#21

 黒狼とぜひ仲良くなりたかったのだが、追い立てられるような激しい咆哮を浴びたためエイイチは仕方なく地下室を後にする。


 マリの部屋へと戻る前に、アヤメが用意してくれているはずの鍋の食材やカセットコンロを求めてキッチンへ寄ることにした。


「えーと、たしかダイニングルームの隣に……あったあった。ここかな? アヤメさーん!」


 ノックをしてキッチンの扉を開ける。心なしかエイイチの胸が弾むのは、アヤメとはじめて出会ったときに妄想した原作エロゲーのお料理イベントを期待したからである。

 キッチン中央で馬鹿でかいまな板を前に立つ人物は雨合羽のような青いビニールを着用しており、頬が緩みっぱなしのエイイチをゆっくり振り返った。


「……あら。エーイチさん」


 真っ赤な血が滴る包丁を手に、口端を吊り上げて笑むのはツキハだった。ツキハは白い長靴を履き、食品工場などで見かける使い捨てポリエチレン防護服で全身を包んでいた。


「ツキハさん……? な、何やってるんですか?」


 いつものお上品でエッチなドレスとはかけ離れたツキハの格好に困惑するエイイチ。それ以前に、館の当主ともあろう人物がキッチンで何をしているのか。


 ツキハは再びまな板に向き直ると、長方形の刃に血がびっしりこびりついた中華包丁を高く振り上げる。


「何って――ねぇ」


 ズダン! と包丁がまな板へ叩きつけられる衝撃にエイイチの肩が跳ねた。背後からではよく見えないが、ツキハが纏う防護服にも返り血が飛び散っている。


「お鍋、するんでしょう? エーイチさんはお客様だもの。上質なお肉をご用意するのは当然のこと」

「ツ、ツキハさんが自ら肉の切り分けを?」

「アヤメさんもお忙しいから。ほら、ボイラー室の対応だとか色々とあるでしょう? わたくしも捌くのは初めてではありませんし、これはこれで楽しいのよ」


 作業台や冷蔵庫など銀一色に染まったキッチンの中で、吊るされた巨大なズタ袋だけがあきらかに不釣り合いだった。ズタ袋からは鮮血が止めどなく染み出し、ポタポタと床を濡らしたのちキッチン内の排水口へと流れ込んでいく。


「それ……なんの肉ですか?」

「シシ肉。牡丹鍋はお好きかしら。それより、エーイチさんもお試しにならない? きっと癖になるわ」


 そう言ってツキハは自らの中華包丁とは別の、牛刀包丁の柄をエイイチに差し出した。肉を切ってみないかということらしい。動かないエイイチを尻目に、ツキハはまた中華包丁を振るう。


「――夜陰のぉ及びし御山ぁに響ぃく鬨の声ぇ」


 叩き潰すかの如く猪肉を両断しながら、突然に歌い始めたツキハ。これにはエイイチも言葉を失い、ただ立ち尽くす。


「然れど掻き暗すぅもののぉふ欣躍にゃ至らぬ」


 自慢のエロゲイヤーをもってしても、エイイチは率直に不気味な旋律だと思った。そもそもなぜ急に歌い出したのか。腕以外は微動だにしないまま、狂ったように肉を切り続けるツキハは答えてくれそうにない。


「宵やぁ宵やぁ神魔の刻ぞ」


 ツキハが口ずさんでいる文言は、実は狼戻館の成り立ちにも深く関わる呪詞だった。【豺狼の宴】ではすぐに立ち去らなかった場合、精神に異常をきたしてBAD END12への旅立ちが確定してしまう。

