩に担ぐトーテムポールの先端が、壁にゴンと触れた。センジュの視線が誘導されるかのようにそちらへ向く。

 直後のタイミングで、エイイチは両手でトーテムポールを抱き直す。ぴたりと百八十度回転した鳥面を、期せずセンジュは再度見てしまった。


「あ……」


 目を見開いて硬直するセンジュ。奪われるのだと気づく。


「……ぃ……い、や……」


 もっとも大きく、強い感情。想い。ここへきてセンジュは自身が何を失ってしまうのかようやく理解し、内から悲鳴をあげたのだ。


「いや、いやだ……あた、あたしは――……消えたくない……消えたく、ないよ……」


 決して捨て鉢なんかじゃなかった。一人で生きる自信がないからといって、消えてしまうことを簡単に受け入れられるわけがない。仕方がないことだからと、納得した体で無理矢理取り繕っていたに過ぎない。


 元々、自己肯定感の低い少女だった。

 言われるがままに異形を狩り、湧き上がる疑問は“使命”の名で封殺して生きてきた。今さら自分一人助かりたいなんて許されるはずがない。


 強烈な自己愛が芽生えるのは、だから当然の成り行きと言えるだろう。誰も許してくれないのなら、自分自身で肯定するしかなかったのだ。


 センジュは知らなかった。

 己がこんなにも醜い我欲に溢れていることを。

 エイイチさえいなければ、きっと醜悪な感情を直視することもなく気高い最期を迎えられるはずだった。


「た……す、け……」


 けれど――。


 境遇を重ねただけの、黒狼の消失を心から憂いていた少女なのだ。狼戻館に迷い込んだヒツジを、可能な限り生存へ導こうと働きかけてきた少女なのだ。

 その優しさで自身をひっそりと慰めていたとて、誰が咎めることなどできるだろうか。



 エイイチへ向けて伸ばされた手が、床へと落ちる。

 やがてセンジュは、わずかな動きさえ止めてしまった。虹彩の輝きは消え、表情も無となりただ横たわるだけの置物と化した。


 開ききった瞳孔に映し出されたエイイチは、動揺するでもなくセンジュを見下ろしていた。


「別人格だとか、そういうの。センジュちゃんに最初から・・・・無かった・・・・よ」


 エイイチは屈んで、物言わぬセンジュの口元へ触れる。


 振り返るに、変声したマリを一撃で見抜いた男である。抑揚や息遣いで、センジュの小生意気なもう一つの人格が“無理に作られたもの”であることはわかっていた。

 つまりは“演技”であると。

 熟達したエロゲーマーは、顔に差すわずかな赤みや微かな恥じらいの所作も見逃さない。


 だからもしエイイチが、これまでのセンジュの軌跡を知ったとしてもおそらくこう諭すだろう。


 ――ガンピールがセンジュちゃんを乗っ取ろうとするはずがない。そんなものは全部“思い込み”だ。


 期間はたかが知れていても、たとえエイイチがそうと気づいていなくても、狼戻館住人との生死入り混じる邂逅は単純な時間で測れない濃密さがあった。エイイチには、住人へのある意味絆とも呼べる信頼があるのだ。


 そしてそれは芯を食っていた。


 実際、ガンピールにセンジュの人格を上書きする能力がないわけではない。【豺狼の宴】正規ルートにおいてはセンジュが自ら自我を手放し、廃人と化した結果しかたなく・・・・・ガンピールはそのパーソナルを引き継ぐことになる。


 だが現状のセンジュに対し、ガンピールがその能力を行使する理由はない。境遇を重ねて憂いているのは、分け身の存在にしても同じだからだ。

 以前よりガンピールが増強していることについてもそうだ。センジュの生命を吸い取っているのではなく、単に“時流し”の五十年によって力が蓄えられたに過ぎない。


 時に“思い込む力”が事実すらも捻じ曲げることは先のエイイチが証明している。エイイチは“思い込み”をプラスに転じて活用したが、センジュはその逆だった。この真相に本人が気づかない限り、いくら救ったところでいずれ訪れる衰弱死は免れなかったのだ。


