#55
学力テストが行われているダイニングルームにバタバタと入り込む一羽の蛾。センジュがすぐに気づき、ペンを止める。
「……猟幽會が来たってさ」
センジュの声は小さかったが、テスト中の静かな室内においては全員へ届いた。
アヤメがうかがうような視線を向けるも、ツキハに動じる様子はない。学力テストを中止にするつもりもないらしい。
誰も動かない中で唯一、エイイチのみがダイニングルームを出て窓辺へ寄る。たしかに若い男がアプローチを真っ直ぐ歩み、玄関へと向かってきていた。
「あれ? あの男、ツキハさんのラブドールコレクションで見た――」
ボイラー室にて、エイイチが散々おもちゃにしたマネキンだ。見間違うはずもない。
エイイチがダイニングルームへ戻る頃には、住人全員が来訪者は誰なのかすでに把握していた。
狼戻館の洗礼を浴び、先日死亡した
だというのに、エイイチを含むどの顔にも驚きや疑問の色はない。
そもそも慶悟が死んでいるという事実を知らないエイイチの反応はまだ納得できる。眉間にしわを刻むエイイチは“ラブドールにするほどあの男はツキハのお気に入りなのか”と明後日の方向に警戒を強めているだけだ。
しかし他の住人は違う。
慶悟がマリの手によって、確実にボイラー室で死んだことを知っている。亡き者の来訪をまるで当然のごとく受け入れている。
これはいったいどういうことなのか。落ち着きなくツキハを仰ぎ見るセンジュも、懸念は別の理由によるものだった。
「な、なぁ。こんなことやってる場合じゃなくない? 今はマズいだろ、状況的に」
「何が不味いのかしら。集中が足りないみたいね、センジュ」
シャッフルされた結果、未だ自身のナワバリも把握できていない状況での襲撃。センジュが危惧するのも自然な流れだろう。
が、ツキハは頑として中断を認めない。通常であれば真っ先に猟幽會を出迎えるアヤメさえ、鉄の意志を物語るツキハの眼光に離席できずにいた。
「少しはマリを見習いなさいな。ほら、普段とは見違えるようだわ」
「いや、だって、こいつは」
一心不乱にペンを走らせるドッペルマリは、ツキハの期待に応えうる働きぶりだ。エイイチの目論見通りに事は進んでいるのだが、どうにもセンジュは納得できなかった。
ヒリヒリとした緊迫を感じ取ったエイイチが、アヤメへと耳打ちする。
「なんか今日のツキハさん、迫力ありますね」
「……ええ」
結局、慶悟の動向は屋根裏のマリが単独に蛾で追いかけることとなり、予定を違えず学力テストは消化されていくのだった。
◇◇◇
「すごいわ、満点よ。マリは優秀ね」
採点を終えたテスト用紙をアヤメから受け取り、ツキハは満足気に微笑むとドッペルマリの頭を撫でる。
「こんなの、大したことない」
表情の変化は少ないものの、応じるドッペルマリの声にも僅かに力が込められていた。
慶悟を監視しつつ、ダイニングルームの状況把握にも努めるというマルチタスクをこなしていた本家本元――屋根裏のマリがここで複雑な心境を抱いたことを誰も知らない。ツキハに心からの笑みを向けられるなど、マリ自身ずっと昔の記憶にしか残っていなかった。
否。丸く伏せるガンピールだけが、その大きな双眸に歯噛みするマリの横顔を映し出していた。
ともかく、マリが感傷の意味を噛み砕く間もなく事態は動く。
再び眼前を蛾が横切ると、センジュがハッと席を立った。
「猟幽會が動いた。入室したのは二階のサロン。今は――あたしのナワバリになってるっぽいなクソ」
元々サロンはツキハのナワバリだ。やはりシャッフルの影響は狼戻館全域に及んでいるらしい。
センジュにとって猟幽會は古巣である。積極的な対立を望むわけではなかったが、現在の己が狼戻館の住人であることも重々承知している。自身のナワバリに踏み込まれたならば争いを辞さない覚悟はある。
