#25

 中世を代表とする紋章において斜め十字に交差するサルタイアー。今まさに戦を始めんとする剣の如く、コルク栓の抜かれた試験管とライムグリーンのパンツがX字に重なって三階廊下の床へと設置された。

 これにより、当該場所はマリとセンジュの両名が共有するナワバリとなった。間もなく人智を超えし化物同士が争うバトルフィールドと化すのである。


 しかしながら決戦の日取りは明日、満月の夜。今ではない。

 エイイチはどこか神妙な面持ちで、二つのマーキングアイテムを見下ろし両手を二拍打つ。そして祈るように手を合わせて黙祷する。


「……うん。とりあえず、マリちゃんの部屋に戻るか」


 エイイチが立ち去ったあとの廊下には、試験管から漏れ出た液体がじわじわとマリのパンツを赤く浸食していく。夕暮れに染まる狼戻館は恐ろしいほどの静けさをたたえていた。




 広大な廊下の清掃という途方もない仕事を前に、エイイチは徹夜も辞さない覚悟をしていた。厳密には清掃というよりマーキングを取り除く作業なのだが、液体を染み込ませているであろう場所にセンジュがわざわざ印として漫画本を積んでくれていたのだ。

 積まれていたのは“ノベルティック・ラブ”の一巻から五巻であり、返却するついでにマーキング場所を知らせたに違いない。勝負を受けて立ったセンジュの、逃げも隠れもしないという意思表示なのだろう。

 幸い絨毯専用のクリーナーを使えば染みは簡単に落ち、決戦前夜にしてマリとゆっくり食事をとる時間も確保できたのだった。


「ただいま、マリちゃん。今日はとんかつだよ、縁起がいいな!」


 部屋の前に置かれていたトレーを持って、エイイチはマリの私室へ入った。

 エイイチが食卓に招かれなくなって数日経つが、昼と夕に関してはアヤメお手製の食事がこうして提供されている。引きこもりの次女を決して見放さない、家族の愛情を感じてエイイチは毎度涙腺がゆるむのだ。


「揚げ物かぁ……ちょっと重いね」


 テーブルに並んだ主菜へマリが投げた感想は、エイイチをひどく落胆させた。家族の愛情は往々にして当事者には伝わらない。悲しき現実である。


「マリちゃんさぁ……このとんかつはナワバリ争い必勝を祈願してのゲン担ぎだろ? アヤメさんの心遣いだよ」

「エーイチくんに対する“ブタ野郎”ってメッセージじゃないの?」

「楽しい食事の席でどうしてそんなこと言うの?」


 遅めの反抗期なのだろうかとエイイチは訝しむ。あるいはセンジュとの直接対決を前に少しナーバスになっているのかもしれない。


 ともかくとんかつ以外にも白米に味噌汁、ブロッコリーのサラダなど夕食はバランスの良い品数でまとまっていた。おやつには大皿へ盛られた殻つきのクルミまで添えられ、こんな恵まれた食事に文句をつけるなどバチが当たる。エイイチは手を合わせていただきますと軽くお辞儀をし、汁物から手をつける。


 夜が訪れた外では野犬らしき遠吠えが今日も轟きはじめた。それに比べ室内は大人しく、黙々と手を動かすエイイチを前に、マリはそっと箸を置いた。


「? 食欲ないの? マリちゃん」

「そうじゃないけど……明日は満月だね」


 窓の外へ顔を向けたマリは、わずかに欠けた待宵の月を見上げている。同様に見上げたエイイチも魅入られたように月から視線を外せなくなる。どことなく心がざわつく感覚。古来より言い伝わる通り、たしかに月にはそんな魔力めいた力があるのかもしれない。


