#26
いざ始まってしまえば、姉妹喧嘩の余韻も何もない。センジュの初動はとてつもなく速かった。
センジュが拳を床へ叩きつけるとほぼ同時、マリの足下に赤い水溜りが広がる。水溜りから半円に持ち上がった水泡がみるみる膨れ、直後に破裂すると衝撃でひしゃげたマリの体を天井付近まで打ち上げた。
「――か……ッ!?」
何をされたのかもわからないまま、痛みに意識を失いかけてマリが落下する。弾けたバブルは落ちてきたマリを包むように床下へドボンと引きずり込んだ。
三階廊下の床を貫通したはずが広大な水中に投げ出され、粘度の高い赤い液体が四肢に絡みついてまともに泳ぐことも叶わない。
「ごぽ……っ……」
文字通りの血の海で必死にもがき、肺の空気は吐き出された。
深く深く底へと沈みながら、マリは背に翅を伸ばすと直上を目指し重い粘液を掻き分ける。
「ぱはあ――っ!」
砲弾の如く水面から飛び出し、宙空に静止したマリは全身からボタボタ垂れる血生臭い液体も拭わず歯を噛みしめた。瞳に怒りを宿し、センジュの姿を探して髪を振り乱す。
「――うしろ」
「な……!?」
先ほど挑発合戦で見せたワームホールを使い、センジュはマリの背部にドロップキックを叩き込んだ。斜め下へとマリが吹き飛ばされた先の床板に、また赤い水溜りが形成される。
派手な飛沫を噴き上げてマリは落水した。
「……がぼぼ――っ」
翅を伸ばして血の海から脱出する姿はさながらトビウオのようで、廊下で四つん這いになりぜえぜえと荒い呼吸をするマリを、今度はセンジュも腕組みをして見下ろしている。
「はあっ、はあっ……ぐ……卑怯……」
「……あ?」
「卑怯。それ、卑怯」
「は? いや、卑怯っておまえ」
「卑怯卑怯卑怯――!!」
マリは片膝を立て、体ごと伸び上がりながら右拳をセンジュの脇腹に叩き込む。たしかに横っ腹へとめり込んだ拳は、だが液状と化した体表の一部を抉り取ったのみ。つんのめったマリはまた顔面から廊下に突っ伏した。当然センジュにダメージはない。
「ちゃんと戦え卑怯者!」
「はぁ……おまえが可哀想になってきたよ、待雪マリ」
力の差は歴然だった。それも仕方ないことかもしれない。
エイイチは自身でマリのルートを選んだと思い込んでいるわけだが、元から【豺狼の宴】における第一章は“コドクノドクガ”。マリにスポットを当てたエピソードで固定されているのだ。
【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】とは異なり、そもそも攻略するキャラクターを選択するなどという展開は存在しない。順に巡る章毎に狼戻館住人の目的や本性、その悲哀が紐解かれ、主人公はそれでも日常への帰還のため変貌した住人を退けていくのである。
そして以前述べた通り――第一章を超え、第二章へとたどり着くためには待雪マリの死亡が必須条件。殺害方法は二種類が用意されており、内一つが協力関係を結んだセンジュによる殺害なのだ。つまり、現在のこの状況がそれに当たる。
ちなみに以前のシアタールームのイベントによりマリが死亡した場合、マリの思惑が明かされぬまま進行することになるのでやはりBAD ENDを迎える。
「ほら、これで終わりだ」
マリの立つ位置に
水面より赤い風船のように丸く盛り上がる泡。巨大に成長する水泡から逃れようとマリは飛び立つも、一足早く爆発した水泡は魚雷と見紛うほどの威力を誇る。迫り上がる衝撃にあおられ天井へ激突したマリは、自慢の翅もボロボロに頭から血の海へと落ちていく。
水落する寸前、マリは大量の蛾を解き放った。水面に蛾で足場を作り、両手をつく不格好ながらもなんとか着地に成功する。
「はあっ、はあっ、まともな勝負なら、負けないのに。力なら、わたしのほうが上なのに……ッ」
