#20

 ブラジャーにはワイヤーやホックが存在するため、洗濯においてパンツよりも神経を尖らせる必要がある。

 レースや生地を傷つけないようホックはしっかり留め、マリのブラジャーのカップにはパッドが入っているためそれも取り外して中性洗剤で手洗いをする。

 パンツほどではないにせよ乳腺や皮脂の汚れはあるもので、エイイチは熱心な眼差しで洗面器の中のブラジャーと向き合っていた。


「……よっし。今回も完璧だ」


 洗い終えたブラジャーとお揃いのパンツは白抜きドット柄のピンク色。シアタールームに放置してある黒パンツとは色違いの上下セットである。二枚をバスタオルで優しく包み込んで水気を拭き取ったエイイチは、干す場所を思案する。

 またいつ先日のような寝取り男が現れるかわからない。裏庭に下着を干せば窃盗される恐れがある。ならば館内で、あまり人の寄りつかない場所――。


「あ。最適だな、あそこなら」


 サンルームのガラス張りから空を見上げ、エイイチは洗いたての下着を掲げて太陽に透かした。絵面はお世辞にも褒められたものではなかったが、爽やかないい笑顔をしていた。




 エイイチが向かったのは洋館の三階西側、二つの廊下を繋ぐあの細長い石室。ゲストルームを追い出されたエイイチが住むはずだった部屋であり、陰干しにもうってつけの場所だった。


「よいしょ……と」


 同じくサンルームから待ってきたX字型のコンパクトな物干しスタンドをワンタッチで広げ置き、ハンガーをかけて下着を吊るす。ひと仕事終えたエイイチが腰を伸ばしていると、石室のドアがガチャリと開いた。


「あ――」

「あれ? センジュちゃん」


 無言で入室してきたセンジュは、部屋の先客にエイイチがいることが予想外だったらしく目を見開いている。

 ショートパンツの上はぶかぶかなゆったりスウェットで、大きめの萌え袖から伸びた指先をいつもの羊ぬいぐるみに強く食い込ませる。少し顔を俯かせたセンジュは、キャップのつば下から鋭い眼光でエイイチを睨めあげた。


「……おまえ、ここで何してるの」

「え? いやまあ、見ての通りなんだけど……」


 干したばかりのマリの下着を指差すエイイチ。センジュは眉をひそめて嫌悪感剥き出しに物干しスタンドを見やると、吐き捨てるように言う。


「二度とここ使うな。いいか、絶対に余計なことすんなよ。エーイチ」


 センジュはぬいぐるみを抱きしめたまま、肩を怒らせて部屋をバスルーム側へと抜けていってしまった。結局何をしに来たのかわからなかったのだが、センジュの目的よりもぶっきらぼうな口調の方がエイイチは気になる。


「エーイチ、か」


 ついこの間“エーイチせんせ”などと愛らしく呼んでくれた姿はどこへ置いてきたのだろう。あきらかな歳下から呼び捨てにされるのも、それはそれで高まるものはあれど心境の変化が知りたい。


「使うなって言われても、一応俺の部屋なんだよなここ」


 そして、おわかりいただけただろうか。

 この用途不明の石室は、以前述べた通りヒツジにとってセーフティルームなのだ。アヤメ以外立ち入ることが不可能なはずの部屋に、どうしてセンジュは何食わぬ顔で入室できたのか。

【豺狼の宴】ならばやはり不安を煽るミュージックをバックに主人公が考察するところであるが、エイイチにそのような役回りは望むべくもない。


 とりあえずこれ以上センジュを刺激しないよう、せめて壁際に移動させようとエイイチが物干しスタンドを持ち上げた瞬間。


「おわっ」


 物干しスタンドの四本脚に蹴躓いてしまい、慌ててエイイチは石壁へ手をつける。

 ゴトン。と、手をついた壁の一部が奥へと押し込まれた。


「…………」


 崩れた――わけではない。床から百五十センチほどまでの高さの四角い範囲が、わずか五センチほど奥へ凹んだのだ。どう見ても人の手による仕掛けだった。

 押し込まれた壁の床には何かを引きずったような跡があり、勘が働いたエイイチは左右の壁をペタペタと触り確認してみる。


「あ」


 すると凹んだ壁の右隣、その壁の一部が引き戸の如く左へゴトゴト動かすことができた。ちょうど凹んだ壁と同じ大きさにぴたりと収まる。新たに壁が開いた場所には丸く切り取られた井戸のような穴があり、人一人が降りられる広さの穴にはご丁寧に梯子が掛けられている。


「……すっげえ。なにこれ!? すっげえ!」


 怪しげな部屋で発見した隠し穴にエイイチは大はしゃぎだ。しゃがみ込んで中を覗いてみるも暗くてよく視認できない。ただ、かなりの深さがありそうだった。


 通常であれば館の住人にそれとなく探りを入れてみたり、あるいは調べるにしてもせめて光源くらいは用意して調査に臨むものである。しかしエイイチはさっそく後ろ向きに足を梯子へと下ろし、意気揚々と穴の中へ降りていったのだ。


 エイイチの想像以上に穴は深く、カンカンカンと梯子をスニーカーで叩く音のみがしばらく続いている。三階の壁に隠されていた穴蔵は、どうやら一階よりもさらに地下へと伸びているようである。