 脳内へ霞がかかったように感じ、エイイチは頭を振った。思考能力が徐々に奪われていく。


「喜色満面〜誰そや誰そや」


 原作主人公にして、狼戻館で一番ヤバい女とのちに語られるツキハなのだ。順当に精神汚染が進むエイイチもこのまま尽き果てるかに思えた。


 呪詞を一巡したツキハがまた頭から歌い出した頃、エイイチは作業台まで歩み進むと牛刀包丁を手に取る。


「夜陰のぉ及びし御山ぁ――」

「やいんのおよびしおやまー!」


 ズダァンッ! とツキハの隣で肉塊に包丁を叩きつけるエイイチ。ツキハの言った通り肉を断ち切る感触は中々に楽しいもので、エイイチは続けざまに包丁を振り下ろす。


「――然れど掻き暗すぅもののぉふ」

「されどカキタレぇ吸うもののおっぱ!」


 ズダダァン! エイイチはツキハに並んで肉を打ち、リズムを取った。実に嬉しそうな笑みまで浮かべるエイイチを、歌いながらツキハは横目に見る。


「……エーイチさんは歌わなくていいのよ。――宵やぁ宵やぁ」

「いえいえ。せっかくツキハさんが歌ってくれてるのに、冷めた客だなんて萎えさせませんよ! よいやさ! よいやさ!」


 郷に入っては郷に従え。虎穴に入らずんば虎子を得ず。つまりはそういうことである。

 ツキハの奏でる旋律がいかに気味が悪かろうと、それを突きつけるほどエイイチは愚かではない。エロゲーヒロインの奇行などあって当然、もちろん全肯定して共に歩む所存だった。


 不気味な歌を歌いながら、無表情なツキハの一方で笑顔のエイイチ。飛び跳ねる血をものともせず、二人して肉塊を力任せに叩きつける絵面は傍から見れば狂気である。


「喜色満面〜そやそや」

「喫食マイメーン! マリたそマリたそ!」


 エイイチはすでに狂っているのかもしれない。しかし勝手に詞を改変しようと、音程が取れていなかろうともこれは呪詞。込められた想いは正しく呪言であると同時、邪気のないエイイチの文言は祝詞となってツキハを不快にさせる。


「……もういいわ、止めにしましょう。頭が痛くなりました」

「え? でもまだ肉が分厚くないですか? 鍋だからもうちょっと細く切らないと」

「焼肉になさい。ほら、これをお持ちになって」


 ツキハは切り分けた肉を雑に皿へ盛ると、ストレッチフィルムを被せてホットプレートの上へ重ねた。

 エイイチは不満げに食い下がる。


「け、けど鍋をするってマリちゃんと約束したし……」

「大丈夫。マリは焼肉が大好きですから。……そうそう。それと、これはわたくしからの差し入れ。エーイチさん、どうか遠慮なさらず」


 そう言ってツキハがガッシャンと作業台へ持ち上げたのは大きなクーラーボックスだった。エイイチが開けて確認すると中には氷が敷き詰められ、多種多様な飲料が冷やされている。


「こんなに……いいんですか!?」

「ええ、もちろん。少し重いけれど、がんばって持って帰ってね」

「はい! ありがとうございます」


 本当に半端のない重量だったのだが、未だ狂気のトリップ状態にあるエイイチは、パッと顔を輝かせると荷物を引きずるようにキッチンから出ていった。


 ツキハはポリエチレン防護服を破り捨て、備えつけの丸椅子へと腰かける。小窓から外を眺める顔はどこか疲れてみえた。




 夜となり、マリの私室にて。エイイチは皿の肉をテンポよくホットプレートに並べていく。ご機嫌に歌を口ずさみつつ作業するエイイチに対し、対面でクッションに座るマリは白い目を向けていた。


「やいんのおよびっしぃおやまぁにひびく――」

「エーイチくん」

「え? なになにマリちゃん? よいやさよいやさー!」


 トングを一旦皿へ置いたエイイチは、胸の辺りに違和感を覚えて顔を俯ける。すると自身の体の前面に十数匹もの蛾がびっしりと張りついているではないか。


「ぎゃあああああ!? はああッ! ああ! あ――……あれ……?」


 けれど叫び声をあげた次の瞬間にはすべての蛾が消失していたのだ。幻覚だったのだろうかと、エイイチは跳ね回る心臓を片手で押さえつけながらマリを仰ぎ見る。


「その気っ色悪い歌、二度と歌わないで」


 マリのこれまでにないほど冷淡な瞳に見据えられ、エイイチはようやく正気に戻った。


「……はい。ごめんなさい」


 野性味溢れる猪肉は美味だったものの、当初考えていたような楽しい晩餐ではなくなってしまう。ホットプレートから立ち昇る熱気があまりに煙り、エイイチが涙目になりながら窓を開けるも状況は好転せず。結局は会話もそこそこに夕食の時間は終わりを告げた。