『――エーイチくん、応答して! そっちの状況はどうなってるの、いったい!』


 さりとて。長い遠回りの末、やっと本当の自分に出会えた少女は本編同様に壊れてしまった。

 もはや取り返しはつかない。


「心配いらないよ、マリちゃん。大丈夫だから。こっちの準備はできてる」

『え!? もうケリついちゃったってこと? じゃあ祝詞あげさせるから、待ってて!』


 エイイチは頭の蛾を掴み取ると、放心するセンジュの隣へそっと置く。

 立ち上がり、トーテムポールへ目を向けるも壁へと斜めに手放した。これで身軽になったと肩を回し、再び絶苦と相まみえる。


「長いこと手を出さないでいてくれたんだな。ちゃんと悪役のお約束を守ってくれたことだけは感謝するよ」

「……興味深くはあった。だが、無情。たとえ貴様が本物のA1だろうとも、ここで死ぬ定めに相違はない」


【豺狼の宴】で絶苦が登場するのは、ワンシーンのみである。すなわち選択によりガンピールを解放しなかった場合に分岐し、二章最後のBAD ENDへと繋がっていく。

 そのBAD ENDルートにてセンジュと原作主人公の両名を葬り去る男こそ、絶苦なのである。


 無作為に前進するエイイチを見据え、絶苦は白手袋を外した。絶苦の生身の手は、血が通っていないかのように真っ黒く鬱血して見えた。


 絶苦の手は黒い噴霧を放出し、濃い闇がエイイチの周囲にまで広がる。瞬間的な前後不覚に陥るほどの闇に四方を閉ざされ、エイイチの足が止まる。


 対異形にはまるで効果の見込めない“時流し”など、いわば児戯に等しい所詮お遊び。絶苦本来の恐ろしさはこの術にある。


 恐怖への耐性、恐怖を抱く対象に個人差はあるだろう。だが絶苦の見せる恐怖は現実と幻の境界を曖昧にし、生物が持つ根源的な忌避感を画一に呼び覚ます。


 死、苦痛、孤独、嫌悪――。


【豺狼の宴】主人公は一歩を踏み出したのち、二歩目を刻むことなく座り込み、そのまま死ぬまで立ち上がることはなかった。

 かつて猟幽會の一人が戯れにこの術を受けた際は、嗚咽をもらしながら五つ歩んだもののそこが限度。最後には泣き腫らした顔で土下座まで披露し、術を解くよう絶苦に懇願した。

 同じく過去に体験したセンジュに至っては途中で失神、実に三日も目を覚まさなかった。


 エイイチの眼前にも同様の地獄が広がっていることだろう。重たく持ち上げた足を踏み下ろすと、エイイチは二歩、三歩と歩き進んだ。

 この男ならばありえなくはない、と。ここまでは絶苦の想定内におさまっている。

 が――どういうわけか、エイイチの歩みは加速したのだ。


 宇宙の只中の如く、広大で真っ暗な世界に閉じられて。敷き詰められた無垢な赤子を踏み潰し、腐敗した血溜まりを踏み進む。腐った汚泥は皮膚より浸透して内臓へと達し、骨まで蝕み激痛を引き起こす。やがて爛れた皮膚が剥がれ落ち、何処から飛来した幾本もの針の雨がむき出しの筋繊維に突き刺さる。


 炎を纏う旋風によって全身に火が点り、四肢がもがれ吹き飛ばされてもエイイチの勢いは衰えない。

 一切の光も希望も遮断された永遠の暗黒にいるはずのエイイチは、傍目にはつかつかと軽快に絶苦との距離を詰めていく。


 最短で突き進んでくるエイイチに、むしろ面食らうのは絶苦だった。


 人も異形も、何者も突破不可能だったはずの無間地獄。これがトーテムポールの呪いの力によるものだとすれば、結果を予測できたのは策を授けたマリくらいのものだろう。


「エー……イチ」


 思わず絶苦が呟いた瞬間、顔を伏せていたエイイチがおもむろに面を上げた。熱を帯びた大量発汗のせいか陽炎の揺らぎの中で、極限に見開かれた瞳が真っ直ぐに絶苦を射抜く。


 絶苦はあきらかに狼狽し、後退した。恐怖を振りまく者として、よくわかる。

 絶苦はエイイチの眼光に初めて恐れを抱いたのだ。


「俺は“エイイチ”だ……って、何べん言ったら、わかんだよ」


 “うちはアイナだッてんだろ”

 “あたしはセンジュだ”