 狼戻館のように隠されてはいなかったが、エイイチが原作だと信じて疑わないアダルトゲームにも実は地下室が存在した。原作洋館の地下には趣のあるワインセラーが広がり、拝借したワインをヒロインと楽しむシーンがあったのだ。

 見た目が未成年の次女や三女共々飲酒して乱れるアダルトシーンは昨今のコンプライアンスに反しているのだろうが、酒と熱気でむせかえる過激なスチルイラストやテキストを以下の魔法の言葉が可能としたのである。


 ※登場人物は20歳以上です。


「マリちゃんやセンジュちゃんが酔った姿も興味はあるけど、なんか酒乱ぽい気もするし……。王道はやっぱりツキハさんかアヤメさんだな」


 酒は大人の嗜み。ツキハとベッド上でしっぽり飲み交わし、あのエロい唇のほくろが濡れる様を想像するだけでたまらない。堅物のアヤメがほろ酔いに気を緩め、メイド服をはだけさせたりなんかしたら念写能力に目覚めそうだ。

 と、幸福な未来を夢想するエイイチは恐怖心など微塵も抱かずついに地下へと降り立った。


「何も見えないな……」


 地下はひんやりと寒く静かで、狭いながらも通路が奥へ続いている。暗闇の中で左右の壁を探っていると、エイイチの手がスイッチのような物に触れる。パチンと切り替えれば、通路の天井へ等間隔に並んだ旧式の丸い白熱電球が一斉に明かりを灯した。

 ところどころの電球は切れているも、歩くには十分な光量が確保された。エイイチはホッと息を吐いて奥へ進んでいく。


 ここまで来るとワインセラーでは無さそうな雰囲気をエイイチも察していたのだが、溢れ出る好奇心は抑えられない。冒険気分満載に少年の如き軽やかさで歩むエイイチの足取りが、ふと止まった。


 奥の暗がりで、唸り声がする。

 獣が喉を鳴らすようなグルグルとした唸りだった。一本道の地下道に逃げ場はなく、さすがのエイイチも足が鈍ったとて仕方がない。

 大きく息を吐き、意を決して最奥まで進むエイイチ。


 やがてエイイチの前に姿を現したのは、世間でよく知られる大型犬よりもひと回りは巨大な黒い獣だった。


「犬? いや、狼……?」


 日本に狼がいるはずがない。だが伏せたままグルルと唸る獣の顔は、エイイチも写真や映像などで見たことがある狼そのものなのだ。ただその巨体は目を見張るほどで、全身を覆う真っ黒な体毛も長くやけにふさふさと艶がある。

 エイイチが興味本位で無警戒に近づくと、黒毛の狼は唐突に大口を開けて飛びかかってくる。


「ぅわあ!?」


 尻餅をついて顔を手で覆うエイイチ。指の隙間から覗き見ると、狼は鎖に阻まれガシャンガシャンと暴れ回っていた。石壁に打ちつけられた鎖が、狼の首と四肢のそれぞれに嵌まる枷へと繋がっている。

 立ち上がって尻を叩いたエイイチは、涎を垂らして牙を剥く黒毛の狼を少々不憫に思いながら眺めていた。


「……なんで、こんなところに」


 簡単に解説をすると、エイイチが立つこの場所は【豺狼の宴】終盤において主人公が訪れる可能性のある最重要地点である。到達するには複雑なフラグ構築が必要となり、初見ではまず発見することすら叶わない。言ってみればエンディングにも関わってくるイベントなのだが、黒毛の狼を見つめるエイイチはまるで別の思考へと因われていく。


「まさか、バターけ――……違うな。バター狼?」


 エイイチにとってここはエロゲーの世界。自分の性癖を超えた展開に驚きつつも、原作との差異はこれまでにも散々体験してきたのだ。一筋縄ではいかないことはわかっている。新たな性癖も開拓していかなければ、館の住人とハーレムを築くなど夢のまた夢。


「飼い主は誰なのか。いや、そこは問題じゃないな」


 狼戻館で過ごした日々。数々の謎。絶滅したはずの狼を地下で飼う館の住人と、住人の寝取りを狙う猟友会の関係。エイイチの頭で断片的だった情報が、パズルのピースが嵌まるかのように形を成していく。


「……見えてきた、見えてきたぞ……」


 猟友会は絶滅種の狼を追って山へ入っていた。そして館の住人は狼を地下へ隠した。狼が館に匿われていると睨んだ猟友会のおっさん連中は、それを黙認する代わりに住人へ身体の関係を迫っているのだ――。


 狼戻館が抱える現実とまったく異なる見解で答えに辿り着いたエイイチは、そういうことかと深く頷いた。同時に許すまじ猟友会、と瞳に炎を滾らせる。


 そう考えれば、猟友会の魔の手から守るためとはいえ自由を奪われた狼も可哀想だ。本当は温かい館の中で住人とペロペロしあいたいに違いない。

 エイイチは怒り収まらぬ様子の黒狼を見つめ、事情を把握した自分がせめて名でも付けてやろうと微笑みかけた。

 バター犬ならぬ、バター狼なのだから――。


「……よろしくな! バタろう」

「ガアアアアアアアッッ!!」

「ひいい!?」


 気に入らなかったようである。

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