#56

 ショキン、ショキン――と。薄暗い時計塔に、擦れる金属音が反響する。


 狼戻館に滞在すること十八日。

 昨日の埋め合わせをするべく、エイイチは朝食前から時計塔の屋根裏部屋を訪れていた。


 寝そべる黒狼の伸び切った直毛を、滑らかなハサミ捌きで美容師さながらにカットしていくエイイチ。身体がでかいので、横歩きしつつ毛並みのバランスを整える。


「……よし、いい感じだ」


 続いてブラッシング。柔らかめのボディブラシを二つ繋ぎ合わせた特注品を使用し、こちらも毛並みに沿って大きく腕を動かしていく。

 ガンピールは牙を剥いてあくびをすると、すっかり目を閉じてしまった。


「気持ちいいか? 血行促進にもなるからなぁ」


 抜けた毛を一箇所にまとめ、エイイチは今度は軍手を装着する。ジェルタイプの歯磨き粉を軍手に染み込ませ、ガンピールの上顎をむにゅっと捲る。


 せっかくの安眠を妨害され、これにはガンピールも唸り声をあげて首を振る。

 しかし構わず口内に手を差し入れたエイイチは、軍手を使って鋭利な牙をわっしゃわしゃと磨きはじめるのだった。


「こらこら、暴れるなって……!」


 黒狼の前足に押し返されまいと踏ん張り、顔を紅潮させるエイイチ。まるで力比べをしているようでもあり、膝を抱えて座るマリはそんな二人を呆れた半目で眺めている。


「よく平気で腕を突っ込めるね、エーイチくん」


 エイイチの頭部程度ならば簡単に噛み砕けてしまえる大顎である。ガンピールを柴犬だと認識しているマリとて、腕一本を捨てるかのようなエイイチの行為は到底信じられない。


「歯は大事だから! 歯周病とか怖いし! ――てかマリちゃん目のクマすごいね。寝れてないの?」

「寝れるわけない、こんなところで。自分のベッドじゃないと」

「部屋に帰ればいいじゃん」

「知らないの? ナワバリ全部シャッフルされたこと」

「へぇ……今そんなことになってんだ」


 たしかに停滞すれば“ナワバリごっこ”にも飽きがきそうだと納得する。遊びにも手を抜かず、狼戻館住人の鋭意工夫にはエイイチも感心するばかりだ。


 マリは暗に“自室のナワバリを取り戻せ”と要求したつもりなのだが、エイイチはガンピールのケアにご執心でそれどころではなかった。

 強引に命令すればおそらくエイイチは聞いてくれるだろう。だがそれではまた約束を反故にされたと黒狼の怒りを買ってしまいかねない。現状マリにとって家主も同然であるガンピールの機嫌は損ねたくはないのである。


 暴れるガンピールとエイイチは交互に馬乗りとなりながら取っ組み合いを続けている。エイイチのシャツや軍手にあぐあぐと噛みつくも、ガンピールも本気で危害を加える気はないようだ。


 引きこもりにとって自室に戻れないことは辛く、マリの心はまさに絶望の淵にある。膝を抱えた姿勢のまま体を前後に揺すり、足指をぐにぐにと交差させながら恨めしそうにじゃれ合いを見つめるのだった。




 気に入らない箇所は多々あれど、献身的なグルーミングに概ね満足したらしくガンピールは再び眠りについた。寝不足気味のマリも無意識に柔らかな被毛を求めたのか、ふらふらと倒れ込むと黒狼へ折り重なるようにして寝息を立て始める。