「誇るものが腕力かよ。化物としても、女子としてもどうなの? それ」
「うるさいうるさい卑怯者!!」
足場を蹴り、センジュへとがむしゃらに突貫するマリ。誰もが無謀に思うだろうが、マリはもうセンジュの顔面に一発いれなければ収まりがつかなかった。知っての通り短気なのだ。
「……黙って聞いてりゃ、さっきから卑怯卑怯ってガキみたいに――」
マリの拳をセンジュが受けて立つ道理はない。先ほどのように体の一部を液状にしてしまえば、マリの物理攻撃など簡単に無効化できるだろう。
しかし戦い方も知らないマリ如きに卑怯者と罵られ、力比べでも自身が上なのだとわからせてやる必要がありそうだ。そう考えたセンジュは拳を振りかぶり、マリを迎え撃つに至った。
マリほどではないにせよ、つまりセンジュもあまり気が長い性質ではない。
「――うるせえのはおまえだ待雪マリ!」
「死ねこのクソガキッ!!」
二人の拳がかち合った。瞬間――衝突した拳はまばゆく発光し、遅れて金切り声の如き高音がかき鳴らされる。センジュの右腕は後方に弾き飛ばされ、腕に引っ張られる形でセンジュ自身もきりもみ回転しながら三階ホールの壁面に叩きつけられた。
「な――……」
ダメージよりも驚愕が勝る。振り切った拳をだらんと下げ、肩で呼吸をするマリは全身が黄金に輝いて見える。翅のみならず、モスアイ構造のため黒くわかりにくいが瞳は複眼に、頭頂には触覚らしき器官も生えている。
その姿にセンジュもようやく合点がいった。
「……ああ、そっか。おまえが弱すぎたから、すっかり忘れてた」
センジュは肩を回すと、廊下の窓へと顔を向ける。夜空には満月が鎮座し、透けた明かりを館へ差し込ませている。
「でもさ、月の恩恵を受けるのはおまえだけじゃない。……わかるよね?」
センジュの両手の爪が、パキパキ音を立てて鋭利に伸びていく。瞳は充血したかのように赤く、口端には太く長い牙が備わる。
ふいに狼の遠吠えが轟いた。まるで狼戻館の内部から響くような吠え声に、マリは周囲に視線を巡らせる。
「よそ見してちゃダメだよ? マリお姉ちゃん。続き、はじめよっか」
つい先ほどまでのセンジュとは、纏う雰囲気が違う。ああ――
ここへきて、死ぬかもしれないと自覚する。思えば最初から勝てる気などしなかったはずなのに、なぜ昂揚するまま無謀な戦いに挑んだのか。力を与えてくれる満月に、知らず惑わされていたのかもしれない。
だからといって狼戻館の支配者に撤退はない。おそらく二の打ちのチャンスも巡ってこない。ならば一撃で決めるしかないのだと、マリは拳を握りしめた。
「……エーイチくん」
悲壮を秘めた呟きは、センジュはもちろんエイイチの耳にも届くことはなかった。
これまで【豺狼の宴】本編のみならず細部に至るまで、エイイチという存在は様々な影響を及ぼしてきた。しかし結局、物語の大筋は変えられないのだろうか。ここでマリは朽ちる運命にあるのだろうか。
否。まだ、そうと決めるには早い。
本来であればこの争いは、主人公が狼戻館に滞在し十六日目以降に発生するイベントである。現在のようにまだ七日目の、一度目の満月の晩に起こる戦闘では決してありえないのだ。
エイイチがもたらしたこの差異は、満月の力をマリに与えはしたが同様にセンジュも恩恵を授かった。二人の争いの結果には一見すると影響はなさそうにも思うが、果たして――。
局面を見定めるためにも、件のエイイチが今何をしているのか追わねばならないだろう。
◇◇◇
マリとセンジュが死合う同時刻、エイイチは地下にいた。
朝から洗濯したマリの下着を石室にて回収し、部屋へ戻るなと厳命を受けていたエイイチは暇を持て余して黒狼と遊んでいたのだ。