 どこか遠くから絶苦の胸中に去来する思いがあり、浮かびそうになった映像をハッと開眼して追い払う。間合いに飛び込んでおきながら無防備なエイイチを見下ろし、絶苦はその頭頂めがけて拳を振り上げた。


 恐れなど覚えさせられた屈辱を捨て置いても、この男を生かしておくのは危険過ぎる。

 奇しくもビーチと同じ結論に達した直後。絶苦の側面の壁が爆音と共に崩壊し、巨躯を俊敏にしならせた黒狼が二人めがけて飛び出した。


「グガアアア――ッ!」


 ガンピールはその大顎で絶苦の拳に喰らいつき、頭を振って引きちぎる。同時に、すでに・・・気絶していた・・・・・・エイイチへ体当たりをかまして絶苦と反対方向に突き飛ばした。


「神皮か……!? ぐっI7は――」


 黒狼の影を追った絶苦は、気づくのがほんのわずかに遅れてしまう。絶苦の真正面にはセンジュが立っていた。

 センジュは片手を天高く振り上げ、流体と化す腕が湾曲した赤い刃を形成する。



 もう生きることに迷いのない、戦士の瞳をしたセンジュに絶苦は打ち震えた。

 月明かりに浮かぶ刃は、ゾッとするほど美しく――感触は冷たいものだった。

 それが絶苦が今生で抱く最後の感想となった。


 ゆっくり斜めに視界が傾いていく。そのまま横倒しとなり、景色が空へ昇り始めると、頭がゴトンと床を叩き、絶苦は自身の首が落ちたのだと悟った。



◇◇◇



「エ、エーイチくん!? 生きてる!?」


 アイナの首根っこを引きずって二階まで下りてきたマリは、倒れるエイイチを発見すると雑に伊賀の末裔を放り捨てた。

 そばまで駆け寄ったものの、どうしてセンジュが膝にエイイチの頭を乗せているのかわからず、何より腹の立つ光景だった。


「静かにしろよ。息はしてる」


 こちらには目もくれず、センジュはエイイチの額に手を置いている。マリは大いに不満だった。


 エイイチが生きているのならば、猟幽會は撃退できたということだろう。だとしたら立役者は自分であるはずだ。自尊心を得たマリは、ここぞとばかりに胸を張る。


「わたしのおかげだね。わたしが機転を利かせたおかげで、エーイチくんもあんたも――」

「こいつはさ、エーイチはたぶん……呪いを受けてない」


 センジュの言葉を受けて、固まるマリ。いや、そんなはずはないと反論する。


「あ、ありえないでしょ。だ、だって恐怖に打ち勝ったって……“準備はできてる”って言ってたから、わたしは祝詞をあげさせて……」

「祝詞は聴いてたよ、あたしがずっと。じゃなきゃこうして生きてない。にしたって、きっと……」


 センジュが目覚めてすぐ、濡れた唇に触れると果実特有のベタつきを感じたのだ。それがなければ失った自我を取り戻せたはずもない。


 しかし、この期に及んでマリはまだ納得していないようだ。


「待って。わかった。呪いの解法はあんたに譲ったとして、それでもエーイチくんがまた呪いを受けてないって証明にはならないよ。なにせ、わたしの策なんだし。試しに蛾を顔に乗せてみればすぐ――」

「どうでもいいけどそんなもん後にしろよ。見てわかんないの? エーイチはまだ眠ってんだろ」

「ぐ……むぅ……」


 なぜなのだろうか。エイイチを助けたのは自分であるはずだったのに。感謝ももらえず、なぜ罵倒されなければならないのか。

 マリは不貞腐れた。


 あの時エイイチはたしかにトーテムポールを見ていたはずだが、はたして表裏まで視認していたのか定かではない。


「約束……守ってくれたんだな。あたしなんか本当に救いにくるなんてさ。すげぇ奴だよ、おまえ」


 慈しむような手つきで、膝に乗せたエイイチの頭をセンジュは何度も撫でている。そこにのそのそ歩いてきたガンピールが加わり、二人を巨体で包むように丸まった。


 マリが入り込めそうな隙間はどこにもない。

 見る者が見れば心安らぐ状況なのだろうが、生気を無くした目で立ち尽くすマリは“やっぱり想定となんか違う”と思わずにいられなかった。

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