「どこへ行こうというの?」
素っ頓狂なツキハの言葉は、勢い込むセンジュの出鼻を挫くものだった。
「どこって……だから、猟幽會がナワバリに――」
「まだ、あなたの採点が終わっていないわ」
「もうテストは終わったんだろ! そんなのどうだっていいじゃんか!」
「駄目よ。座りなさい」
ツキハはヒールを響かせて歩み寄ると、見上げるセンジュの両肩をそっと掴んだ。
「座りなさい」
「くっ……!」
「お姉ちゃんの言うことが、聞けないの?」
捕食寸前の獲物のように硬直するセンジュが、どのような瞳の色をツキハに見たのかはわからない。だが次の瞬間には、センジュは力なく席へと腰を落としたのだった。
「くそ……何なんだよ……っ」
「アヤメさん。採点を」
「は、はい」
猟幽會の内では“フルード・ロア”として、狼戻館最強にも名の挙がるセンジュ。疑う者はない実力者ながら、狼戻館現当主との間にはこれほどの隔たりがあるのだとアヤメまでもが畏まる。
採点中に声を発する者はなく、アヤメから差し出された用紙を手にツキハは息を吐いた。
「誤答が二問。あなたらしくもないわね」
慶悟の動向を気にしての結果なのだろう。無理もない。
「ご、合格は合格だろ! あたしはもう行くからな!」
テーブルを叩いて立ち上がったセンジュはエイイチの目を気にしてか、直接サロンに飛ぶような真似はせず、急ぎ足でダイニングルームを出ていった。
続き、ドッペルマリも静かに席を立つ。
「じゃあ、わたしも出る」
「そう。お疲れ様、マリ」
すれ違いざま、ドッペルマリに対して親指を立てて見せるエイイチ。
この修羅場と呼んで差し支えないツキハとセンジュのやり取りの最中、すでにマリの合格を勝ち得たエイイチのみが安堵の微笑みを浮かべていた。
不穏な空気も、姉妹喧嘩などよくあること。地質調査の仕事をクビになってしまっては、仲違いを改めさせることもできないのだ。
「いや〜よかったよかった。さすがツキハさんの妹は二人とも優秀ですね!」
椅子へと掛けたツキハに倣い、エイイチはどっかりと自らも椅子に腰を落ち着けた。
「結果を見たでしょう? まだまだよ」
「まだまだって、間違えたのたった二問じゃないですか」
テーブルの上に手を組み、目を伏せて黙するツキハは、やがてゆっくりと言い放つ。
「わたくしが求めるものは“最優”……。エーイチさん、あなたもぜひ覚えておくことね」
まるで自身も含めて言い聞かせるかの如く。噛み締めたツキハへ顔を向け、エイイチは目を瞬かせる。
「わかってないですね。完璧なんて、なーんも面白くないですよ。ああ、それにしてもホッとしたら喉渇いたなぁ! アヤメさんキンキンのお冷や頂けますか!?」
事も無げに返答して笑うエイイチは、きっと暗く淀んだツキハの睨め上げる瞳にも気づいていないのだろう。
エイイチは稀に見る上機嫌だった。立案した作戦がぴたりと嵌まり、クビの危機を脱したのだから喜びもひとしおなのだ。
しかし、本当にエイイチの計算通りだったのだろうか。ドッペルを館へ放ったのは他でもないツキハである。ドッペル達の生みの親とも言うべきツキハが、本当に本物のマリとドッペルの見分けがつかないものだろうか。
この場に答えられる者はない。
それはツキハの苛烈な眼力に肝を冷やすアヤメも例外ではない。
「……ただいまお持ちします」
いずれにせよこの男は、ツキハの意には沿わない。真っ向から対立するつもりなのだ。
能天気なエイイチの態度をそう解釈したアヤメは、背筋をつたう汗を感じながらもフッと笑みを形作るのだった。
◇◇◇
二階のサロンは、おびただしい量の血に沈んでいる。
ソファも、暖炉も、本棚も。さながら殺害現場のように飛び散った血液が赤く染めている。
いや、殺害現場で間違いないのだ。
「……なんだ……これ」