お土産に昨夜のとんかつの中央二切れを持参し、遊ぶといっても適度な距離を保って一方的に話しかけていただけなのだが。
「お――おお!? どうした急に吠えて!?」
突然高らかに吠えたかと思えば、黒狼はぐったりと伏せたまま動かなくなった。心配になったエイイチは駆け寄り、そっと顔に手を伸ばす。
「……よかった。息はしてる」
瞳も閉じており、黒狼はどうやら眠っているような寝息を立てている。なぜ急に寝たのだろうと疑問に思いながらもエイイチが耳の付け根を撫でれば、黒狼は喉をググと鳴らした。
「ふっさふさ。立派な毛並だなぁおまえ」
うっとりと幸福感に包まれつつ、エイイチは黒狼の頭や背中を撫でていく。絶えず喉を鳴らす黒狼は、こころなしか表情も険が取れ穏やかに見える。
調子に乗ったエイイチは、倒れたバイクを抱え起こすような姿勢で巨大な黒狼をひっくり返してしまった。
「んー? どうだ? 気持ちいいか?」
無防備にさらされた腹をエイイチが撫で回すと、黒狼は舌を出してくすぐったそうに身をよじれさせる。口角が上がり、まるで人が笑った顔にも似た表情だ。
されるがままだった黒狼に変化が訪れたのは、この時。
「あ、嬉ションした。はは、そっかそっかぁ」
さて。黒狼に快楽を与え続けるエイイチから、ここで視点を狼戻館の三階へと戻そう。
破れかぶれにセンジュへと突っ込んでいくマリ。覚悟のすべてを乗せた拳を、マリが大きく振りかぶった瞬間だった。
「――ひゃう!?」と。およそ争いの場に相応しくない声を発したセンジュが、内股でずるずると床へ座り込んでしまったのだ。
「やめ――あ!? や――くッ……そ! なん――こんな……あ、あいつ――エーイチか――っ!?」
エイイチの名に反応したマリは、センジュを目前に一瞬だけ動きを止める。何かに耐えるよう全身を震わせながら、センジュはハッとマリを見上げた。
液状化しようとしたセンジュの全身に、マリは何十もの蛾をびっしりと張りつかせ決して逃さない。
「その名前を気安く呼ばないで」
おびただしい数の蛾の隙間から、センジュがその日最後に見た光景。
風切り音すら置き去って、無音で迫るマリの拳が黄金の光を放つ。
「こんっ、の……ゴリラ――」
マリは剛腕を、センジュの頭部へと全力で打ち下ろした。
大量の蛾ごと床をも叩き砕いて、三階廊下に大穴が空く。階下へ木片をパラパラ落とす穴にはセンジュの姿形はなく、殺害現場の如き飛び散った血痕が残るのみだった。
センジュは死んではいない。だが勝負は決した。マリはまだ確認していないが設置された二つのマーキングアイテムの内、赤い液体が廊下に作り出した染みはたしかに消失していた。
「……や……やった……やった」
よろける足で壁へもたれかかったマリは、悲願を果たしたボクサーのように両手を高く雄叫びをあげた。下馬評を覆した勝利は喜びもひとしおである。
けれどマリの苦難にはまだ先がある。
「――なんかすっげえ音したけど……マリちゃーん! いるー!?」
「え……エーイチくん!?」
三階中央部の手すりから、エントランスホールを見下ろすマリ。騒ぎを聞きつけたらしいエイイチが、まさに階段を駆け上がっている最中だった。
「な、なんで来たの。……来ないで!」
「マリちゃん大丈夫!? 今いくから!」
満月の影響をモロに受けているせいか、変貌したマリはどうしても人の姿に戻れない。このままでは見られてしまう、と焦りが生まれる。一番見られたくない人物に、見られたくない姿が露呈してしまう。
「来ないでってば!! 見ないで――っ」
マリは絶望した。脳裏には、かつてのヒツジ達の恐怖に満ちたいくつもの瞳が浮かんでいた。
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