「そういえば、アヤメさんが満月だから気をつけろって。センジュちゃんも日を改めろって言ってた」

「昂ってるのは、わたしだって同じ。……エーイチくん、見せてあげよっか?」

「な、何を? パンツ?」

「そんなもの、飽きるほど見たでしょ」


 人体が履いているパンツとパンツ単体ではその価値に大きな差がある。マリという人物込みでの、いわゆるパンチラは数えるほどしかエイイチの記憶になかった。そもそも単体のパンツにしてもエイイチが見飽きることなど決してない。


「わたしの、本当の姿」


 月の波動はマリに興奮をもたらし、満月が近づくにつれ抑えきれない闘争への欲求が高まっていく。誰にも負けるはずがないという全能感。直近で二人の猟幽會を仕留めた事実も自信へと繋がっている。

 満月に真の力が解放されるのは化物ならば必然。なにもセンジュやツキハの専売特許ではないのだ。


 マリが言った“本当の姿”なるワードに何を期待しているのか、エイイチはわくわくと正座待機している。主人に褒美をねだるペットの如き瞳の輝きは、マリの支配者然とした傲慢な思考をなぜか鈍らせた。


「見たい見たい! 真の姿たのしみ!」


 引かれないだろうか――と。

 マリの脳裏によぎるのは、かつてヒツジ達に向けられた恐怖と嫌悪。エイイチはこれまで期待に見合うだけの働きをしてきたし、その思考も行動も他のヒツジとは一線を画す存在であるとはマリも認めるところ。

 だがここでいきなり背に翅を生やしたり、たとえば外の森へ向けてエネルギー光波など撃ち放つパフォーマンスを披露するとどうなるだろう。果たして喜ぶのだろうか。マリはとてもそうは思えなかった。

 いかなエイイチとて、きっと“気持ち悪い”と怯えるに決まっている。


「焦らさないでよマリちゃ〜ん」


 別に恐怖で支配しても構わないはずなのに、生体変化を躊躇したマリは代わりにクルミを一つ手に取った。

 エイイチの眼前に突き出した拳を握りしめ、殻つきのクルミを軽く圧壊する。


「――す――……すげえ!!」


 粉々になったクルミ片を、マリがぱらぱらとテーブルへ落とす。エイイチは大興奮で実の破片だけを拾い集めて口へ放り込んだ。


「むぐむぐ……女子でそれはすごい! もっとやって見せて!」

「べつにこんなの、いくらでも」


 今度は二個まとめていっぺんにクルミを握り潰すマリ。さらに親指と人差し指のみでクルミを割る技なども披露する。

 エイイチは剥かれた実を次々に食べながら、しきりと感心していた。


「へぇ~まさかこんな特技があっただなんて……。まじマリちゃんってゴリ――怪力の持ち主だったんだね!」

「いまゴリラって言おうとした?」

「俺なんていくらやっても無理だよ、ほら――ふんんん……っ!」


 こめかみに青筋を浮かせてクルミを握るも、エイイチはやがてあきらめると息を吐く。さすがに非力ではないのかとマリも思わないわけではなかったが、エイイチに求める役割に力は必要ない。


