#11

 シアタールームへ行こうなどとエイイチを誘いながら、マリがまたよくわからないことを言った。


「えと、一緒に行けばよくない?」

「いいから。エーイチくんは先に行って。わたしは準備があるから」


 準備くらい何十分かかろうと待つのだが、マリは有無を言わせぬ勢いで部屋からエイイチを締め出す。だがマリの狂気は今に始まったことでもない。エイイチは仕方なく、言われた通り一人でシアタールームへ向かう。


 道すがら窓を見やると、まだまだ雨は収まる気配がない。しかし今日ばかりは崩れた天候に感謝するエイイチだった。ようやくエロゲーらしいイベントが発生したのだ。万感の思いで、マリとの出会いからこれまでを振り返っていた。


 たかが三日。されど三日。マリは努めて感情を抑制するためわかりにくいが、間違いなく態度は軟化してきている。特に先ほど見せた悪戯っぽい笑顔などは新たに引き出されたマリの魅力であり、なんだかイケそうな気がするとエイイチが自信を深める根拠になった。


 映画だったら鑑賞しつつ相互に色々できるな、と。爪の伸び具合をチェックしながら歩くエイイチが、中央エントランスにさしかかった頃。


「おい!」


 乱暴に張り上げられた声へ、エイイチが顔を向ける。三階西側の廊下に立つセンジュから呼ばれたらしい。昼前だというのに、先日と同じ無防備なベビードールの下着姿だ。呼び止めたわりには、抱いた羊のぬいぐるみへ薄い身体を擦りつけるようにもじもじと。なんとも煮えきらない。


「……あの……その。エーイチ……せんせ」


 エイイチが目を見開いた。――先生。それは原作エロゲーでの呼び名である。せっかくエロゲーの世界へ来たのにこれまで誰も先生とは呼んでくれず、美少女に先生と呼ばれたい欲求が募っていたエイイチの琴線に触れたのだ。


「エーイチせんせ……? あたしにも、お勉強……おしえてほしい」


 赤い顔をぬいぐるみで半分隠し、熱っぽい吐息と共にセンジュが吐き出したそんな台詞。ぬいぐるみの短い胴体を股の間に挟み、恥ずかしそうに腰が引けた少女の姿勢に圧倒される。

 そもそも地質学者見習いにどんな勉強を教わりたいと言うのか。決まっている。地層に見立てた自分自身を深層まで調査するお勉強がしたいに決まっている。サイドアップテールの金髪を指でくりくり捻り返答を待つセンジュは、まさに危ない橋を渡ろうとしている性に目覚めかけの初年度JK青い果実

 エロゲーフィルターが網膜に貼りついているエイイチにとって、今のセンジュは垂涎ものの美少女に映っていた。


「……ごめんセンジュちゃん。マリちゃんの次に、必ず」


 しかしここで動くのは素人だ。攻略対象を絞り込み、ましてやルートへ突入したにも関わらず脇目を振るほど愚かではない。性に緩いヒロイン達とはいえ、ハーレムを築くには順序というものがある。自称エロゲーがうまいエイイチは、涙を呑んでジーンズのしわを押さえつけた。


「じゃあ俺はこれで!」

「あ!? おいっちょっと待――」


 マセたエロガキを振り切るように、エイイチは二段飛ばしで階段を駆け下りる。あらゆる誘惑に負けまいと廊下を全力疾走し、息を切らしつつシアタールームの大扉へ体ごと飛び込んだ。


「はあ、はあ、はあぁ……」


 両手を膝から離し、顔を上げるエイイチ。カップルシートにリラックスして寝そべり、何事かと目を丸くして振り向くマリと視線が交差した。


「ずいぶん早かったね、エーイチくん」

「マリちゃん……え? あれ? なんで先に」


 エイイチが動揺するのも無理はない。秘密の抜け道でもない限り、マリの部屋から先に出たエイイチをどうやって追い越したのか。しかもマリはジャージ姿ではなく、簡単な服装ではあるがTシャツとショートパンツに着替えたらしい。