 ホットプレートの油を拭き取り、エイイチがせっせと皿を重ねていると、マリは何やら自身の袖を鼻へ近づけくんくんと嗅いでいる。


「……くさい」

「ああ、そりゃまあ、焼肉だもんな。部屋でするのなんて実は俺も久々で」

「だからお鍋がよかったんじゃないの? エーイチくんが急に焼肉に変更するから、こんなことになるんだよ」


 詰め寄ってくるマリは、まるで一度は承諾した過去を蒸し返す彼女のようだ。だが失態を取り戻したかったエイイチは素直に謝った。


「本当ごめん、なんか頭がどうかしててさ。部屋のもの俺が綺麗に洗っとくから、マリちゃんは風呂に入っておいでよ。お湯が出なくても、タオル濡らして体拭くだけでも違うと思うし」


 チェストからエイイチが取り出したタオルを受け取ると、マリはバツが悪そうに口を尖らせる。


「……別にそんな、一人で思い詰めなくても。焼肉でいいって言ったの、わたしもだから」

「うん。じゃあ焼肉の話はこれでおしまいにしよう! 部屋のことは俺に任せて、マリちゃんは風呂場にほら行った行った」

「……ありがと」


 エイイチが背を向けると、マリは服を脱いでいる様子だった。振り向いた時に姿がないことにも大分慣れてきた。洗濯カゴにはマリがたった今まで着用していた服と下着が入っており、今回ばかりは下心もなくエイイチは腕まくりをする。


「よし、手早くやってしまおう」


 チェストに入っている洋服や下着類、シーツにカーテンも取り外してひとまず廊下に出していく。部屋には布製品以外を残してあるが、その中にはツキハに持たされたクーラーボックスも含まれていた。


 そう。ヒツジの手により・・・・・・・・部屋からパンツが・・・・・・・・取り除かれた・・・・・・のだ。そしてエイイチはクーラーボックスへ敷き詰められた氷にわずかな鮮血が混じっていることを知らない。マーキング素材を持ち運ぶことが可能なのは本人かヒツジだけである。


 洗濯及び清掃のためエイイチがマリの部屋を離れる頃には、時間と共に溶け出した氷がクーラーボックスの底面の微かな穴からじわじわとカーペットに浸食を始めていた。




 洗濯機を回し、一通りの清掃用具や消臭剤を手に

部屋へ戻ってきたエイイチ。思わぬ来訪者に目を見張った。

 ベッドに我が物顔で腰かけるセンジュはベビードール姿ですらりと細身の足を組み、面食らうエイイチへと物騒な台詞を投げかける。


「おまえ。このまま“待雪マリ”と一緒にいるつもり? ――死ぬぞ」



◇◇◇



 同時刻。どうしてなのか部屋に戻れないマリはバスルームで焦りに焦っていた。なにせ素っ裸なのだ。不安に駆られてバスルームの扉を素足で蹴りつけていると、意識と共に身体ごと引っ張られる感覚に襲われホッと一安心した。


「…………え?」


 しかしマリが次に立っていた場所はボイラー室。つい昨日に死闘を演じた舞台だ、見間違うはずもない。


「……え?」


 さらに目前には防刃ベストや各種プロテクターで武装した男が立っており、咄嗟に胸と股間を隠すマリへクロスボウガンで狙いを定めていたのだ。


「チ。その程度の色気で隙を誘おうって考えか? やり口が気に入らないんだよ、堂々と殺り合えよ化物が!」

「……なんで、二日連続で……ッ」


 ギリッと歯を噛み締めたマリは翅を伸ばし、最初から全開の速度で男へ突貫する。こうなっては隠すも隠さないも無い。


「――もおおおおおお!!」


 一瞬でケリはついた。猟幽會の男はマリの攻撃に目も追いつかずに敗北した。

 ボイラー室が再び封印される中、弾かれるように飛ばされたマリはバスルームへと帰ってきてしまう。


「こんな……どうして……うぅぅ……!」


 絶望に暮れるマリは裸のまま二重の意味で震え、わなわなと拳を握り込む。


「エーイチくんどういうことか説明してッ!!」


 絶叫をバスルームに反響させ、マリは大量の蛾を自室に向けて放出するしかなかった。


 ちなみにクロスボウガンの一射すら存在を誇示出来なかった男の名は慶悟という。せめて名前のみはここに記しておく。

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