佇むセンジュの足もと。絨毯に形成された、ひときわ深い血液の海。その只中に慶悟の死体が転がっていた。
外傷に比べて、出血量が異常だ。センジュには一見して血液が慶悟のものだけではないことがわかる。
「これって、まさか……あたしの……? そんな、あいつらどこまでコピーして――」
ぴちゃりと背後の水音に、センジュが反射的に振り向いた。
「……待雪、ツキハ」
センジュの上背より高みから、ツキハは無慈悲な瞳でうつ伏せる慶悟の亡骸を見下ろす。
センジュのナワバリにツキハが入室しているということは、一目瞭然の現場ではあるが猟幽會との勝負はすでに決している証だ。
つまり狼戻館のルールに則って慶悟は処理された。ナワバリの主であるセンジュ――おそらくはそのドッペルによって。
「もう終わったの。さすが優秀ね、あの子は」
うしろに“あなたと違って”とでも繋ぎそうな物言いに、センジュは拳を握りしめる。
サロンが微かに揺れると同時、発生した地鳴りがだんだんと激しくなる。血の池から無数の腕の如く影が伸び、慶悟の遺体を包むと奈落へと引きずり込んでいく。
「何をしているの? 早く戻らないと、封印化に巻き込まれるわよ」
「……ああ」
数秒ののち。館に取り込まれた慶悟も含めて、サロンに居座る者は誰もいなくなっていた。
◇◇◇
夜。昨夜に引き続き、書斎奥の作業場兼デバッグルームではマウスのクリック音がカチカチと響いている。
「うわー!? マリちゃんが死んだー! ひどいじゃないですかツキハさん!」
救いのないシナリオを非難しつつも、ゲームを楽しむエイイチは笑顔だ。すかさずシステムメニューを開いてロードする。
「あら……先へ進まないのかしら」
「選択肢やり直そうかなって。マリちゃん生存ルートとかないんですか?」
「ないわね」
「ゲームだからってあんまりですよそれじゃ! ていうかネタバレ控えてください!」
「あなたが聞いたのでしょう」
けれど、それでもエイイチは初日に戻った。既読スキップを駆使して選択肢を埋めていく。
「……まあ、どのみちBAD END回収しないと。えげつないのばっかで気が滅入りますけど」
「不快なら、わざわざ見なければいいのよ」
「そういうわけにはいかない。プレイする側にも矜持がある。どんなエンディングだろうとそこには制作者の意図があるはずなんで。何よりこのゲームを作ったのは、ツキハさんなんですから」
モニターの微光に照らされて、ツキハはエイイチの後頭部を見つめた。ほとんど無意識に唇が開かれる。
「……そう。わたくしが作ったの。アップデートのたびに、新しくBAD ENDを追加して」
「わざわざBAD END追加してたんですか? 趣味悪いなぁ。でも全部見ますよ、俺が」
ツキハが【豺狼の宴】に手を加え、アップデートを行うのは本人の言葉通りBAD ENDを追加する場合のみである。
それはエイイチが狼戻館に来る以前の話。館で命を落としたヒツジ達の死に様を、忠実に再現してゲームに落とし込むためだ。
なぜそんなことをするのか。こればかりは本当に当人以外から答えは得られない。もしかすると、今後ツキハの口から語られることもないかもしれない。
長く生きる人外にとって、記憶はそれほど信用ならないものだ。エイイチの言葉を借りるなら、記録に残したい何らかの意図……留めておきたい想いでもあるのだろうか。
「エーイチさん」
「はい?」
「そのままでいなさいな。もしあなたが、わたくしの思う通りの人間だったなら……きっとあなたは、遠からずわたくしと相まみえることになるのでしょうね」
「相まみえる……はは、もちろん。そのつもりでいますよ」
淫らな肉弾戦を想像したエイイチは、鼻息荒くわかりやすい意図で応じるのだった。
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