#24

 マリとの打ち合わせも済み、借りていたホットプレートやクーラーボックスを返却するためエイイチはキッチンへ向かった。

 ノックをしたエイイチは、またツキハが中華包丁で肉を切ってやしないかとドキドキしながら扉を開ける。

 特にあの歌は頭がおかしくなるのでなるべくなら聴きたくないところだった。しかしそれもツキハに言わせればお互い様なのだが。


「――おや、何用ですかエーイチ様。あまりここへ立ち入られるのは困るのですが」


 予想に反し、キッチン内にアヤメの姿を認めたエイイチは軽く息を吐く。アヤメはいつものメイド服姿でガスコンロの前へ立ち、火にかけた鍋をまるで監視してるかのような振る舞いだ。


 ぐつぐつと煮える鍋。時折鍋をかき混ぜるために前かがみとなるアヤメ。誘うように突き出されたヒップ。


「どうされました無言で立ち尽くして。何かご用があったのでは?」


 このシチュエーション。吹きこぼれそうな鍋を背景にメイドと後ろからまぐわうという、エイイチが待ち望んだ場面そのものなのである。

 ついにこの日が来たのかと。あの憧れの台詞を発するときが来たのだとエイイチは拳を握る。


「ふ――吹きこぼれてるのは鍋だけかい?」


 気持ちがはやるあまり、まだ行為に達していないにも関わらず台詞を口走ってしまうエイイチ。緊張もあったのかもしれない。

「しまった」と小さく呟くエイイチに対し、アヤメは鍋をかき混ぜる手を止めて身を正した。振り返らず、アヤメは首の包帯に爪を立てる。


「……私の中に眠るものが見えているのですか? どうかそれ以上、私を刺激するのはおやめください」


 アヤメがどれだけ隠そうともエイイチには見えている。今にも溢れそうなほどの内なる性欲が。これまで見せつけられた多種多様な性癖は例えるならば虹。レインボーロード、すなわちアヤメが色道を極めた人物なのだという証に他ならない。いつか追いつき追い越してみせると、エイイチは覚悟を秘めた瞳でアヤメの背を見つめていた。


「聞きたいことはわかっております。先日の件ですね。エーイチ様は、私が猟幽會を扇動したと疑っているのでしょう」


 事実、アヤメはY氏と接触した際にボイラー室を攻めてはどうかと提言している。続く慶悟(※猟幽會のクロスボウガン使い)の襲撃にも関わっているのであれば、現状もっとも戦闘経験の浅いマリのナワバリを作為的に狙わせたことになる。


【豺狼の宴】において猟幽會は、徐々に狼戻館の秘密を知り恐怖する主人公の助けともなる存在だ。ようするにここでの告白は、もしやアヤメも裏では狼戻館と敵対し、味方となってくれる人物なのではと大いに期待させる場面なのだ。


 だがもちろん、エイイチの脳内では別の仮説が組み上がっていくのである。


 エイイチもおかしいとは思っていた。地下の隠し狼をネタに強請ゆすっているとはいえ、あまりに堂々と猟友会の男は館へ上がり込んでいた。あまつさえ酒を飲んでくつろぎ、メイドの乳を弄ぶという羨ましい行為にも興じている。本来後ろ暗い行為のはずであり、もっと人目を避けて忍ぶのが道理ではないのかと。

 だとすれば今しがたの言葉通り、誘いをかけていたのはアヤメの方からだったのかもしれない。


「じ、実際、どうなんですかアヤメさん?」

「……さあ。どうなのでしょう」


 思わせぶりな発言にエイイチは身悶える。こういうのは寝取られというのだろうか。それとも寝取らせという概念の亜種にでもなるのだろうか。何もわからない己を恥じるエイイチだったが、いったいなんのためにアヤメがそんな行為に及んだのかこそ大事だろう。


 明白である。

 決して驕り高ぶらず性技の研鑽に余念はなく。エイイチを置き去りにアヤメは遥か高みを目指している。登頂した先には何が待つ。神の座か。メイドというバフも相まって性の女神と化したアヤメの立ち姿は、エイイチにまるで“ついてこられるか?”と問うているかのようだ。


「……俺を試しているんですね?」

「そうかもしれません。館の誰も信用するなという私の言葉、覚えていらっしゃいますか? もし私に隙が見えればいつでも抜いて構いませんよ。どうぞ後ろからでも遠慮なく襲いかかってください」

「な――!?」


 隙だらけの背中をさらしながら言うアヤメに、例のキッチンエッチを思い描きつつもエイイチは悔しそうに首を振った。

 自分にはまだその資格がないと。知識も経験も覚悟も遠く及ばず、やはりアヤメは最後の攻略対象として君臨するに相応しい。


「やめておきます。キッチン汚すのも悪いですし。アヤメさんこそ、俺をあんまり刺激しないでください」


 憧れのシチュエーションではあるものの、けれどゲームとは違うのだ。エロゲーを落とし込んだ世界だとしても、ここが現実であることに変わりない。ゲームでは行為後の後始末など描写されることはあまりないが、もろもろの液体で汚れた床や壁を掃除するのは面倒が過ぎる。何よりマリやセンジュやツキハが現実に生きてる世界なのだと思えば、キッチンを不衛生に扱うわけにはいかないとエイイチは稀にみる真っ当な思考へと至った。