「そんなに驚くことないよ。……えっと、廊下で誰かに会ったでしょ」

「ああ、うん。センジュちゃんが下着姿でうろうろしてたけど」


 小さく舌打ちしたマリは、スナック菓子の袋をバリッと開けてカップルシートに身を沈めた。エイイチ視点では寝癖みたいなアホ毛しか見えなくなる。


「やっぱり出てきたんだ、あいつ。……で、そのセンジュの下着姿にでれでれしてたエーイチくんの後ろを通って、わたしは先に来たの」

「いやいや! たしかにエロかったけど、マリちゃんの方がぜんぜんエロいから!」

「そんな言葉で喜ぶ女子がいると本気で思ってるの?」


 せっかくセンジュを突っぱねて駆けつけたというのに、蔑まれてしまったエイイチは歯噛みして俯いた。そんなエイイチの様子を察して息を吐くマリ。エイイチは欲望も愛情表現も直接が過ぎる。けれど嘘がないことはマリにもわかる。

 何よりもシアタールームを独占してマリはこの上なく気分が良かった。よく働いたヒツジには褒美も必要だろう。


「……そんなとこ立ってないで、座れば?」

「い、いいの?」

「いいもなにも観るんでしょ、映画」


 パッと顔を輝かせてエイイチは駆け寄った。マリに倣ってスニーカーを脱ぎ、ゆったりなシートへと体を預ける。その際に肘がマリの素肌と触れたのだが、腕を引いたりしなかったことがエイイチは嬉しかった。


「照明消すね」


 マリがリモコンを操作すると、シアタールームが暗闇に落ちる。より楽な姿勢を求めて身じろぎするマリ。触れ合ったままの腕の接地面がさらに広がる。髪をかきあげる動きに振り撒かれた香りが、エイイチの視線を引き寄せる。盗み見たマリの横顔は、まつ毛の長さも強調されて胸が高鳴るほどかわいかった。


 手の甲もぴたりとくっついている。かつてないピュアラブ展開に、これはどのタイミングで恋人繋ぎに移行すべきかエイイチが頭を悩ませた次の瞬間。

 唐突にシアタールームの明かりが灯る。怠惰に寝転び、傍目からはどう見てもイチャついていた二人の姿が白日に晒される。


「あら、あら。お邪魔だったかしらね。ごめんなさい」


 跳ね起きたマリは、最前列の座席からゆっくり立ち上がるツキハに言葉を失くした。


「……なんで、お姉ちゃんが……どういうこと」


 この場はマリのナワバリとなったはずだ。エイイチが持ってきたバレッタはマリも知る、たしかにツキハの私物だった。


「エーイチさんにお願い・・・していたの。わたくしのバレッタをお渡ししてね」


 あまりに勢いよくマリが振り返ったので、エイイチは内心ビビっていた。どういうわけなのか説明しろとマリの赤い瞳が告げている。


「うん、そう。マリちゃんの私物と一緒に置いてくれって、朝食の席で預かってさ」


 攻略対象のお願いごとをエイイチが聞かぬはずもない。ルートへ突入したと思っている今でも、マリを優先することが困難にならない限りはエイイチのスタンスも変わらない。


 マーキングが取り除かれた場合、ナワバリは必ず一度明け渡す必要がある。だとすれば最初からシアタールームはツキハのナワバリではなくなっていたのだ。


「待って、じゃあ……本当に猟幽會が」


 勘が当たっていたのだと、ここでマリはようやく真実にたどり着いた。侵入した猟幽會はツキハのナワバリだったシアタールームで争い、死亡したのち封印が施された。ヒツジが封印を取り除けば誰の領土でもないまっさらな場所となる。ツキハがシアタールームに再びマーキングすることは可能なのだ。


 ではこの、さっきから馬鹿みたいに口を開けて成り行きを眺めているエイイチが、猟幽會の封印を解除したというのだろうか。凶悪な罠を前によくも生きていたものだと、マリは驚嘆してエイイチを見下ろす。


「話をしましょう。マリ」

「わたしは、お姉ちゃんと話すことなんて何もない。やるなら、やってやるから……っ!」


 では、空白の場所へ同時に二つ以上のマーキングが施された場合。それは共有のナワバリとなる。たとえばダイニングやブレックファストルームが当てはまり、マリを除いた面々は合意の上で共生している。気に食わなければ争い、強制的に他方を排除することも可能だ。


「大事な妹ですもの。わたくしは、あなたと争うつもりなどありませんよ」


 ちなみに、これはツキハの嘘である。

【豺狼の宴】では様々な移動先が選択肢で表示され、自由行動だと思い込んで寄り道などにうつつを抜かすとマリが死亡する。幾重もの髪に全身を締めつけられ、天井から操り人形のごとく吊るされてマリは窒息死しているのだ。鬱血により美しい顔が見るも無惨な紫へ変色したスチルイラストは、主人公と同じくプレイヤーの心も絶望に突き落とす。