 まあいいか、とマリは再び夜空を見上げる。

 あれほど滾っていた血潮が、不思議と月を目の当たりにしようとも穏やかに凪いでいく。本来の姿など見せなくとも尊厳を保つことはできるのだ。ならばそれでいい。


「クルミはオメガ3脂肪酸が豊富だし、食欲も抑制してくれるからダイエットとか美容にもいいんだってさ」


 偉そうに講釈を垂れつつ、マリが割ったクルミをエイイチは遠慮なく食べている。

 くだらないことで人を悩ませておいて呑気なものだ、とマリは腹いせにクルミの硬い殻でエイイチの額をコンと小突いてやる。


「痛っ。なにすんだよ……。あれ? 見てほらマリちゃん! 月のところにUFOっぽい飛翔体が!」

「はいはい。そんなことよりエーイチくん、わたしの分もクルミ残しておいてね」


 闘争は自身の役目。真に化物であることをエイイチに知らせる必要はない。今はまだ――。

 エイイチとのたわいない会話で夜を過ごし、英気を十分に養ったマリは早めに床へつくのだった。




 翌日。エイイチが狼戻館に来てついに一週間。七日もの間、よく生き永らえたものだ。素直にマリも感心するところだが、それはそれとしてエイイチを朝から追い出した。


 丸一日部屋には戻ってくるなと厳命し、センジュとの決闘にどうしても立ち合いたいというエイイチの願いも却下した。


 エイイチは不満げに文句をたらたら垂れていたが、昨日答えを出した通りこれはマリの戦い。狼戻館を根城にする化物の矜持であり、ヒツジに心配などされる謂れはないのだ。


 静かな日中を一人、マリは自室で瞑想をして過ごした。

 猟幽會相手ならばいざ知らず、敵は同じく狼戻館の悪夢センジュである。どちらか死亡してもおかしくはない。しかしいずれ館を手中に収める気でいるマリとしては、避けて通れぬ相手だった。


 どれほどの時間を瞑想に費やしただろうか。マリが開眼すると、LEDシーリングライトも灯していない部屋は真っ暗になっていた。

 いや、正確にはまん丸い月の明かりが幻想的に窓から差し込んでいる。


 時は満ちた。精神も十全に整ったマリは、一番のお気に入りへと服を着替える。奇しくもその服はエイイチに初めてお披露目した、白いセーラーカラーの私服だった。プリーツのミニスカートを揺らして部屋の扉へ向かうマリ。


 三階廊下の全域が今やマリとセンジュの共有ナワバリだ。つまり扉を開けて部屋から出た瞬間、そこはすでに戦場なのだった。


 マリが一歩踏み出した廊下は、とても戦場には似つかわしくない静謐さで満たされている。久しぶりの廊下を感慨深く歩むと中央、エントランスホール西側の手すりに背を預けてセンジュは待ち構えていた。


「……よぉ。一応もっかい確認しとくけど、本当にやんの? 今日」


 手すりから離れたセンジュと、マリは中央階段を挟んで相対する。本人なりに正装をしたマリとは違い、センジュはいつも昼間に見るラフな大きめサイズのパーカー姿だ。


「怖気づいた?」

「は。んなわけねーじゃん。あとこれ、返しとく」


 そう言って、センジュは“ノベルティック・ラブ”の五冊を自身の足下へ置く。マリにとって大事な漫画本だが、この争いに負ければ二度と読むことは叶わないかもしれない。


「まあまあ面白かったよ。でもツガイ? とかそういう概念があたしには合わなくて――」

「批評しないで。あなたが理解する必要ないから」


 エントランスの階段を挟んで東側と西側。距離が離れているセンジュへ向け、マリは片手に掴んだ五個ものクルミを突き出した。そして一気にメキメキと握り潰して見せる。


「わかる? あなたは直に、こうなる運命」


 昨夜エイイチを驚かせた特技を見せつけ、だが表情はあくまで冷淡に努めるマリ。これが強者の振る舞いと言わんばかりだ。

 なんと返していいのかわからない顔をしてセンジュは、所在なげに頭をかく。


「……はぁ。なによ、それ」


 センジュの右手、五指の爪が唐突に鋭く伸びる。実に投げやりな動作で面倒くさそうに――センジュは雑に前方を鉤爪で薙いだ。


 空間が引き裂・・・・・・かれていた・・・・・

 宙空を縦にぱっくりと裂け目が出現し、そこだけブラックホールの如き暗黒を覗かせている。マリがしばらく凝視していると、やがて裂け目は縮小したのち消失する。三階廊下は元の背景へと戻った。


 クルミを握り潰すなどという握力任せとはそもそも次元が違う芸当。しかし同じ狼戻館の化物でそれほど大きな力の差などあるはずがないと、マリはセンジュを睨みつける。


「……ふぅん。なかなか、やるね」


 まるで胡散臭い手品でも見たかのように、眉間にしわを寄せるマリだった。

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