「ふぅ。俺はそろそろ仕事に行きますかね」


 下手なナイフより凶器性の高い爪も可能であればカットしたかったところ、この暴挙だけはガンピールも頑として譲らなかった。


「尊重するのも大事だよな」


 エイイチにだって決して譲れないハーレムがある。ならば理解を示すべきだ。

 結果的に顔や腕へ擦り傷をこしらえつつも、エイイチは充足した表情で裏庭へ向かう。




 外へ出たエイイチが庭づくりに励んでいると、ランニングを終えたセンジュがクールダウンしながら近づいてきた。


「よ。何やってんだ?」

「いや、この辺オクラ植えたんだけど中々成長しなくてさ。発芽したのになんか伸びないなって」

「まぁ……この館じゃ、な」


 魔性を帯びた植物でもなければ、狼戻館での成長は遅々として進まない。そんな常識も知らずエイイチは、汗を拭うセンジュを振り返る。


「それよりセンジュちゃん、昨日テスト頑張ったね! 合格してよかったよ」

「あ? んなもん余裕に決まってんだろ」


 とはいえまんざらでもない様子で頬をかいたセンジュは、手を後ろに組んで前かがみに。悪戯っぽく微笑んで無自覚な胸チラを繰り出す。


「でも……待雪マリだけじゃなくて、たまにはあたしにもおべんきょ教えてね? せーんせ♡」


 なんてキュートなミニケルベロス――。

 センジュの笑んだ口端に覗く犬歯から、そんな単語をエイイチは連想した。いやさ正直に言えば八割は汗に濡れる胸元のポッチを見ていた。


「というより、ガンピールに似てるのか。どことなく」


 苦楽を共にしたのであろうセンジュとガンピールだ。似ているのは見た目や性格ではなく、言うなれば精神性。さすが深い絆で結ばれているだけはある。


 走り去るセンジュに向け思いを巡らせていたエイイチは、はたと思考を止めその背を凝視する。駆ける足音のリズムに微妙な違和感がある。


「あ――……あれドッペルか。うん、ドッペルだ。うわー俺としたことが……!」


 誰に弁明しているのか、エイイチは“やられた”などと笑いながら自身の額をぺしぺし叩く。まさか本物とドッペルを見間違うなど、エイイチに限ってあってはならない失態なのだ。


「まあ調子悪い日もあるよな、うんうん」


 気を取り直して腕まくりすると、エイイチは庭仕事へ戻っていった。



◇◇◇



 日が直上に昇り、そろそろ仕事を切り上げて昼食をいただこうかと腰を伸ばすエイイチ。ソールの土汚れを落として館へと戻る。


 午後の仕事はマリのパンツ洗いから始めよう。と脳内でスケジュール調整しながらエントランスホールに差しかかったところ、さらさらロングの美少女然とした後ろ姿を見かける。


「あれ、マリちゃんどこ行くの?」


 中央階段を上る途中で呼び止められたマリは、やや不機嫌そうな態度で振り返った。


「どこって、別に。お風呂だけど」

「今日は早いね。メシ食ってからにすればいいのに」


 位置関係上エイイチが見上げる形となり、マリは自然とスカートの裾を押さえる姿勢をとる。

 階段でのシチュエーションは青春の甘酸っぱいエロティシズム。何度となく目にしたパンチラだろうと、それは常に新鮮な胸の高鳴りを提供してくれる。


「いい。わたし食欲ないし、水でも浴びてサッパリしたいから」

「食べないと元気出ないぜ? でも少しは眠れたみたいだな、目のクマもよくなってる」


 ただしガツガツと欲を表に出すのはよろしくない。エロゲーにおいて主人公の理想像というものは朴念仁に決まっている。エイイチは【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】からそれを学んでいた。無論当てはまらないエロゲー主人公もいるし、そもそもエイイチに性欲と無縁な人格など望むべくもない。

 だがこの場はそうあろうとしたのだ。同じメンツと、同じ日常を送っていては飽きがくるかもしれない。マリには味変感覚でやれやれクールなエイイチも味わっていただきたい。


「まあいいや。マリちゃんの昼食は一応残しといてもらえるよう頼んどくから。それより風呂行くんならここでパンツ脱いでけば?」


 果たしてエロゲーだとて、ヒロインに対して出し抜けにパンツの脱衣を提案するクール主人公がいるだろうか。けれどエイイチとしては洗濯の効率を追求するクレバーさを発揮したつもりでいるのである。


「……いま、履いてないから」

「え!?」


 踵を返したマリのスカートがひるがえり、エイイチは思わず床へ這いつくばる。朴念仁など演じている場合ではなかった。

 太ももの奥まではどうしても見えなかったが、マリが視界から消えたあともエイイチは呆然と階段を見上げている。


「…………違うだろ、何やってんだ俺は」


 床へ打ちつける勢いで頭を落とし、がっくりとうなだれるエイイチ。

 ここまできてようやくわかった。こんなに長々と会話をしていながら気づけなかった。


 今のは“ドッペルマリ”なのだと。


 センジュの件はまだ言い訳がたつ。ある程度ナワバリを無視するセンジュとは、館内のどこへ出向いても遭遇する可能性があるからだ。


 だがマリは違う。マリはこの“ナワバリごっこ”を厳格に遵守している。シャッフルされて部屋に戻れないと言うのなら、保持していた階段含む廊下のナワバリも変更されてしまったのだろう。


 不自然な状況を見落とすのはまだしも、言葉を交わしたなら気づくべきだ。仕草で、息遣いで判別すべきなのだ。


「くそ、許せねえよ。自分自身が……!」


 エイイチのショックは計り知れなかった。ドッペルを見破れなかった己が許せなかった。【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】の第一人者としてあるまじき失態。

 裏を返せば、エイイチですら見抜けないほどドッペル達の成りすまし精度は上がっているのだった。


「……はぁ」


 のそりと這うようにエイイチは、食欲も失くして階段の段差に座り込む。狼戻館に漂う不穏な空気は、他の住人とは異なる形だったが確実にエイイチをも包み込もうとしていた。




「こんなところにいらしたのですか」


 膝を抱えて俯くエイイチが、アヤメの声に顔を上げる。落ち窪んだ瞳は、まるで今朝のマリを彷彿とさせる陰気さである。


「お召しあがりになられない場合は、一言いただきたいのですが」


 アヤメの手には、ストレッチフィルムに包まれたおにぎりが二つ。おそらく具材は鮭と昆布。フィルム越しでもエイイチには微細な匂いでわかる。


「すみません……俺」

「……何かあったのですか?」

「アヤメさん、実は――ハッ」


 アヤメの顔を見つめ、エイイチはフリーズした。わずかに首をかしげるアヤメだが、エイイチにはわからない。本物に見えるアヤメが、本当はドッペルなのではないかと疑念が拭えない。