「エーイチ様。ちなみに、それはどちらの体液で汚れるとおっしゃっているのかお聞きしても?」

「ど、どっちもですよ! 俺だってそんな簡単に果てはしないですから!」

「なるほど。現状でも私と対等にやりあえるほどには自信がある、と」

「う……それは。まだまだアヤメさんを満足させるには、足りないかもしれないけど……」

「失礼。少々意地悪が過ぎましたね」


 背後で口ごもるエイイチに、アヤメはわずかに口もとを緩めた。鍋の火を止めると振り返り、揺れる黒髪を手で撫でつける。髪に隠れていない方の瞳は、エイイチに向け柔らかな眼差しをたたえている。


「では、いずれエーイチ様。その時がきたら――どちらかが果てるまで」

「ええ。アヤメさんが果てるまでは、何度ぶちまけたって俺は復活しますから」

「おやおや。それではまるで化物ですね」


 二人は微笑んだ。歴戦を共にした間柄のような、気心の知れた笑みだった。もはや関係性を正しく修復することは不可能である。


「あ、そうだ。俺、これを返しにきたんですよ」


 ようやく元の目的を思い出したエイイチは、ホットプレートやクーラーボックスをキッチンテーブルへと置く。


「それと、今日と明日ちょっとマリちゃんの用事があって。仕事休んでもいいですか?」

「休むも何も。マリ様と行動を共にするのであれば、仕事は遂行なさっているものとツキハ様も判断を下すと思いますが」

「そうなんですか? それは助かります。規模の大きな掃除になりそうなので」

「掃除……」


 アヤメは思うところがあるのか、ふいにキッチン上方の小窓へ顔を向けた。エイイチも釣られて同様に晴れ渡る空を見上げる。


「エーイチ様、明日は“満月”です。くれぐれもお気をつけて」

「はあ……」


 気の抜けた返事をするエイイチを尻目に、アヤメはしばらくの間、瞬きもせずに青空を眺めていた。




 焼肉セットを返却したエイイチだが、掃除に取りかかる前にもう一つやることがある。三階の廊下を当てもなく徘徊しながら、声を張り上げる。


「おーい! センジュちゃーん! 話があるんだ! 出てきてくれー!」


 アヤメに怒られそうな行為だという自覚はあり、なかなか姿を見せないセンジュに焦りつつも大声を出し続けた。


「おーーい!! センジュちゃーー――」

「うるっせえんだよッ! なんの用だエーイチ!」


 真後ろから聞こえた声にエイイチが振り向くと、思いきり不快感をあらわにふくれっ面をしたセンジュが腕組みしていた。

 昨夜のアダルティックな格好とは違い、ぶかぶかのパーカーを着て首にはヘッドフォンがかかっている。金髪も前髪をまとめてヘアピンで留めたおでこ出しスタイル。きっとくつろいでいたのだろうが、羊のぬいぐるみだけはしっかり腕に抱いていた。


「ごめんごめん、部屋がわかんなくてさ」

「待雪マリにでも聞けばいいだろ……。で、なによ?」

「明日、三階の廊下を奪おうと思うんだ。マリちゃんのナワバリにする。だからセンジュちゃんのマーキングアイテムを貰っときたくて」


 理路整然と説明した気になっているエイイチを、押し黙るセンジュは苛々と睨め上げる。


「……“だから”のあとから文脈が繋がってないんだよ。あのな、あたしが言う義理もないけど勝手にすりゃいいじゃん。あたしの取り除いて、代わりに待雪マリのマーキングアイテム置けばそれで終わりだよ」


 たしかにそれでナワバリはマリのものとなる。でもそれでは意味がない。エイイチの目論む姉妹喧嘩にはならない。


「ナワバリは、マリちゃんとセンジュちゃんで共有してもらいたい」

「なんだと? それが何を意味するか、おまえわかってんの?」

「もちろん。ここで白黒はっきりつけよう。マリちゃんも承諾済みだ」


 明確な意思を示したエイイチの目を見つめるセンジュ。どうやら本気で言っているらしいことがわかると、センジュは息を吐いてひらひら手を振った。


「悪いことは言わない。せめて日を改めろ。――明日は“満月”なんだぞ」


 アヤメと同じような警告をしてくるセンジュへ向け、エイイチはポケットをまさぐって取り出した布切れを投げつける。

 布切れはセンジュの顔面にぺしゃっと当たり、床へ落ちた。


「あ……?」


 俯いたセンジュの視界に入ったのは、両サイドにリボンの付いたライムグリーン色パンツだった。マリの私物であり、マーキング用としてエイイチが持ち出したものだ。


「正々堂々、勝負しようぜ!」


 エイイチがやりたかったのは、西洋における決闘の際に手袋を投げつけるアレである。

 高らかに宣戦布告したエイイチと、床に落ちたパンツをセンジュはゆっくり交互に見比べる。


「……ふ……ふはは」


 この瞬間、センジュの主観ではたしかに自身の血管がプツリと切れる音が聞こえた。


「……舐めやがって……――いいよ? やろう」


 センジュがヘアピンを乱雑に取り外せば、逆立つ金髪は炎の如く。顔を斜めに傾け、瞳孔の開いた瞳から殺気が解き放たれる。


「マリお姉ちゃんと一緒にさ、ぶっ殺してあげるからね。エーイチせんせ?」


 センジュは薄ら笑いしながら、コルク栓で蓋がなされた試験管をエイイチに握らせる。試験管には赤い液体がたっぷりと入っている。

 待望の“先生”呼びも、センジュの眼力に気圧されてしまったエイイチは嬉しさを実感できず。ただ頷くのみだった。


 それはそれとして。

 パンツを投げつけるという失礼な行為のお詫びにと“ノベルティック・ラブ”の六巻から十巻を差し出すエイイチ。

 センジュはものも言わず漫画本を掴み取ると、踵を返して廊下の奥へと消えていった。

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