 エイイチの一見冷酷に思えたセンジュへの対応は、エロゲーだけでなくホラーゲームの対応としても正しかった。もっとも生き残ったマリが、エイイチに幸福をもたらすとは限らないのだが。


「ナワバリが欲しいのでしょう? マリ。どこでも好きな場所を差し上げようと思っているの。またみんなで夕食を共にしましょう」

「誰が、あなた達なんかと……!」

「マリちゃん」


 険悪な二人を交互に見つめるだけだったエイイチが、はじめて咎めるような口を利く。

 原作のエロゲーでも次女は姉妹にコンプレックスを抱いていた。利発な姉と奔放な妹を持ち、病弱な自身と比較して後ろ暗い感情を常に抱える。そんな自分まで嫌になっていたところ、主人公と行動を共にし少しずつ心境を変化させていくのだ。


 個別ルートを進むのなら、避けては通れないマリの悩み。乗り越えなければ“結婚”“大好き”“妊娠”ワードが飛び交う次女のアダルトシーンには漕ぎつけられない。


「二人の関係を俺はよく知らないけど、拒絶するだけじゃ不満はいつまでも晴れないよ」


 本当に何も知らないくせに口を挟むな、とマリも思わないわけではなかった。だがツキハの提案に動かされる気持ちもあったのだ。

 しばらく無言を通したマリは、握りしめていた拳をゆるめて俯く。


「……どこでも? 本当に?」

「ええ。センジュにはわたくしから成り行きを伝えます」


 ふてくされた子供のように口を尖らせ、マリがもそりと呟く。


「…………じゃあ……お風呂。入りたい」


 ガタン! とカップルシートを揺らすエイイチ。

 ツキハはフッと笑みをこぼし、深く頷いた。


「たしかに、あなたはずいぶんと湯浴みしていなかったわね。わたくしも考えが至りませんでした。では、そのようにはからいましょう」

「い、いいの……?」

「もちろん。これで少しはわたくしを信用していただけたかしら?」


 静かに喜びを募らせるマリを見て、目を細めたツキハが一枚の布を掲げた。


「それにしても、マリ。ずいぶんとかわいらしいものを履いているのね。次はもう少し大人らしいものを選んで、エーイチさんに置いてきてもらうといいですよ」

「…………は?」


 マリは硬直した。一点を見つめ、見開かれた瞳に瞬きはない。なぜならツキハが両手で伸縮させているのはお気に入りの一枚だった。今朝方チェストを探して、どうしても見つからなかったことをマリは今さら思い出す。


「ねぇ……? エーイチくん。あれって、どういうこと……?」


 濃密な殺気を全身に纏っているせいか、振り向くマリの動作はひどく緩慢だ。答弁を一つ誤ればここで命が散ってもなんら不思議はない。しかしエイイチは逆襲の一手を備えていた。


「マリちゃん……お風呂入ってないの!?」


 驚愕の表情で迫るエイイチに気圧され、言い訳を考えた瞬間に勝敗は決した。争点を見失ったマリは顔をそらしてしまう。


「……別に、だって。汚れてないし」

「いや汚れるよ! 部屋にずっといたって垢は出るんだからさぁ!」

「……出ないもん。鱗粉とかそういうので、綺麗に保てるから」

「またわけのわかんないことを。体が弱いたってこんなところまで来れるんだから、風呂くらいちゃんと入んなきゃ駄目だろ!」

「……だって。ナワバリが」


 実際、マリの言うことは正しい。限りなく人に近しい見た目だろうと、人智を超越した存在に違いはない。湯浴みなど気分転換にするもので、垢も出なければ不快な臭気を発することもない。


「いつから入ってないんだ!」

「……一年くらい」

「体が汚れたままだと服も汚れるだろ!」

「……アヤメさんが洗濯してくれる」

「下着もか!」

「……うん」


 エイイチの興奮はおさまらなかった。マリのような年頃の美少女が風呂に入っていない。その事実だけで際限なくボルテージが上がっていく。かわいらしくも普段どこか上目線なマリが、後ろめたさと羞恥心を発揮して言いなりになる姿。これもエイイチの昂りに拍車をかけた。


 二人のやり取りを眺めていたツキハもやがて飽きたのか、マリのパンツを放っていつの間にか姿を消していた。


 激しい追及を続けるエイイチと、従順に受け答えするマリ。まるで説教する先生と反省する生徒のようでもあり、家庭教師の仕事をエイイチはついに全うしたのかもしれない。


「いつもどこから洗うんだ!」

「……左腋の下」

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