「ア、アヤメさんはアヤメさんですよね? ドッペルじゃないですよね!?」

「ドッペル? ああ……なるほど。ふ、ご安心くださいエーイチ様。私に限ってはありえません。この手で“処分”しましたので」

「処分て……もったいないなぁ。それなら欲しかったですよ、練習相手になるし」

「いいえ、お楽しみは本番に取っておきましょう。それに偽物とはいえ、あれは私。エーイチ様とて無事では済まないかもしれませんよ」

「たしかに。アヤメさんを精巧に模しているなら、極限まで搾られても不思議じゃないですね」


 アヤメにしてはめずらしく少しの逡巡を見せたのち、口もとに人差し指を立てる。


「……ここだけの話。私の目から見ても遜色ありませんでした。瓜二つと言っていいでしょう」

「そ、そんなに? へぇ……」


 エイイチがゴクリと喉を鳴らした。

 アヤメはドッペルの戦闘技巧について語ったつもりでおり、エイイチはドッペルの身体的部位を想像していた。

 いつもの如く、もはや見慣れた光景である。


 しかしようやくエイイチにも笑顔が戻った。アヤメが差し出す手を掴み、立ち上がり――。

 そしてエイイチは見た。見てしまった。


 廊下の角から、こちらを覗く“アヤメ”の姿を。


 凍りつくエイイチに気づいたアヤメが、視線を追って後方を振り返る。廊下のアヤメはすぐさま身を引いて足音が遠ざかっていく。


「まさか、私はあのときたしかに――。ツキハ様、いったい何を考えているのです……!」


 おにぎりをエイイチに手渡すと、こちらのアヤメも颯爽と駆けていってしまった。

 残されたエイイチは混乱する。


 順当に考えれば先に逃げたアヤメがドッペルなのだろうか。わからない。さっきまで話していたアヤメが本物だと確信が持てない。


 いずれにせよ、エイイチは立ち尽くすほかなかったのだ。



◇◇◇



 夜。書斎奥の作業場兼デバッグルーム。恒例となりつつある【豺狼の宴】をプレイするエイイチは、二章の終盤まで物語を進めていた。


「……またこんな展開。今度は死ななかったけど、センジュちゃん抜け殻みたいになっちゃったじゃないですか」

「脱出に一歩近づいたでしょう。さ、次の章はわたくしの出番。こちら・・・での攻略の糸口が見つかればいいわね?」

「ツキハさんの攻略は【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】他のゲームで間に合ってますから。……ツキハさん」

「何かしら」

「どうしてこんなことするんです? 見せびらかしたいんですか?」


 モニターから目を離さずに、エイイチは問うた。“こんなこと”とは、もちろんドッペル事件のことだ。


 あまりに精巧なラブドールを作り上げた。盛大に披露したいというのなら、その気持ちはわかる。のだが。


「エーイチさんの言う通りよ。クリエイターなら当然ではなくて? 良いものが出来たのなら有効に活用しなきゃ。この【豺狼の宴】ゲームだってそう。未だにアップデートを続けているのは、こうして活用するため」

「でもあんなの、みんなパニックになりますよ」

「みんな? 本当に? 困っているのは、あなたではないのかしら」

「…………」


 エイイチは押し黙る。これではツキハの指摘を認めているようなものだ。


「それにね。この程度の障壁、壁とも思わず乗り越えてもらわないと困るわ。狼戻館の住人ならば、ね。分水嶺――。あなたはどちらに転ぶのかしらね……エーイチさん」


 エイイチの肩へ手を置いたツキハは、微かな震えを感じ取り、目を細める。


 エイイチはこれまで、狼戻館にて数多の障害を乗り越えてきた。失われるはずの命を繋いできた。認めなければならない。


 だが【豺狼の宴】原作主人公にして最も凶悪で狂っていると恐れられた待雪ツキハは、たとえエイイチ相手でも在り方は変わらない。あらゆる命を飲み込む未踏の霊峰と同様、巨大な絶望を植えつけるべくエイイチの背後にそびえ立っている。


 責めるべきではないだろう。自身のみならず他者の命まで背負うことになる今後を思えば、誰もが萎縮することだろう。エロゲーになぞらえて“攻略”するなどと、口には出来なくなるはずだ。


 そう、今のエイイチのように――。



「……挑発してんですね? じゃあいいよ、やろう。明日にでもやろう」


 肩の手に自分の手を重ねると、エイイチは力強く握り込む。勢いよく振り向いて、腕ごと引き寄せる。

 ツキハの目と鼻のすぐ先で、いつものへらへらとした笑みも漏らすことなくエイイチは瞳を見開いていた。


「俺が、あんたをわからせてやる」

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